家出決行日は悪天候
この日は雨だった。頬を突き刺すような冷たい雨が大地に降り注ぐ。フードを深く被ったソフィアとライラは雨で視界が悪い中、大人達に見つからないうちにとエクタードを出る。
部外者が入れぬようにと張られている結界は外から入ることはできずとも、中から外へと出ることは可能であることを知っていた彼女達は急ぎ足で駆けていた。
深い森の中を駆ける二人はとにかく近くの村で雨宿りをしようとエクタードを出る前から決めていた。
視界が悪いのは当然のことながら、足場も雨のせいで滑りやすく転びやすい。
一秒でも早く雨宿りをしたくて駆けるが、気を抜けば今にもぬかるんだ地面に足をとられそうだ。
「ったく、なんで雨なんて降るのよ」
「文句を言うなら雨が止んでからでもよかったんじゃないの?」
「決めたらすぐ行動に移す。これ鉄則でしょ……もう、本当に雨は嫌い!」
被っていたフードから始まり、靴までぐっしょり雨で濡れてしまった。
それもこれもすべては雨のせいだ。鈍色の空を睨みながら、前髪から落ちてくる雫に苛立ちを見せるソフィアをライラは横目で盗み見ては苦笑を浮かべる。
どうあっても今暫くは止みそうにもない雨にはソフィアだけでなく、彼女もまたうんざりとしていた。
いくら拭っても雫となって落ちてくる雨粒が時より空色の瞳に入れば痛くて堪らない。
お風呂でさえ、お湯に顔を浸けるのが苦手なライラは目に水が入るのですら嫌だった。けれど今は痛い、嫌だ、などと言っている場合ではないことくらい分かっている。
だから何も言わず、目に雨粒が入っても我慢しているのだ。
「エクタードを出る前に確認した地図によるとそろそろ村が見えてくるはずなんだけど」
「それって本当?全然それらしい建物も見えないんだけど」
「ちょっと待って……しっ」
駆けていた足を止め、口元に人差し指を立てた幼馴染みにソフィアは眉を潜めた。
立ち止まるライラを不審に思い、足を止める。
顔を覗き込めばじっとしたまま、耳をすますように彼女は瞳を閉じていた。真似をして耳をすますが聞こえてくるのは雨音のみで、それ以外の音は聞こえてくることはない。
「ライラ?」
「待って。何か聞こえる……これは足音?」
「私には雨音しか聞こえてこないんだけど。足音なんて何にも」
「ソフィア隠れるわよ!」
「ええ!?ちょ、ちょっと!」
いきなり手を掴まれて草陰に身を潜める形で引き摺られるソフィアは抗議をするが、その口をライラに手で押さえられると大人しく従うしかない。
雨音だけが聞こえる中、先程自分達がいた場所をじっと見つめていれば見たこともない人とも思えない者がどこからかやってきた。
二人、いや、三人?
背中に羽のような物を生やした者達は顔を見合わせると一斉に空高く飛んで行き、ついには見えなくなってしまう。
今までにあんな生き物を見たことがあっただろうか。
否、この目で見たことはない。本などに書かれていたおとぎ話でなら何度かあのような生き物を見たことはあっても、この目でしかと見たことはなかった。
驚きで言葉を失うソフィアを気にする様子でもなく「あれは魔物よ」とライラは小さく呟く。
「ま、魔物ってあの魔物?」
「きっと間違いないわ。でもどうしてあの生き物がこの辺を自由に行き来しているのかしら?おかしいとは思わない?確かにソフィアのお父さんは外の世界が危険だって言っていたけど、お母さんから世界は平和だと聞いたわ」
「本当に平和かどうかなんて自分達の目で見ないと分からなくない?それよりもさっきのが本当に魔物かどうかはさておき、今は一刻も早く雨宿りできる場所に移ろう。このままじゃ話し合う前に私もライラも風邪をひくって」
口元に押し当てられていた手が避けられ、自由になったソフィアは確かに目の前で今見た者についてライラと談義したいとは思う。
それに、彼女が疑問に思っていることは自分も少しは気になっているところだ。
だが話し合うならまずは雨宿りをできる場所に移らなくては。魔物と思われる生き物が完全にいないことを確認してから今度はソフィアが幼馴染みの手を掴み、雨の中を一気に駆け抜けた。
ライラの話ではもうすぐ村が見えてくるという。
それを信じてただただ掴んだ手に力を込めて彼女は駆けた。
*
「酷いめにあった」
「最初に雨の中を家出すると言ったのは誰だっけ?」
「私だけどさ……あー」
あれからようやく辿り着いた村で宿を取り、すぐにお風呂に入った二人は着替えてそれぞれに用意されているベッドに体を預ける。
母譲りの橙色の髪をタオルで拭きながら雨の冷たさを思い出したソフィアは口を尖らせた。
別に雨の中を家出したかったわけではない。父のブライドがたまたま家を留守にするのが今日だっただけの話だ。
仕事を普段家でしている父が今日は午後から出掛けると言っていたのを思い出す。黙って出てきたことは悪いと思う。
きっと今頃心配しているだろう。
でもだからと言って今更帰る気にもならない……と言うのも先程見てしまったあのよく分からない生き物が気になるからだ。
幼馴染みのライラが魔物だと言っていたがそれは本当なのか。
世界は平和ではないのか。
考えたって一人ではどうしようもない答えを「ねえ」とソフィアは幼馴染みに尋ねる。
「ここに来る前に見たあの生き物って本当に魔物なの?羽みたいなの生えてたけどさ」
「はっきりとはまだ分からないけどね。一応気になってここの受け付けの人に聞いてみたんだけど、最近は物騒って言ってたわ。魔物はうようよしてるしって」
「それって前からじゃないの?」
「さてね?聞こうにもあの受け付けのお姉さん、あんまり話したがらなかったから詳しいことは聞けなかったのよ」
「よし、私が聞いてこよう!」
「なにそれ、何かの冗談……って、あれ?」
隣のベッドにいたはずの彼女が姿を消したことに溜め息が勝手に口から漏れたライラは「もう知らないわよ、ばか」と室内にいない幼馴染み向かって言葉を吐く。
好きなこと、面白そうなこと、気になることに対しては昔からとことん突き詰める。
今もそれは変わらず、探求し続けるソフィアは今この世界で何が起こっているのか自分で聞きたくて堪らないのだろう。
あのお姉さん、話したくなさそうだったんだけどな。まあ、いいか。
もはや他人事のように数分前に言葉を交わした女性に対し、ソフィアが失礼なことをしでかさなければそれでいいやと考えることを放棄したライラはベッドに体を預けたまま。
幼馴染みが戻ってくるのを待とうと濡れている翡翠色の髪をタオルで拭いていることにした。




