第二十二話 天野くんのほんとうに描きたいもの
雨の中、家に辿り着くと、玄関扉の前で、天野くんが待っていた。
「やっぱり待ってたんだ。」
私は微笑んで、玄関ドアを開けた。今日は天野くんは、雨のせいか、普通の服装だった。
「少し濡れてるね、傘持ってなかった?」
天野くんに心配そうに尋ねられる。
「持っていたけど、濡れたくなった。暑かったから。」
「……ちゃんと断れた?」
「うん、断ったよ。」
そう言うと、天野くんに引き寄せられて、私の頭は、天野くんの胸にぶつかった。抱きしめられるでもなく、そのままの姿勢で、頭を天野くんに撫でられる。
「よく頑張ったね、疲れたでしょ。」
思いがけずねぎらいの言葉をかけられ、私はしばらく、そのまま額を天野くんの胸につけていた。天野くんの胸は、太郎に抱きしめられた時の無機質な感じとは違って、規則正しい鼓動が聞こえて、暖かかった。
……梅崎くんは真剣だった。その真剣さに押され負けずに、きちんと自分の言葉で言いたいことを言えたのは、やっぱり天野くんのおかげだと思った。
「ありがとう。」
小さな声で私は天野くんにお礼を言った。天野くんは、黙ってしばらく、私の頭を撫で続けていた。
「上がってよ。お茶、入れるから。」
しばらくして、天野くんの胸から頭を離し、私は言った。
「いいよ、それより、もう遅いし、晩メシの支度しよう。俺、材料買って来たよ。」
天野くんは微笑んで言う。
「え、もうそんな時間?」
私は、驚いてサボ太郎の横に置いてある時計を見ると、午後の五時半を過ぎていた。
「天野くん…いつから待ってた?」
「そんなこと気にすんな。さ、靴脱いで、あんたは寝室で着替えて来いよ。今日は俺が作ってやるから、あんた休んどけ。」
「でも…。」
「早くしろ、風邪ひくぞ。」
天野くんに追い立てられるように寝室に行き、パーカーとデニムに着替える。…て、今日はこんな服装でいいのかな?キッチンに行くと、天野くんはすごい勢いで野菜を細かくしていた。
「何作るの?」
「ポークカレーとチキンサラダ。あんたはソファーに座っとけ。」
「悪いよ…手伝うし。」
「じゃあ、そこの鶏のささみをボイルしてむしっとけ。あとは俺がやる。」
言われた通りに、小さな行平鍋で鶏をゆでる。
「鍋に塩、入れたか?」
「小さじ一ぐらい。」
「足らない、もう二杯入れとけ。」
「わかった。」
言われた通りに、鶏をゆで上げると、熱くて触れそうにない。どうやってむしろうか、と箸でつついていると、
「氷水で冷やして、手でむしれ。」
と、フライパンで材料を炒めている天野くんから指示が飛ぶ。もう一つのコンロで、早くも天野くんは何やら煮はじめている。うちの圧力鍋を、自分のもののように扱い、あっというまにポークカレーを仕上げていく天野くん。
私が冷やした鶏をゆっくりむしっている間に、サラダも出来上がって、その上に鶏を乗せるように指示される。私が言われた通りにすると、その上から、市販のゴマドレをかけていく天野くん。適当に描けるんじゃなくて、さらさらと絵を描くように綺麗な並行する直線でかけていき、向きを九十度変えて、同じようにドレッシングをかけていく。
「すごい、絵みたいに綺麗。」
私が感心して眺めていると、
「料理だってアートだろ。米、冷凍してあるんだろ、溶かしとけよ、俺、三杯な。」
当然のように天野くんに指示される。私がご飯を解凍している間に、小鍋で卵をゆで始めた天野くん、なにに使うんだろう。サラダはもう完成してるよね?
私が家に帰ってから二十分足らずで、「できた。」と天野くんの声が響いて、夕飯が完成した。
「すごい、手早い。いい主婦になれるよ、天野くん。」
私は目を丸くして感心すると、天野くんはふっと笑った。
「一人で生きてく覚悟してるんなら、なんでも自分でできなきゃダメだろ。って、同じこと、あんただって、思ってるんじゃないか?」
「うん、そうだよ、よくわかるね。」
「わかるよ。いつでもピシッとアイロン効いたブラウス着てるし、弁当も手を抜かず毎日作ってきてる。一人暮らしだってのに。」
「さすが観察家天野くん。」
からかうように言うと、天野くんはまた笑った。
「さ、ちょっと早いけど、夕飯、食うか。」
「そうだね。」
ダイニングテーブルの自分の椅子に座るように指示される。器に綺麗に盛られたカレーライスが登場して、紙のナプキンで丁寧にくるまれたスプーンが登場する。
「すごい、レストランみたい。」
私が言うと、「ホテルマンになる練習。」と天野くんはにっこりした。カレーライスには、さっき天野くんが作ってた半熟卵が添えられていた。
「俺、カレーライスに卵添えるの好きなんだよ。旨いから食ってみな。」
「うん、ありがとう。初めて食べるけど、美味しそう。いただきます。」
小鉢に取り分けられたチキンサラダもおいしそうだ。私はそれから手をつける。
「美味しい!」
千切りにされたみずみずしい野菜と、鶏とゴマドレッシングが絶妙に絡まりあう。
「棒棒鶏サラダ、旨いだろ、俺、これ、好きなんだ。」
小鉢に盛られたサラダを豪快に二口ぐらいで平らげてしまった天野くんは、お代わりにさっさと手を伸ばす。カレーも美味しかった。半熟卵とルーが絡み合って、マイルドな味わいだった。
「カレーも美味しいよ、って早っ、もう食べ終わったの?」
天野くんはあっという間に食べ終わって、早くも二杯目のカレーをよそうために立ち上がっている。
「あ?あんたもさっさと食べないと無くなるぞ。」
天野くんは私の前に座り込んで、二杯目のカレーをガツガツ口に入れ始めた。私は少しずつカレーを口に運びながら、天野くんの様子をじっと観察してみる。栗色の髪で天野くんの目がよく見えないけれど、整った輪郭の上に、すっと通った鼻筋。形の良い口を豪快に開けて、カレーを食べている天野くんが、見た目となにか不釣合いでおかしい。
「何見てるんだよ。」
天野くんに感づかれてしまう。
「んー、天野くんてさ、学校でとここでって、全然違う顔見せるよね。学校では『僕』とか言っちゃってるのには、ここでは『俺』だし、女の子も『きみ』って呼ぶか、名前にちゃん付けなのに、私には『あんた』しか言わないし。」
「あー、だって女の子はああいうの好きなんだろ?王子様みたいなヤツ?そう思われてる方が、こっちも似顔絵頼みやすくて、都合がいいし。」
まあ、確かに粗暴な感じがするより、柔らかい物腰のほうが、女の子ウケはいいだろうけど。実際、似顔絵王子とか呼ばれてるし。
「使い分けが上手だね。」
「あんたの前では、気取んなくていいから、楽だけどな、俺。そんなことはいいから、早く食っちまえよ。」
「そっか、今日はまだ描いてないもんね。」
「いや、今日は描かないつもりだけど。代わりに見てほしいもんがある。」
「へ、描かないの?」
私は驚く。今まで私が嫌がろうがどうしようが、無理やりポーズ取らせて強引に描いてきたのに。
「ああ、今日は見て欲しいの、ほんとに俺が描きたいもの。」
天野くんが、ほんとに描きたいもの……?




