-002 『ただし、その名は果物ではない』
「えーと」
言葉が浮かばない。まず、どうやって声をかけるか。
少女の方も、戸惑った様子で一向に口を開こうとしない。雰囲気は先ほどよりも悪いと言えるかもしれなかった。
このままでは埒が明きそうにない。こうなったら、もう言葉を選んだりせず単刀直入に聞こう。
「あんた、誰?」「ここは何処なの?」
「………………」
「………………」
また声が重なった。そして微妙な沈黙が訪れる。
何故こんなタイミングで、同時に口を開くんだろう……?
「ここは俺のアパート、住所的には叡智県エイチケン名護屋市ナゴヤシ大塔町タイトウマチだ」
「へぇ」
一言の相槌。それ以外に少女からはなんの反応もない。
「それだけか?」
「だって場所は分かるけど、ここにいる理由が分からないもの」
「そんなこと言われてもな……」
訳が分からないのはこっちのほうだ。いきなり色無し美少女が現れるなんて。
「それで、名前は? 俺は水峪清司ミズタニ セイジ」
「あ、あたしは、――――――えっと、誰?」
「……俺に聞かれても困る。というか、やっぱりか」
なんとなく予想できていた。こういうとき記憶喪失がくるのはお約束だ。
「じゃあ、何でもいいから分かることはないのか?」
「それが、ほとんどわからないのよね。でも、自分の身体のことなら、なんとなく分かるわ」
「身体のこと?」
そう言われて、透き通ったその身体をまじまじと凝視してしまう。
丸机を挟んで座る少女は現在、俺のシャツとズボンを着ている。サイズが合わないだけでなく、下着も着けていないのでかなりギリギリな服装だ。
半透明であっても、シャツに浮かんだ胸部の突起に目がいってしまう自分が悲しい。
「そうね、例えば、こんな風に変化させるやり方とか」
「うおっ」
おもむろに少女が右手を挙げたかと思うと、その手がどろりと溶け出す。そして、徐々にその形を変えていく。
「はい、これで完成よ!」
満足げに少女が言った頃には、その右手にもとの面影はなかった。
「……何故にドリル?」
そう、彼女の右手は螺旋状に溝の掘られた鋭利な三角錐、即ちドリルへと変形していたのだ。
「なんとなく目に付いたんだもの。それに、ほら、カッコイイじゃない!」
くるくるとドリルを回転させながら指し示した先には、前に無理やり押し付けられた、ドリルで天を突くロボットアニメのDVD。
「なるほど、変幻自在ってわけか」
「でも、複雑なのとか大きいのは無理みたい。それに、かなり疲れるし」
そう少女が呟くと、ドリルが元の手に戻る。
「その姿が基本なのか?」
「んー、これも変化してるみたいよ。無意識でこうなってるみたいで、基本といえばそうなのかもしれないけど」
「じゃあ、何も変化しなかったらどうなるんだ?」
「こうなるわ」
先ほどの右手のように、しかし今度は少女の身体全体がどろりと溶け出す。
整っていた顔も、ドキリとさせられる肢体も、まるで熱された飴細工のように溶けていく。
「……うげ」
好奇心で聞いたことを激しく後悔した。気持ち悪い、というかグロい。下手するとトラウマものだ。美少女が溶けていく様子なんて……。
先ほどまで少女がいた場所、そこには人間大の大きさの、プルプルした物体が沈殿していた。俗に言うスライムというやつだ。
今気づいたが、帰りに頭から被った粘液と同じ色をしている。いつの間に来たのか不思議だったが、あれが彼女だったらしい。シャワーで水を吸収したからか、その量は全然違うが。
「と、こんな具合よ」
そうスライムが声を発したかと思うと、ビデオをまき戻すように元の少女の姿に戻っていく。その速度は、先ほど手をドリルに変えたときよりもかなり速い。
「……すごいな」
なんかもう、それ以外に言葉にしようがない。
「ふふん、そうでしょ」
「だが、服を着てくれ」
得意満面の笑みを浮かべていた少女に指摘する。
一度完全に溶けたためか、彼女が着ていた服は今、足元で散乱していた。即ち、その姿は出会ったときと同じく素っ裸である。
「えっ!?」
言われて気がついたらしく、すぐさまいそいそと服を着込む少女。もしも色があったならば、その顔は赤く染まっていそうだ。
「そこまで分かっているのに、なんで自分のことは何一つ分からないんだか……」
「それが、自分のことはさっぱりなのよね」
お手上げという風に、両手を挙げて首を振る少女。そんな彼女に目下の問題を一つ聞いてみる。
「で、これからどうするんだ?」
「これからって? なにがよ?」
やはり気づいていなかったか。
憂鬱だ。この先の面倒が手に取るように分かるのに、自分の口で言い渡さないといけないなんて……。
「行くあてとかだよ。住む場所とかあるのか?」
無論、答えは分かりきっている。聞いてみただけだ。
「そんなのあるわけないじゃない。あたし、記憶喪失なのよ?」
さも当然、という風に言い放つ少女。だがそれを口に出した後、驚いたような声を出す。
「あぁっ!?」
ようやく気づいたらしい、自分が今どのような状況に置かれているのか。
「……ねぇ、清司?」
先程までの態度とは一転、下から覗き込むように、瞳を潤ませて聞いてくる。それも、すがるような、弱々しい声で。
「うっ」
ギャップというか、不覚にも、その姿に心臓が跳ねた。
いや、こいつスライムだぞ! 色無しだぞ! ときめいてどうする俺!?
確かにゲームの水精とかは嫌いじゃないが、あくまで架空フィクションでの話であって現実リアルでアブノーマルな属性はないはずだろ!?
「お願い、他に頼れる相手なんかないの……」
ショートしかけた頭で、何も言えないまま硬直する俺は、そのまま瞳を潤ませた少女と目を合わせる。
そして見つめあうこと数分、――根負けしたのは俺のほうだった。
「はぁ、これもお約束か……。仕方がない、あてが見つかるまで、しばらくうちに居ればいいさ……」
「ありがとっ、やっぱりあんたっていいやつね!」
そう礼を言う彼女の瞳には、もう涙やなど浮かんでおらずもなく、弱々しさの欠片もない。けれどその晴れやかな笑顔に、泣き落とされたということも忘れて見惚れてしまう。
「って、おい、なにトチ狂ってんだ俺!?」
さっきもそうだが、俺はそんな特殊性癖はないはずだろ!? 色のない相手になんで見蕩れているんだ……!?
「ちょっと、どうしたのよ一体……?」
突然の俺の奇行に若干引いた様子で、少女が声をかけてくる。
「あー、その、なんだ……」
説明しようにも、『不覚にもお前に見蕩れて、自己嫌悪していた』なんて言えるはずもない。
――ぐぅぅうううううう。
唐突に響いたその音の発生源は俺の腹部。そういえば、まだ昼飯を食べていなかった。
「あ、そうだ、お昼はあたしが作ってあげる! なんだか料理には自身があるし、お礼もかねて美味しいの用意するわ」
俺の内心を知ってか知らずか、そう宣言すると少女は意気揚々と台所に向かっていった。
「食べないの?」
その声で、現実に引き戻される。目の前には美味しそうに湯気を立てるチャーハンと、こちらを見つめる半透明の少女。
「あぁ、スマン、ちょっといろいろ考えててな」
現在に至った訳の分からない経緯とかを。
結局、思い出してみたところで、色々悲しくなるだけだったが。
「冷蔵庫にあったもので作ってみたんだけど、チャーハン、嫌いだった?」
少し不安げな表情。半透明だというのに、しっかりと表情は読み取れるのである。
「いや、そんなことはないが。じゃあ、いただきます」
「えぇ、どうぞ召し上がれ」
レンゲを突き立てる。空腹ということもあるのかもしれないが、そのチャーハンはとても美味しかった。サクサクとレンゲが進んでいく。
そして、気がついたときには皿は空になっていた。
「ふぅ……」
「はい、お水。ふふっ、どう、あたしの料理の腕前は?」
食べ終わり、一息ついたところで冷たい水を少女が渡してくれた。ちょうど喉が渇いていたので助かる。
「ありがとな。……えーと、」
礼を言おうとして、呼ぶ名前がないことに気づく。
「何よ、人の顔じっと見て?」
「いや、名前が無いのが不便だと思ってな」
これから生活していくのに、呼び方がないのは色々とやりづらい。
「確かに、言われてみれば、それもそうね。じゃあ、あんたがつけてよ」
「何で俺が? 自分でつければいいんじゃ……?」
「だって、名前は自分でつけるものじゃないでしょ。自分で自分の名前付けるのは、イタイ人だけよ」
その意見は偏見混じりな気がする。けれど、確かに一理ある。普通、名前は親が決めるものだろうし。
「うーむ……」
しかし、いきなりそんなことを言われても困る。一応、どのような名前がいいのか、少女のことを考えてみはするが。
「そうだ、お前にぴったりの名前がある!」
神の啓示とでもいうのだろうか、とても丁度いい名前を閃いた。
「へぇ、どんなの?」
期待をこめて聞いてくる少女にその名を言い放つ、
「スラ○ンだ!」
「嫌よそんなのっ!? そんな国民的RPGでニックネームとしてつけられそうな名前、絶対に嫌っ!?」
間髪おかず、即座にツッコミをされた。というか、記憶が無いくせにドラ○エは分かるのか。
「的を得てると思ったのに……」
「もっと可愛い名前にしなさいよっ!」
「可愛い名前ねぇ……」
けど、やっぱり一番しっくりくるのはスライムである。
スライム、スライム、すらいむ、……ん?
「じゃあ、ライムなんてどうだ?」
「ライム、か。果物の名前、けどさっきのに比べたら悪くないわね……」
考え込む少女。実際は『スライム』から最初の『ス』を抜いたのが元なんだが、それは言わないほうがよさそうだ。
「……うん、決めた、あたしは今日から『ライム』よ!」
満足そうな様子の彼女に、少し語源のことで申し訳なくなる。けれど勘違いながらも気に入ってくれたのだから、伝えない方がお互い幸せだ。
「改めてこれからしばらくよろしくな、ライム」
自分が付けた名前を呼ぶのは少し変な気分だ。照れくさいような、恥ずかしいような感覚。
「えぇ、こっちこそよろしくね、清司」
そう言って、手を差し出してくるライム。色がないというのに、その明るい様子からは、少しも気味の悪さは感じない。むしろ、魅力的とさえ思え――、
「いや、だから何考えてんだ俺!? ノーマルだろ、ノーマルな嗜好のはずだろ、俺はッ!?」
「またなの? もう、一体どうしたのよさっきから?」
頭を抱えて自問自答する俺を不思議そうにライムが眺める。
こうして、流されるような形で、ライムとの同居生活が始まったのだった。
ホント、色さえあったら夢のような展開なのに……。