初めて知らされる世界
意気揚々と部屋を飛び出してきたソフィアはライラの言っていた受け付けの女性に声をかけようとも思ったが、ふとして思い出していた。話を聞こうにも話したがらなかったことを。
無理強いはよくないと、すうっと一度深呼吸して他の人にでも聞こうと振り返った時だった。
目の前によろよろと壁を伝って歩く危なげな人を見つけ、あの人どうしたんだろう?と歩みだそうとしていた足を踏み留める。壁を伝い、一歩、また一歩と確実にこちらに向かってくる黒髪の女性が顔を上げ「肩を貸して」と消え入りそうな声で言った。
恐らく目が合った自分に言っているのだろうと駆け寄ったソフィアは近付いて気付く。この人は酒に酔って一人では歩けないのだ、と。
「お姉さんお酒飲んでますよね」
「んー?それがどうかしたの?それよりもほら、肩を貸してほしいのよ。お願い」
「別にいいですけど、部屋はどこなんですか?それくらいは言ってもらわないと送り届けることもって、お、おもっ」
「ふふふ、ごめんなさいね。つい全体重かけちゃった」
肩を貸してすぐ全体重をかけられた体はよろめく。
人間の平均的な女性と変わらない身長をしているソフィアが彼女を支えように支えきれず、崩れ落ちそうになるのは全体重をかけられているせいもあったが。女の口から放たれる酒の臭いが受け付けないせいもあった。
真横から放たれる酒の臭いに顔をしかめながら「で、何号室なんです?」と部屋番号を聞く彼女は嫌でも一度引き受けたことを放棄しようとはせず、引きずる形で女を部屋まで送り届けることに。
酒臭さに文句の一言でも言ってやりたい気持ちに駆られるも、酔っ払いには何を言っても無駄だと過去に経験のあった彼女は黙って言われた部屋番号を目指してひたすら歩く。
「はい、着きましたよ」
「お嬢さんありがとうね!エルウィン帰ったわよー!」
「帰ったわよー!じゃない!一体どこをほっつき歩いてたんだ。こんな時間まで毎日毎日……俺達がこの村に来たのは」
「あの、お話のところ悪いんですがちょっといいですか?いつまで私を放っておく気ですか!この人、貴方のお連れさんならきちんと見ててください!」
「えっと、君は?」
「ここまで運んでもらったの」と満悦の笑みを浮かべ、エルウィンと呼んだ男に抱き付いた女は酒の酔いが相当回っているのか。ソフィアに目もくれず、抱き付いたまま眠そうにする。
急に抱き付かれて驚くもいつものことなのか、苦笑を浮かべるばかりの顔は呆れているようにも見えた。
女を預けた彼女は酒臭さに堪らず、後でもう一度お風呂に入ろうと決める。
しっかりと男が女を支えているのを視界に捉え、これならもう安心と分かるとソフィアは歩みだそうと一歩踏み出す。
「ああ、君。ちょっとちょっと」
「何ですか?もうその人を送り届けたので私の仕事は終わりのはずなんですが」
「もし忙しかったのなら悪かったね。彼女も悪気はないんだ。ただここ最近ずっとこんな調子だから俺も困っててさ」
呼び止めたかと思えばさらりと愚痴を聞かされてソフィアの額には皺が刻まれる。
「で、だから何なんですか。用件がそれだけなら私は戻りますよ」
「ああ、いや、違うんだ。もし時間があるなら明日改めて彼女が迷惑をかけたお礼をさせてほしいんだ。酒臭いの我慢して連れてきてくれたんだろうし」
酒臭いなんてことは一切言っていない。
それなのに酒臭いのを我慢していたことを何故知っているのか。
エルウィンの発言は油断ならない相手だと警戒心をソフィアに持たせただけだったが、お礼をしたいと言われれば無下にもできない。こくりと頷いたソフィアは部屋の番号を告げ、足早に去ろうと駆け足で幼馴染みの元へと急ぐ。
小さくなっていく背中を見守りながら酒臭い彼女を抱えたまま盛大な溜め息を吐き出すエルウィンはソフィアのむっとしていた表情を思い出すと、少し警戒させてしまったかなと頭の隅で思った。
部屋に戻り、既にすやすやと寝息を立てている彼女をベッドに寝かせる。
自身のベッドの横に立て掛けている剣を一睨みすれば自分も寝ようと部屋の電気を消して眠りに落ちた。
*
部屋に戻ったソフィアは濡れている毛先を弄りながら大した成果は得られなかったこと、見るからに人間だろう二人に出会したことを待っていた幼馴染みに話した。
それから軽くお風呂に入り、戻ってくると室内に置かれている時計に目を向ける。時刻はもう夜中の23時を指していた。
もうこんな時間。
集落を出てから随分時間が経つ。自ら家出してきたとはいえ、少し父や母のことが気にかかる。しっとりと濡れている髪を手早く拭き終えるとベッドに入る。
「もう電気消すけどいいのね?」
「うん」
「明日からはもう少しいいことがあるように祈りましょう。それから、情報収集もしないと」
特にこれといって目的と言える目的もなく、外の世界を見てみたいと思ってエクタードを飛び出してきたが、自分達が思うよりもずっと世界は危険に晒されているのかもしれない。
一体外の世界では何が起きているのか。気にならないわけがなかった。電気を消して眠りに就く。
瞳を閉じれば思っていたよりも疲れていたのか、二人はすぐに夢の世界へと旅だった。
翌日、朝食を摂った二人の元には約束通り昨夜お礼に伺うと言っていたエルウィンと呼ばれた男と、黒髪の女が訪れていた。
顔を合わせ、挨拶も早々に「昨日はすまなかった」とエルウィンが言う。
「いえ、別に。それよりもお姉さんはもう大丈夫なんですか?」
「私?私ならもうすっかりこの通り!いやー、昨日は本当にごめんなさいね。私の名前はエラミー・フレイド。よろしく」
握手を求めるよう差し出された手を握り返すライラは「はぁ」と声を漏らす。
昨日寝る前にソフィアから話を聞いてはいたけれど、こんなにも馴れ馴れしくされたのでは警戒してしまう。
エラミーと名乗った女を見て思うのは楽観そうな人間だと言うこと。
同じく握手を返した幼馴染みに至っては腕をぶんぶんと振られ「お世話になったわね!」と言われている。その顔は顔面蒼白だ。
「俺の名前はエルウィン。エルウィン・ハワードだ。お二人は?」
「ソフィア・レナイド」
「ライラ・レイチェルよ。で、お礼に伺うとは聞いていたけど……何をしてくれるんですか?」
「そうだね。例えば、君たち今何か困っていることはないかい?謝礼を払うほど金は持ってないんで、何か困っていることがあれば協力させてほしい」
「そ、それなら今世界で何が起きてるのか教えて!私達、今何が起こってるのか知りたいの!」
「君達何も知らないのか?」
顔を合わせたエルウィンとエラミーは頷くと「それくらいなら」と今、世界で起こっていることを一つ一つ丁寧に話す。
元々魔物達は人に害なすものではなかったのだ。しかし魔物達、つまり魔族達の中で世界を我が物にしようとしていた輩がいた。その者の名はハシャード。
外見は一見人のように見えるが、その実体を見たことがあるのはかつて彼を封印した人間とエルフだけ。
先人達が書き記してくれていた物の中にはハシャードの実体については書かれていなかった。
ただ、書かれていたのはハシャードという魔族が魔物達の王となり、世界を支配しようと動き出したことや。彼が封印されことなどが鮮明に書き記されていた。
「ところが近年どこかの王国に置かれていたハシャードについての資料が何者かの手によって盗まれたのよ。管理が甘いというか、王がお馬鹿というか」
「おい、馬鹿は余計だぞ」
「盗まれたことと、この世界とのことで何かご関係があるのですか?」
「大有りさ。盗まれてすぐ、魔物達の動きが活発化してきたんだ。まあ、魔物と言うのは古い言い方だな。今のあいつらは魔族と名乗っているくらいだし」
「魔物と魔族は同じ……つまり呼び方が魔物から魔族になったと?」
難しいことはとことん苦手なソフィアが首を傾げながらライラに問うが、彼女は幼馴染みの言葉に耳を傾けるよりも二人が話している内容について深く考えることを優先していた。
どこかの王国にあった魔王ハシャードについての資料が盗まれたことと、魔族達の動きが活発化してきている。
だからあの時、雨の中で見たのは間違いなく魔族だったんだ。これって世界にとっては一大事なんじゃ……。
視線を落として考える仕草をしているライラの隣ではソフィアが無視をされて拗ねているが、世界にとって一大事という時に優しく答えている余裕などない。
聞いたことが本当なら一度エクタードに帰って長と話をするべき事態でもあるとライラは思った。
「話はここからなんだが……さっき言った通り魔族達の動きが活発化してきている。これが何を意味しているか分かるね?」
「魔王ハシャードが復活しようとしている。または、もう復活している」
「ご名答!あ、でもまだ復活はしてないらしいの。魔族がハシャードを復活させようとはしているようなんだけど、あるものが足りないらしいのよ」
「あるもの?」
「そう、あるもの」
すうっと黒い瞳が細められ、エラミーがソフィアを見る。
完全に話には入れず、おいてけぼりをくらっている彼女は興味があっても難しいことは苦手。故に話が終わってライラから後程分りやすく話を聞こうと黙っていた。
そんな自分に何故この人は探るような視線を向けてくるのか、ソフィアには心当たりがない。
向けられる視線に嫌気が差し「なにか?」と言葉を口にする。返事はなく、エラミーはだんまりを決め込む。
この何とも言えない空気に堪えきれず、ライラは「エルウィンさん何とかしてくださいよ」と小声で言った。けれども頼みの綱であった彼もまた、だんまりを決め込んでいた。双方が腹の探り合いをするような視線を向けている。
「ああっ!もう!エラミーさんもソフィアもなんなのよ!」
「あらやだ、私ったらつい。ごめんなさいね。悪気はないの」
「っていうか、昨日部屋に戻る為に肩を貸した恩人に向けるような視線じゃないし。あなた達何なんですか?特にエラミーさん!聞きたいことがあるなら視線を向けるのではなく、直接聞いてくれませんかね?」
意味も分からずただただ視線だけを向けられてソフィアの怒りは最高潮に達していた。
見覚えのない何かを探るような視線には苛立ちもする。
苛立ちを隠す必要性すら感じていない彼女は怒りをそのままに「何かあるならどうぞ」といつもより低い声で言い放つ。
親と揉めた時にソフィアが怒る様子をよく見ていたライラは驚くでもなく、また、幼馴染みを止めるでもなく見守る。
彼女とて、ソフィアと同じでエラミーが幼馴染みに向ける異様な視線には何か理由があると勘ぐっていた。
聞き出せるなら全て聞き出してしまった方が後に凝りになることもあるまい。聞き方はやや乱暴かもしれないが、こういう聞き方でなければ相手方が話してくれないとライラも心のどこかでそんな気がしてならなかった。
「別に隠すことでもないと思うから聞くけど、ソフィアさんってエルフよね?」
「なんでそんなことを聞くんですか?」
「さっきハシャードを復活させるのには足りないものがあると言ったわ。一度その手の書類には、私……目を通しているのよ。貴女のフルネームを聞いてピンときたのよ。魔族達が捜しているのは貴女だってね」
「……!?」
「そ、それは何かの冗談、ですよね?」
「いいえ、間違いなくソフィアさんよ。かつてハシャードを封印したエルフの名はフレデリア・レナイド。ソフィアさん、この名に聞き覚えはない?」
魔族が自分のことを捜している。疑いようのない現実を突き付けられたかのようにエラミーの言葉は続けられた。
フレデリア・レナイド。この名はソフィアの母のそのまた母。彼女から祖母に当たる人物の名であった。
「フレデリアは……私のお婆様の名前」
「やっぱり貴女エルフだったのね!ということは、ライラさんもエルフ!うわ、やった!生エルフよ!エルウィン、私エルフって初めてみるかもしれないわ」
「今はエルフだなんだと騒いでる場合じゃないだろう。ソフィアさん、エラミーが怖がらせて悪かったね。別に君をどうするという話ではないんだ」
顔を青くさせたまま微動だにせず、怯えるソフィアを守ろうとライラがその背に隠す。
お礼をしに来たというから部屋に招き入れたのに、大事な幼馴染みに危害を加えるのであれば容赦はしない。
目の前の二人に向けられたライラの視線はもう穏やかなものではなく、明らかな敵意を示していた。
参ったな、とぼやいたエルウィンは「お前のせいだぞ」とエラミーに一言。けれど悪いことをしたなどという自覚が殆どないに等しい彼女は初めて見るエルフという生き物に瞳を輝かせ、二人に迫っていた。
「おい、やめろって!お前のその実験衝動何とかできないのか?二人に危害を加えるのであれば国に帰すぞ」
「そんなことばっかりエルウィンは言うんだから……帰ったら覚えてなさいよ」
「あ、あの……」
「ああ、いや、こちらの話は気にしないでくれ。それで、エラミーが言っていることが間違いでなければソフィアさんは魔族に狙われていることになるんだ。理由は話した通り、魔王ハシャードを復活させるため」
「仮にソフィアが魔族に捕まったらどうなるの?」
「そんなの言わなくても分かるでしょう?血を全て抜き取られて殺されるわ。ハシャードを復活させるには彼を封印した者の生き血が必要なの。勿論、人間がわの封印した者の生き血もね」
軽く言っているように聞こえるのは淡々と述べられているせいなのか。
それともエラミーがやや高い声だからなのか。
どちらにしろソフィアとライラの二人にはエラミーが軽く言っているようにしか思えなかった。




