第十一話 リハビリ
次の水曜日、私は玄関を開けると、逆さになった太郎が、すっと上から降りてきて、私は小さな悲鳴を上げた。
「ちょっと!逆さ吊りみたいな恰好で降りてこないでよ!びっくりするから!」
「ごめん、ちょっと考え事してたら頭が重くなって…。」
太郎はくるりと元通りの姿になって、そっと床に足を下ろす。…最近、太郎は、靴を履いた姿では現れなくなった。もともと、部屋の中で靴なんか必要ないのだ、そのことにやっと気づいたのかもしれない。そして、太郎は、ソファーへ向かって、そろっと歩きはじめた。両手でバランスを取りながら、ふわり、ふわり、空気を踏むように、ダンサーのように軽やかに。ソファーに無事にたどり着くと、腰かけて、こっちをくるっと向いて、太郎は、駆の笑顔で笑った。
「どう?ちょっと歩く練習したんだよ!楓が学校行ってる間に。」
「歩いてはいた、けどね。」
私はぷっと吹き出す。
「まるで綱渡りするみたいな、不思議な歩き方するね。手なんか広げちゃって。駆とは全然違う。」
「そっか……まだまだ修行不足だね。また練習しておく。」
太郎は困った顔で頭をぼりぼり掻く。
「黙って、じっとして、ソファーに腰かけて笑ってるのが、一番駆っぽくていいよ、太郎は。」
「別に駆くんの身代わりに来たわけじゃないからね、僕。」
太郎が口をとがらせる。
「わかってる。私に恋人が出来て、笑うようになるまで、て言うんでしょ?どうせ、太郎は。」
「……でも、ずいぶん、天野くんがここへ来るようになって、笑うようにはなったよ。クラスの女の子みたいに、大口開けて笑うってとこまではいかないけどね。」
そうなのだろうか。私はため息をつく。そんな私を見て、太郎は笑って言う。
「天野くんは、つかみどころのない人だね。でも紳士だし、安全そうだから、とりあえずリハビリに利用したらいいんじゃないかな。」
「なんのリハビリよ。」
「いろいろ。たぶん、楓は、駆くんが亡くなってから、ほかの人との距離感がうまくつかめなくなってる。でも、天野くんは絶妙な距離感で近づいてくるよね。向こうが、楓をモデルとして利用するなら、楓も天野くんを利用するといいよ。」
太郎はなかなか鋭い指摘をする。
「いい人でも、悪い人でもないけど、天野くんは、わりと信用できる人だと思うよ。このまま仲良くしてたらいいんじゃない?」
そう言って、太郎はまた浮き上がってふわりと一回転する。やめろって言ってもやめないのは、癖なんだろうな。太郎は、もう無闇に、天野くんを恋人に、って推さなくなった。太郎も学習したのかもしれない。私が、駆の顔をした太郎に恋を勧められることが、何よりも嫌なことに。
「どうやったってさ、パートナーが出来なくても、社会の中で生きていくなら、ある程度、人との関わりって必要みたいだし、かといって、クラスの女の子たちに何か誘われたら、それを一緒にやるだけみたいな、一方的な関係だけでも面白くないでしょ?」
「まあ、ね。」
「僕も、長期戦になる覚悟ができた。できれば、楓を積極的に口説いてくる男の子が現れたほうが都合よかったし、天野くんの存在は中途半端だけど…。」
中途半端、か。
「でも、簡単に、楓の決意は揺らがないみたいだから、僕はもう少し、二人のことを見守ってみるよ。」
「それはどうも。」
「せっかくだし、楓ももうちょっと、天野くんのことをいろいろ知ろうとしてみたらいいじゃん。これもリハビリの一環だよ。」
……やっぱり、遠回しには天野くんを勧めてる気もしないでもないんだよね、太郎。ちょっと語り口が巧妙になっただけで。
土曜日、ゆっくりと私はアイロンがけをしながらテレビを見ていた。土曜日の私の日課だ。毎朝、制服に一応アイロンがけをするのだけど、ハンカチや、私服などは、土曜日にまとめてかけてしまう。
季節は六月。だんだん蒸し暑くなってきた。
「……梅雨前線が、次第に活発化し、来週半ばには、全国的に梅雨入りする見通しとなっています。」
テレビの週間天気予報はそう言っている。天野くんは、いつも、趣味だか小遣い稼ぎなのか知らないけど、うちのマンションの目の前の公園で公園の客の似顔絵を描いた後、いつも私の家に寄る。ということは、もしかしたら、雨の日は、天野くんは来ないのかもしれない。
太郎は、ああ言ってるけど、やっぱり生身の男の子が毎週毎週、訪問してくるのは、ちょっと気づまりだ。日曜の午後は、天野くんが来ると思うと、うかうか外出もしてられない。あんまり妙な格好の天野くんに玄関前で待たれると、近所のひとにおかしな眼で見られかねない。
「はやく梅雨入り、すればいいな。」
私はひとりごとを言っていた。これも太郎に聞かれてるだろうな、と思いながら。




