第十三話 太郎へ八つ当たり
水曜日、家に帰ると、太郎は歩く練習をしていた。手をぴっちり脇につけて、ぎこちなく歩いてる姿がなにかおかしい。
「ただいま、太郎。また歩いてるの?」
後姿の太郎に声をかけると、太郎はびくっとして、転びそうになって慌てて浮き上がった。そのままふわっと私の方に飛んでくる。
「ごめん、練習に夢中になって、お出迎えするの忘れてた。」
「別にいいよ、普段もいつも玄関にいてくれるじゃん。」
私はうっかりとそう言うと、太郎はなんのこと?と言うように、首をかしげてきた。太郎がいない日は、いつも私は玄関のサボ太郎に「ただいま。」と言っているのに、コイツは気づいていないのか?
「歩くときはさ、そんなに手をぴったり体につけるんじゃなくて、身体から少し離して、手を軽く振ると歩きやすいよ。」
私がそう言うと、太郎はうなずいた。
「わかった、やってみる。」
素直に言う太郎が面白い。私はふっと笑った。すると、太郎はニコッと笑って、
「いいね、だんだん笑顔が自然になってきたよ。天野くんのおかげかな?」
「天野くんかあ…。」
この間の爆笑姿を思い出して、私は顔をしかめる。
「順調にリハビリできてると思うよ。だんだん、会話も増えてきてるし。」
太郎は嬉しそうに言った。
「天野くんのおかげか、最近、ずいぶん学校でも表情が柔らかくなったし、男の子にも話しかけられること、増えた気がするよ、楓。」
「そうかな…。」
天野くんのせいかどうか、わからないけど、確かに最近、男の子が「来週の時間割変更って何?」とか、「次の授業、どの単元から始めるんだっけ?」みたいな何気ない会話をしてくるようになった。
別にただ、それだけで、その男の子たちも、クラスのほかの女の子とはもっと喋ってるから、どうって言うことも無いんだけど、そんな会話すら今まで皆無だったから、今までの私は、よほど話しかけにくかったに違いない。
「そこ、別に必要ない要素だけどね、私に。」
「いやいや、いい傾向だよ。どうせ、理系ってことは、一生男性に囲まれて仕事することになるんだから、楓も普通に男性と喋れないと、ダメでしょ。」
「まあ、確かに…。」
太郎は空中であぐらを組んで、ぷかぷか浮きながら、的確なアドバイスをしてくる。
「このまま、天野くんとリハビリを続けてたら、そのうち、もっといい出会いがあるかもしれないから、しばらくは相手してあげなよ。」
「だーかーらー、駆の顔で…。」
私はそう言って、言葉を飲み込む。最近、太郎の顔が、駆の顔に見えなくなってきたのだ。駆の顔をしてても、太郎は太郎だ。ふわふわ浮いて、いろいろ心配して私に話しかけてくるけど、表情がやっぱり、駆とは違う。不意に頬に、涙がこぼれた。
「太郎のせいで…私、駆の顔がわからなくなってきちゃった。」
「え?どういうこと?」
太郎が焦った声になる。
「駆の顔を思い出したいのに、駆の顔が太郎に見えて来ちゃうの。」
「……だって、僕、駆くんのスーツ着てるから、同じ顔だよ?」
「体や顔は一緒でも、やっぱり中身が違うから、駆の笑顔と、太郎の笑顔は、ちょっと違うの。でも、最近、駆の笑顔が思い出せない。太郎のせいだ、ばかやろう。」
「そっか…一卵性の双子みたいなもんだもんね。DNAは全く一緒でも、心が違うと、別の人になっちゃうもんね。」
太郎は沈んだ声で言う。
「駆、駆、会いたいよ。」
ソファーにうつぶせになって、私は号泣した。駆の笑顔が、全部太郎に上書きされていくのが、とてもつらい。私は、駆の写真を、よく考えたら一枚も持っていなかった。
私と駆は、家は隣同士だったけど、私が小学校二年生の時に転入して入ってきたから、純粋な幼馴染とはちょっと違う。クラスもずっと別で、たまに会って、一緒に帰ったり、近所でちょっと遊ぶ男の子。そんな仲だったし、親同士も、ちょっと距離感があったから、一緒に並んで写真を撮ってもらう、ていう感じでも無かった。もし、あの時、駆が死なずに、私が告白して、付き合うことになったら、一緒に写真を撮ったり、プリクラもしたりしたのかもしれないけど、それもかなわなかった。
思い出の中だけの駆の笑顔が、全部太郎に書き換えられていく。
「ごめん、楓。今日は僕、外出しておくよ。窓、閉めておいて。」
太郎が沈んだ声で、そう言った。私が驚いて顔を上げると、窓が網戸になって、カーテンが揺れていた。太郎の姿は、どこにも無かった。
そっか、外に出ると、太郎、姿が消えちゃうんだっけ。私はのろのろと起き上がって、窓を閉める。
太郎は、別に悪くないのに、八つ当たりしちゃったな…。太郎は、依頼者に頼まれて、純粋に、私の心配をしてくれてるだけなのに。さっきは顔も見たくない、って思った太郎だけど、ほんとうにいなくなられてしまうと、ちょっと寂しい気もする。
「謝らなくちゃ…。」
でもどうやって?太郎はきっと、今晩は帰ってこないだろう。来週の水曜日まで?それじゃ、ちょっと遅い気もする。
……そっか、手紙。最初に太郎が来たとき、太郎は手紙を残してくれていた。太郎は、ちゃんと字が読める。テーブルの上に手紙を残しておいたら、きっと太郎は読んでくれるだろう。私は、ルーズリーフを一枚取り出して、太郎に手紙を書いて、リビングのテーブルの上に残しておいた。




