第四十二話 周囲の雑音
次の日、視聴覚準備室で、お弁当のふたを開けたタケルは、「すげっ。」と小声でつぶやいた。主菜は、鶏ささみとピーマンを炒めて味噌だれをかけたもの。さらに、小イワシの生姜煮。副菜はかぼちゃの煮つけ、ひじきの煮もの、ホウレンソウの胡麻和え。おにぎりはわかめとシラスにした。
「今日の弁当、めっちゃヘルシーそうで、かつ旨そうだよ。楓、こんなのも作れるんだな。品数も多いしさ…。」
「今までは、味のことばっかり考えて、あんまり栄養のこととか考えてなかったから…。」
私が言うと、タケルはいただきます!と弁当にかぶりつきはじめた。朝からこのお弁当を作るため、四時半に起きて、すごく眠たい。私は、自分のお弁当を食べることを忘れて、思わずうとうとする。
「……楓、かえで。」
タケルに揺り起こされて、私ははっと目覚める。
「あ、ごめん、居眠りしてた。」
「大丈夫か?寝られてない?」
「いや、昨日、勉強を夜遅くまでしてたから…。」
私は目をこする。
「弁当、めちゃくちゃ旨かったよ、ありがとう。」
タケルに抱きしめられてお礼を言われる。
「そう…、ありがとう。」
なぜだろう。タケルに褒められても、いつもほど嬉しくない。
「高校生なのに、あれだけ作れるって、楓、すげえよ。楓は絶対、いい嫁さんになれるな。もちろん、俺が嫁にもらうつもりだけどな。」
私は何もそれに応えることが出来ない。タケルの本心が、やっぱりわからない。
「あれが毎日食べられたら、俺、幸せだろうな…。」
毎日?私は毎日あんなお弁当を作らないといけないの?正直、週に一度だって、勘弁してほしいぐらい。
「あんな食事だったら、誰にも文句つけようがないよ。」
タケルのその言葉に、私は苦笑する。タケルは私には何も言わないけれど、小松さんに、今までそうとう批判されてたんだろうな、私のお弁当。
そうか、お弁当作りが大変なばかりで、楽しくないのは、作っているときに、小松さんの顔ばかり浮かぶから、楽しくないんだ。食べる人が喜ぶと思えば、お弁当だって作り甲斐はあるけれど、せいぜい批判されないためのお弁当づくりなんて、楽しくもなんともない。
「楓、好き。」
タケルは、そっと床に私の身体を横たえ、前髪をそっとかき上げて、額にキスを落とす。
「あの髪、まだしてくれないのかな?楓。」
そうか…、タケル、そんなこと言ってたな。そう思いながら、私はまた眠気に誘われて、目を閉じた。自分の唇に、タケルの唇の感触を感じたけれど、私は眠たくて、なんの反応も、抵抗もできなかった。
「かえで、楓。」
再びタケルに揺り起こされて、私は、はっと目覚める。
「ごめん、もう昼休憩終わりの時間?」
「いや、それはとっくに通り越して、もうちょっとで六時間目。」
「やだ!なんで起こしてくれないの!」
私はあわてて起き上がる。何か、唇が濡れているような感触がする。
「ごめん…、楓の寝顔があんまり可愛くて、ついつい起こしたくなくて。」
「教室、帰らなくちゃ…。」
私は重だるい身体をむりやり立ち上がらせ、視聴覚準備室を出ようとすると、タケルに捕らえられて、強引に唇を重ねられる。
「やだ…、まだキスはやめてって言ってるのに。」
私がタケルの胸を押して離そうとすると、タケルは悲しそうな顔をして、私から手を外した。
「ごめん、名残惜しくて…、最後にもう一回だけ、って思って。」
何が最後にもう一回だけ、だ。私が寝ているのをいいことに、好きなだけ唇を貪ったに違いない。私は腹が立つけれど、タケルに隙を見せた私もいけなかったのかもしれない。私は黙ってタケルを残して、部屋を出た。
教室に戻ると、休憩時間中で、立て続けの必修授業のため、クラスメイトのほとんどはそのまま教室にいて、
「おい、愛人、五時間目なにサボってんだよ。」
ニヤニヤと嫌らしく笑う男子にからかわれる。
「そりゃ、愛人だもんな、エロいことしてたに決まってんじゃんよ。」
誰かがそう言って、ゲラゲラ笑う複数の男子の笑い声がする。私は何も言い返さず、唇を引き結んで、次の授業の準備をする。何も後ろめたいことはしていない。ただ、タケルとつきあっているだけで、なんで私はここまで言われなくちゃいけないんだろう。
いつの間にか、私は、名前で呼ばれることは無くなって、「荒川の愛人」とか、ただ、「愛人」とだけ呼ばれるようになっている。
そう呼んでくるのは男子で、女の子は、私を汚らわしそうな目で見るだけで、口を利くこともほとんど無くなっている。
「荒川もすげえよな。同じ学校に、本命と二番手を堂々と作るとか、普通の根性じゃできないよな。」
「それにしても、あんな美人の本命がいながら、なんで地味な望月に手を出すか、だよな。」
「実は、望月、脱いだらすごいとか?すげえテク持ってるとか?」
私の目の前で、堂々と交わされる、下賤な噂話。廊下を歩くだけで、軽蔑するような複数の視線を感じる。……でも、私は、負けない。何も、私は悪いことはしていない。私は顎を上げて、昂然と生きる。
金曜日の物理の時間が終わると、「望月さん。」と呼びかけられて、私は振り向く。私を呼んだのは、梅崎くんだった。
梅崎くんは、他の男子のように、私を汚いような目でも見ることもなく、いつもと同じように近づいてきて、話しかける。
「なんだか、大変なことになってるね。」
私は、ふっと笑った。
「大丈夫、いろいろ言う人はいるけど、私は、なにも人から指を差されるようなことはしていない。だから、平気。」
「望月さんらしいや。」
梅崎くんは笑顔を見せて、理科室の窓に寄りかかった。
「望月さんは、こんなことになっても全然変わらないね。相変わらず、流されたりしないね。」
「そんなことないよ、私も人間だし、もろくて流されやすいとこも結構あるよ。」
「そうかな…。」
梅崎くんはつぶやいた。
「それにしても、荒川が『望月楓を、俺、本気で狙っていい?』とか断り入れてきたとき、別に僕、もう振られて関係無いんだけど、それでも天野なんかに取られるよりは、全然荒川のほうがいいかも…って思ってたんだけど。」
梅崎くんは、言葉をいったん切る。
「それでも、こんな状況になるとかまったく想像してなかったから、これだったら、天野に取られてた方が、もうちょっとマシだった気がするよ。」
「天野くんは、ただの友達だって。」
私は下を向いて笑う。
「それにしても、あんなに頑なだった望月さんを、あっさり落としちゃうとか、荒川ってすごいね。僕には素粒子の研究よりも難解に思えるけどね。」
梅崎くんはそう言って、静かに笑った。そして、ちょっと真剣な目をして言った。
「すごく噂になってるけどさ、結局望月さんの愛人説って、あのマネージャーの小松って言う子の周辺がしつこく流してるだけだと、僕は思うし、荒川が堂々と彼女って公言して、連れて歩いてるのは望月さんだけだから、荒川のこと、もうちょっと信用してやっていいと思うけどね。」
「ありがとう……。」
梅崎くんの優しい心遣いが、嬉しかった。
「……でもさ、遠くに行っちゃったっていう好きな人のことは、望月さん、あきらめられたの?」
「そういうわけじゃないんだけど…。」
私は言葉を濁す。
「なんか、そういう中途半端な気持ちでつきあってる自分自身にも、問題があって、こういう状況を招いてるのかもね。たぶん、タケルにも、私にも、少しずつ問題があるんだよ。どっちかの責任てわけでもなくて。」
「ふうん。」
梅崎くんは腕を組む。
「恋愛の力学って、難しいな。単振り子のエネルギーの法則に近い気もするけど、どんな公式にも当てはまらない。やっぱり僕には当分、無理そうだ。あの時、振られて良かったよ。」
その言い方が梅崎くんらしくて、私は笑ってしまった。
「でも、ありがとう。慰めてくれて。私、久々に『望月さん』て名前で呼ばれた気がするよ。」
「状況が好転すること、僕も願ってるよ。望月さんは悪いことしてないんだから、今まで通り、堂々としてたらいいよ。」
「ありがとう。」
梅崎くんのおかげで、久々に明るい気持ちになって、私は理科室を出た。
その日、いつものように教室に迎えに来たタケルは、どこか不機嫌だった。学食で食事していても、むっとした顔をして、私が話しかけても、あまり返事もしない。機嫌が悪いなら、無理に一緒にいなくてもいいのにな…と思いながら、砂を噛むような気持ちで、お弁当を口に運ぶ。
食事を終えると、ノートづけもそこそこに、タケルは私の腕をつかんで、いつもの視聴覚準備室に連れて行く。
「…どうしたの?タケル、今日は。」
タケルは怒った眼をして、私をにらみつける。
「今日、楓、梅崎と楽しそうに話してただろ、理科室で。外から見えた。」
「そんなこと?そんなことで怒ってるの?タケル。」
私はあきれる。
「梅崎くんは、タケルの友達だよね?なんでそんなことで怒るの?梅崎くんは言ってたよ。『いろいろ噂はあるけど、荒川を信じてやれ』って。」
「だって、梅崎はもともと楓のことだ好きだったわけだし、慰めるふりをして、楓に取り入ろうとしてるかもしれないだろ?」
「最低。友達相手に、そんな勘ぐりするなんて。」
私は腹を立てて、部屋を出ようとすると、タケルに腕を掴まれる。
「待てよ。楓だって悪いんだろ、あいつには心許してるみたいな笑顔見せてるくせに、俺の前じゃ、ここんとこ笑いもしない。楓が何考えてるか、俺にはわかんないよ。」
タケルの顔が泣き出しそうに歪む。
「言ってよ、楓の正直な気持ち。ちゃんと言葉に出さないと、俺、わかんないだろ。」
「私の正直な気持ち……。」
私は、じっと空を見つめる。
「もう……別れたい。友達に戻りたい。」
自分で、自分の口からこぼれた言葉に愕然とする。
「なんだよ!それ!」
タケルの両手が私の肩に強く食い込んできて、痛い。
「……だって、私、なんて呼ばれてるか知ってる?『荒川の愛人』よ。もう、こんなのたくさん。誰もがそう信じ切ってる。もうこんな状況、耐えられない。正妻然とした小松さんに、私の作るお弁当の中身まで、あれこれ口を出されるのも、もう耐えられない。無理。」
堰を切ったように、私の言葉は止まらない。
「なんで小松さんに、デートの外食の中身までケチをつけられなきゃいけないの?『荒川とつきあうなら、火遊びされるぐらい平気』なんて言って、小松さん、タケルとつきあってることを隠そうともしない。小松さんが大丈夫でも、私は無理。こんな状況で、どうやって、タケルのこと、好きになれって言うの?もう別れて。」
「小松が……そんなこと言ったの?楓に?」
タケルは呆然とする。
「小松はただのマネージャーだよ!あいつがなんで楓にそんなこと言ってたのかわかんないけど、食事ノート付けるのは俺の日課だし、それをマネージャーに計算させるのも、当たり前だって思ってた。でも、それが楓を傷つけるなら、もうやめる。」
タケルはそう言って私を抱きしめる。
「楓が嫌だと思うこと、全部改めるから。だから、別れるとか言うなよ。俺には楓しかいない。ほんとだよ、信じて。」
「ごめん、もう、もう無理。気持ちが限界なの。私はもう、努力できない。タケルのためにお弁当作れって言われても、もう作れない。」
「弁当なんかどっちでもいい!俺から離れないで!駆みたいに俺を置いて行くなよ、楓……。」
弱々しくそう言われて、私の身体から力が抜ける。
「ずるいよ、タケル。こんな時に駆の名前を出すなんて…。」
いつかの屋上の時みたいに、私はタケルの腕の中で泣きじゃくっていた。力なく私はタケルの胸をたたくけど、私を抱きしめるタケルの腕はびくともしない。
「ずっと一緒にいようって約束したよな?俺ら。ずっと離さないよ。楓が嫌でも、俺は楓を離さない。俺らはずっと一緒にいなきゃいけないんだよ。」
抵抗する気の失せた私の顔に、タケルはまた、キスの雨を降らせていた。それは、昼休憩の終わりのチャイムが鳴ったしばらく後も続けられた。
やっとタケルの腕が離れて、私は急いで教室へ向かう。五時間目が始まって十分ぐらいは経過している。教室の後ろのドアを開けると、何人かが振り向いて、こちらを見てくる。先生はまだ来ていないようだ。
「愛人、今度は遅刻かよ、髪、乱れてんぞ。」
クラスメイトの男子にそう言われて、私は、はっと髪に手をやる。
「良かったな、望月。先生遅れて来るってよ。エロいことしてて、遅刻したのばれなくってラッキーじゃん。」
そういって、男の子ら数人が下世話な笑い声を立てると、バン!と大きな音がした。一番前の席に座っている天野くんが、両手で机を叩いたのだ。
「君ら、いわれなき誹謗中傷で、誰かを傷つけるの、もうやめにしろよ!」
いままで聞いたことのないような天野くんの激しい口調に、教室中がシーンとした。
「フェミニスト天野が、女の悪口はやめろってよ。」
誰かがぼそっと言った。
「やさしい王子様は、女が悪く言われるのは気に入らないんだろ。ま、俺も聞き苦しいし、もうその辺にしといたら。」
誰か他の男の子も、そう言っているのが聞こえた。クラス中が静かになり、やがて来た先生が出席を取りはじめても、私は、けしてこちらを振り向こうとしない天野くんの背中を、ただ黙って見つめていた。




