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第十話 描くこと、描かれることで見えるもの。

 次の日曜日、きっかり二時半にインターフォンが鳴った。マンション正面のセキュリティは抜けて、天野くんはいきなり玄関前まで来ている。居留守使おうか、と思って、十分ぐらい待ってみた、するときっかり十分後、またインターフォンが鳴った。ため息をついて、私はドアを開けた。天野くんがニヤッと笑う。

「ほんとに来たんだ。」

「うん。」

 天野くんは、この間と同じ妙な変装姿。丸眼鏡でよれよれの帽子、黒髪スプレーもまだらについて、絵の具だらけの服。

「天野くんのそんな姿見たら、クラスの女の子たち、泣くよ?」

「大丈夫、誰にも気づかれない自信、あるから。」

 天野くんは勝手に靴を脱いで、ずかずか上り込んでくる。

「セキュリティ、よく抜けられたね。」

「あんた、この前、俺の前で隠しもせずに暗証番号打ち込んでた。そういうのが、無防備だっていうんだよ。」

 確かに…。私は反省する。

「さ、早速始めようか。」

 天野くんは勝手に洗面所で手を洗うと、我が物顔で、ダイニングテーブルの椅子を、窓際に持ってくる。

「今日は横顔描くから、ここに座って。」

 私はしぶしぶ、その椅子に座る。

「おお、素直じゃん、いい傾向。すんごい顔は嫌そうだけど。」

「あれこれ抵抗しても、天野くん引かないだろうから、さっさと終わらせた方が、時間が無駄が無いかと思って。」

「なるほど、賢い選択だね。」

 そう言いながら、この間と同じように、スケッチブックを広げて、鉛筆を走らせている、と思われる天野くん。横だからはっきりは見えないんだけどね。描き始めたか、と思ったら、天野くんがこちらに近づいてきた。

「ちょっとごめん、髪、直すね。」

 後ろにすとんと全部流してあった髪を、一束ずつ肩から前に持ってくる天野くん。そうやって女の子を扱いなれてるのが、すごくわかって何か嫌だ。

「よし、これで決まった。手はこうして、膝の上で軽く重ねて。」

 手にも遠慮なく触れてくる。教室でもこうやって女の子に気軽に触れているの、何度も見た。ただ一つ違うのは、「こうすると、きみの美しさが際立つよ。」みたいな、甘ったるい言葉を言わないってだけだ。

「バッチリ、そのまま動かないでね、一時間。」

「また一時間?教室みたいにさっさと終わらせてよ!」

「嫌だよ、全身描きたいし。」

 あっさりと天野くんに拒否されてしまう。私はしょうがないので、むっつり黙り込む。天野くんもしばらくは黙って鉛筆を走らせていた。

「……もういいよ、喋っても。椅子からは立ち上がっちゃダメだけど。」

 何分間か経過したところで、天野くんにそう言われる。

「あ、そ。」

「顔のとこはざっくり描いちゃったし。ただ座ってるだけじゃ退屈でしょ?いろいろ話そうよ。」

「天野くんと話すことなんて、何もないよ。」

 私はふてくされてそう言うと、天野くんはケラケラ笑い声を立てる。

「まあそう言わずに。毎週俺、来るつもりだから、少し慣れたほうがいいよ。」

「毎週?勘弁してよ!」

 私は悲鳴を上げる。

「うん、もう決めてる。望月さんは俺の日曜日専属モデルね。」

「勝手に決めないでよ!」

「いいじゃん、日曜日の午後の一時間ぐらい、ちょっとボランティアしてよ。」

「嫌だよ。」

 私は抵抗を試みる

「望月さん嫌がっても、俺、来るけどね。」

 やはり、天野くんは強引だ。

「あんまりしつこいと、警察に通報するよ?」

「なんて?クラスメイトです、絵を描きに来ました、って俺言うだけだけど。警察は民事不介入。」

 天野くんのしつこさは、一筋縄では行かなさそうだ。

「なんで私なのよ…。天野くんの専属モデルになりたい子なんて、いくらでもいるでしょ?」

「それは、山ほどいるけど、モデル以上の関係も求められるね、それ。…でも、望月さんはそんなこと絶対しないでしょ?」

「ていうか、モデルにすらなりたくないんだけど。」

「もう遅い。俺、決めたことは動かさないから。結構頑固だし、俺。」

 まさか、天野くんをお茶に誘ったことが、こんな面倒事を生むなんて、思ってもみなかった。

「同じ人間ばっかり描いて、飽きない?」

「全然。人間は一日一日で、表情が全部違う。成長したり、老いたり、いろんな感情が表情に浮き沈みする。人間が、一番描いてて飽きないな。」

「そう……。」

 天野くんが飽きる、という選択肢に望みをかけるのは、期待が薄そうだ…。

「……でも、別に私じゃなくても、日替わりでも週末モデルしてもらえばいいじゃん、クラスの女の子、誰でも。」

「やだね、俺はあんたが描きたいんだ。」

 不意に、天野くんの声のトーンが変わる。

「先々週の木曜日から、あんた、変だ。それまでは無表情で、何考えてるか分からなくて、どうやってその仮面剥がして描いてやろうか、て思ってたんだけど、あの日から、あんた変わった。」

 ……太郎が来た次の日からだ。

「あんまり様子がおかしいから、ちょっと心配はしてたんだけど、あんたも頑なで、絶対何があったか口を割りそうにないから、もう、こっちも何があったか聞かない。その代わり、存分に描かせてもらう。」

「なんでそんな風に思うの…?私、何も変わってないと思う。」

「全然違うよ。いつも目を伏せて、にこりともしなくて、そのくせ我慢強くて、クラスの女の子のくだらない話を聞いてるふりするのがうまかったくせに、あの日から、濡れたような目をして、困った顔して、寂しそうで、そしてちょっとだけ表情が柔らかくなった。」

「そんなことないよ…。」

「いままでの望月さんだったら、公園で俺が似顔絵描いてるからって、見向きもしなかったくせに、俺に気づいて、話しかけて、そして、家にまで招いてくれた。あり得ないでしょ?いままでのあんただったら。」

 そうかもしれない。私は気持ちがぐらぐらする。駆の顔をした太郎が突然現れて、駆の顔をしてるくせに、私に新しい恋を勧めて、そして、毎週来るって言う。三度も来たくせに、一緒に食事することも、お茶を飲むこともかなわない。

 私は、寂しかったんだ。太郎が、駆じゃないことが。太郎が、人間ですらないことが。

 家族が海外に行って、私は一人になって、緑に囲まれて、それが当たり前だった。でも、ほんとうは心の奥底で、寂しい気持ちがあって、太郎が来て、それに自分が気づいて、それを天野くんにも感づかれた。

「そっか、私、まだまだ弱かったね。一人で生きていく決心してるんだから、もっと強くならないと。」

「……なんで一人で生きて行こうと思うの、望月さんは。」

「私は、ひとりの人が好きで、その人がずっと好きで、その人にはもう二度と会えなくて、でもそれ以外の人は好きにはなれないから、一人でいいの。」

 私は、口に出して決意を語ってみる。なぜか、天野くんに対して。……いや、この部屋のどこかにいる、太郎に対して、私は語ったのかもしれない。

「もう会えない、ってことは、その人はこの世にいない、って理解していいわけ?」

 天野くんに尋ねられる。

「そうだね。」

 私は一言、短く答える。そこへ、天野くんの冷たい声が響いた。

「そう、死んだ恋人に操を立てて、ずっとあんたが一人でいるって言うなら、俺は都合がいい。一生、あんたをモデルに描かせてもらう。」

 思いがけない言葉に、私は呆然とする。

「天野くんて、ひどいこと言うね。」

「そう?何があったか言いもしないで、誰かに助けを求めるような目をしてるくせに、肝心なことを何も話さない人に、なんの優しい言葉が必要なわけ?俺はただの絵描き。あるがままの君の姿を、ただ描き続けるだけ。」

 私はむっとして黙り込む。……これだったら、何にも喋らないで黙っている方がマシだった。

 そして、長い長い時が過ぎて、

「終わった。」

 ぽつんと言って、天野くんが私に近づいてきて、今日の絵を見せてくれる。窓辺からあたる日差しの中で、私はすこし寂しそうな横顔を無防備にさらけ出してた。私は、少し笑った。

「確かに、私、表情に出てるね。気を付けよう。」

「そのほうがいい、あんまり無防備だと、あんた隙が出来過ぎる。俺の前以外は、もうちょっと気を付けたほうがいい。この部屋にも、簡単に人を入れたりしないほうがいいよ。たとえ、女友達でも、ね。」

 ……どうして、この人は、わがままで、自分勝手で、強引なのに、時々、私を心配するようなことを言うのだろう。 


 黙って片付けを始めた天野くんは、ぼろぼろのリュックサックを背負う。

「また、来週来る。」

 玄関扉の前、低い声で、天野くんはそう言った。もう来ないでほしい、私はそう言うことができなかった。



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