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第四十一話 ただのマネージャー?

「昨日は楽しかった。」

 タケルは月曜日、いつものように私を腕の中にして、後ろから抱きしめてささやく。

「うん。私も。思い出話できただけじゃなくて、タケルの行きつけのお店とかも行けて、タケルのことが少しわかってきたような気がするよ。」

「そっか。俺の死んだばあちゃん、博多の人間でさ、あの店に通うの、半分はおばさんの博多弁を聞きに行くようなもんだよ。」

「そうなんだ。」

「おばさん、もうこっちに来て、四十年以上経つっていうのに、いまだにあんなに訛ってるんだぜ。すごいだろ。」

 タケルは静かにくすくすと笑う。

「そうだね、その染まらなさ、うらやましいよ。」

「そうか?俺は、楓をもっと、俺色に染めたい。俺のこと、もっと知ってほしいし、お気に入りの場所ももっと教えてやりたい。」

「そうだね、教えて。私も、もっと、タケルのことを知りたいよ。」

「楓、可愛い。」

 タケルはそっと唇を私のまぶたに押し当てる。私は、そっと目を閉じながら、こんな穏やかな日々が続いていくなら、遠くない未来、タケルを好きになれるかもしれないな、と考えていた。

 ……けれど、現実はもっと冷たく、厳しくて、そんな私の甘い考えは簡単に覆されていく。


 その日の放課後、廊下で私は、「望月さん。」と女の子の声で呼び止められた。振り返ると、そこにはバスケ部のマネージャー、小松さんが立っていた。私は驚いて、その場に固まる。

 小松さんはつかつかと私の前に近づいてきて、立ち止まる。

「あなた、日曜日の試合後、荒川と出かけて、昼食と夕食、一緒に外食したわよね?そうでしょう。」

「なんでそれを…。」

 私は衝撃で、言葉がうまく出てこない。

「昼食は、動物園のレストランで摂ったってことだけど、ああいうところはジャンクフードが多くて、あまり荒川の食事に適してないと思う。あと、夕食はマサおばさんのお店で摂ったみたいだけど、内容が、炭水化物が多すぎる。荒川に任せていたら、好きなものしか頼まないから、あなたがもっと気を使って注文すべきよ。」

 なぜ、私はこんなことを小松さんに言われなくてはならないのだろう…。

「私が荒川と一緒に行くときは、餃子はやめさせて、野菜炒めやニラレバ炒めなんかを注文してるわね。トマトだけじゃビタミンが不足していると思う。」

 私は、唇をかんで、うつむき、小松さんの言葉を黙って聞く。

「あと、あなたの毎週作ってるお弁当のことだけど…。」

 小松さんはさらに言葉をつづけ、私は思わず顔をあげて、目を見開く。

「あなたの作るお弁当は、緑黄色野菜が不足していると思う。あと、アスリートは鉄分とカルシウムがもっと必要だから、小魚とか、ゴマなんかをうまく利用して。それから、鶏肉はもも肉よりも、ささみや、皮を除いた胸肉、牛や豚はカルビやバラ肉じゃなくて、脂質の少ないロース肉を使って。」

 タケルがいつも記録している食事ノート、それを小松さんがチェックしているのは知っていたけど、私と一緒に摂った外食や、さらにお弁当の中身まで記録しているなんて、知らなかった。

「お弁当には卵焼きをいつも入れてるみたいだけど、黄身はコレステロール分が多いから、たとえば今まで卵を三個使ってるとしたら、白身四個と黄身を一個か二個にするとか、細かく気を使うことも必要ね。味が良ければいいってもんじゃないの、アスリートの食事は。」

 小松さんの綺麗に赤く彩られた唇から、流れるように出てくる、私のお弁当を批判する言葉。私は屈辱の言葉を、唇を噛んで受け止める。そこへ通りかかった知らない男子が、

「おお?本命と愛人の修羅場か?」

 などとからかって来た。

「そんなんじゃない。彼女の作る荒川のお弁当が、内容が良くないから改善するように指導してるだけよ。」

 小松さんは当然のように答える。

「へえ、荒川は本妻には、愛人が作った弁当まで報告するんだ。尻に敷かれてるな、荒川。」

「当然でしょ?私がいないと、荒川は活躍できないもの。」

「できた嫁だな、愛人に栄養指導とか。」

「荒川とつきあうなら、これぐらいのこと、何でもないわ、私はね。彼をトップアスリートにすることが、私の使命だから。」

 小松さんはそう言い切ると、肩をそびやかして、その場から立ち去って行った。その男子はケケッと私をあざけるように笑うと、

「ま、愛人も大変だな、がんばれよ。」

 と、馴れ馴れしく私の肩を叩いて、その場を離れて行った。私はその場の視線に耐えられず、足早に廊下を立ち去り、自分の教室に飛び込んで、自分の席に座って、机に顔を伏せた。クラスの誰も、そんな私に声をかけたりしなかった。

 次の日、タケルがいつものように昼、私を迎えに来た。

「今日は行きたくない…。」

 私が軽く拒否すると、タケルは顔色を変えて、私の弁当を掴んで、私の腕を持って引きずるように教室から連れ出した。

「どうした?楓。」

 廊下で、身をかがめて、私の両肩に手を置き、私の目をのぞき込むタケルの目を、私はいま、見たくない。顔をそむけて、

「今日はひとりでいたいの。」

 と言うと、タケルは悲しそうに首を振る。

「ダメだ、こんな顔している楓、一人で置いて行けない。学食に行きたくないなら、購買で何か買うから、二人になれるところ行こう。話を聞くよ。」

 そう言われて、私は昨日、小松さんに言われた言葉が頭をよぎる。また、購買のおにぎりなんかをタケルに食べさせていたら、小松さんに何を言われるかわからない。

「わかった、今日も学食、一緒に行くから、タケルはちゃんとした食事して。」

「楓はそれで大丈夫?」

「だいじょうぶ…。」

 今日は廊下を歩く時も、タケルは私が逃げないように、と思うのか、腕を離してくれなかった。行き交う生徒の視線が痛い。私はいつも以上にうつむいて、学食までの遠く感じられる道のりをのろのろと歩いた。

 あまり味を感じられないお弁当を口に運びながら、タケルが食事をして、きちんとノートをつけている姿を私はぼんやりと眺める。私の前では、学食の時しかこうやってノートをつけていないけれど、私のお弁当を食べるときも、あとでこっそりと内容を記録して、小松さんに見せているなんて知らなかった。どうして、私には内緒にしているのだろう。小松さんがただのマネージャーなら、堂々と私の前でも記録をつければいい。それをしないのは、結局私との関係が後ろめたいからじゃないのか。

「荒川とつきあうなら、これくらい当然。」

 そう言っている小松さんの声が頭の中でリフレインする。タケルがいくら私を彼女だと言っても、小松さんが本命、私は二番手っていうのは、もう覆せない事実なんじゃないか。そんな気持ちが、私の食欲を奪っていく。

「楓、もう食べないの?」

 いつの間にか食事を終えたタケルが、心配そうに私の顔を見てくる。

「あ、今日はちょっと食欲なくて。」

 私は急いで、半分以上残ったお弁当に蓋をする。残ったおかずをタケルに食べられて、それもノートに記録される、なんて思ったら耐えられない。

「そっか…体調悪いのか?それとも悩みがあるのか?あとでゆっくり聞くよ。」

 タケルはそう言って、トレイを片付けはじめた。タケルが片付けている間に、教室に帰ってしまおうか、とちょっと考えたけれど、どうせそうしたら、タケルはまた必死で追っかけてくるだろうし、これ以上目立つことは避けたい。私はあきらめて、タケルが戻ってくるのをその場で待った。

 いつもの視聴覚準備室で、タケルは私を膝の上に乗せて

「なあ、なんでそんな悲しそうなの?俺に話してよ、楓。」

 と、タケルは私にささやく。

「日曜日は、あんなに楽しそうにしてくれて、俺、嬉しかったのに。」

 タケルの声も、哀しそうに低くなる。

「別に…、タケルのそばにいるべきなのは、私じゃないほうがいいんじゃないかって、思うだけ。」

 そう言うと、

「なんだよ…それ……。」

 タケルの声が怒りでかすれる。

「俺には楓しかいないって言ってるだろ!なんでそんなこと言うんだよ?」

「だって……。」

 私は唇を噛む。タケルは後ろから私を強く抱きしめて、

「俺らのこと、いろいろいう奴らがいるのは知ってる。楓も、関係ないやつらにあれこれ言われて、気が滅入るのはわかるけど、そんな、どうでもいいやつらの言葉より、俺を信じてよ。俺には楓だけ、ずっと、楓だけだから。」

 どうでもいいやつらでも、関係ないやつらでも、無いんだよ…。私は、小松さんの勝ち誇った微笑みを思い浮かべて、ため息をつく。

「俺ら、まだ付き合ったばっかりだし、変に俺が目立つから、みんな面白がってあれこれ噂するだろうけど、そのうち、飽きて何にも言われなくなるから、もう少し我慢して。」

 タケル、違うよ、そういうことでも無いんだよ。私はそう思うんだけど、私はタケルに、小松さんに言われた言葉の数々を、言うことがどうしてもできない。

「明日、俺、楓の弁当、楽しみにしてるから。」

 タケルは後ろから、私の耳にささやいてきた。私は背筋の寒くなる感覚を覚えて、その言葉に素直にうなずくことができなかった。


 

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