助かりました! Ⅵ
シエルらが岸壁の迷宮内を走り続けて既に三十分以上が経過している。走っても走っても景色にさほど変化なく、目印になるようなものも無いため永遠に出口にたどり着けないのでは、という不安が押し寄せていた。
鳴り響く巨大な足音から距離をとるため、祝福の導きの光を無視して一度迂回路に回ったが、それ以外は素直に従っているため着実に出口には近づいているはずである。しかし、自分の現在地が分からず、ゴールまでの残り距離も不明となれば緊張感は増す一方である。
「ねぇ……ちょっと休憩……しない……みゃ?」
息を切らしたユウナがやや辛そうに言った。長時間の測量活動に加え、足場の悪い岸壁地帯を三十分も走り回ったのである。普段から鍛えているアネットはともかく、ユウナ、シエル、そしてビブロでさえも疲れが見え始めていた。
「しかし悠長にしてては追いつかれて……」
「ちょっと待って……足音聞こえなくないにゃ?」
心配げな表情のアネットを遮ったシエルの発言に一同が一斉に静まり返って耳を澄ます。すると、シエルの言った通り迷路内にあれほど反響していた重質でリズミカルな足音はいつしか消え去り、代わりに響くのは小鳥のさえずりのみである。
ひんやりとした空気が肌をなぞると、今までの緊張感が一気にかき消されるような不思議な感覚に襲われる。
「逃げ切ったということ……か」
アネットの安堵に釣られ各々が顔を見合わせた後に、腰が抜けたかのようにヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。――その時である。
消えたと思われた例の足音が再び鳴り響く。しかも先ほど前よりももっと近く……そう正にシエル達の目と鼻の先という距離である。全員が再び顔を見合わせると、なんとか踏ん張って立ち上がり周囲を見回す。しかし一本道となっているこの場所の前後どちらを見回してもそれらしい影は見えない。
「みゃ……」
足音と確実な気配を感じつつも姿を確認できないという恐怖でもはや泣き出しそうな表情のユウナ。相変わらず反響のせいで正確な方角を掴む事はできない。たった今走ってきた後方、祝福の導きが光の線を引いている前方、遥か高い位置に岸壁の先端とオレンジで染まり始めた空を臨むことができる上方、そしてゴツゴツとした岩肌がむき出しの下方、いずれも変化は見られない。
『ガッガゥ、ガッガゥ』
再び轟く野獣のようなけたたましい咆哮。次の瞬間、より一層増した……まるで助走をつけたような力強い足音が響き、次いで訪れる爆発音のような空間を振るわせる爆音。そしてそれを追いかけるように何かが砕け、重い物体が次々に地面へと落下する音が轟く。
この距離でこれだけの音量である。今回ばかり反響などで方向が分からなくなるわけがない。みんなの視線が一斉に爆発音が鳴り響いた方向……シエルらを出口まで導いてくれる光の線が延びる方へと向けられる。するとそこには大小さまざまなサイズに粉砕され地面に散らばった、虚像の山峡の壁だった物が散らばっていた。ヴェルスタッチの発光が弱々しくなっているのを見れば相当な衝撃だったことが伺える。そして視線を少し上方にずらしてみれば、岸壁迷路の左側の壁の一部にぽっかりと大穴が空いていた。幅三メートル、高さ五メートルといったところだろうか……地面に散らばった岩片は、巨人でも優に通ることが出来そうなこの穴の残骸であろう。
「うわぁ……すっごいにゃ」
「なんだ!?」
「今度はなんなのみゃー!」
土砂が破砕したことによる砂埃が穴の中に充満していたが、すぐさまそれも納まっていく。そして視界がクリアになっていくと同時に現れる巨大な影。聞き覚えのある重鈍な足音を響かせながらそれはゆっくりと穴から抜け出し、ついにシエルらの前にその姿を現した。
身長四メートル以上はありそうな人型の巨体。頭部は馬や牛を思わせる前方に伸びた形で二本の禍々しい捩じれた角が生えている。口元は肉食獣を思わせる牙が生え並び、鋭い眼つきの奥には赤く光る眼球。全身は浅黒くくすんでいる。大木のような太さの両腕は異様なまでに筋肉がついており、だらりと地面すれすれまで伸びた指先は鋭利な鉤爪になっている。脚部は体に対して短いが、その代わりに腕よりも更に二回り程太く、比例するように目を見張るような筋肉である。
首を左右に振りながら口元から白い息を吐いているこのクリーチャーが先ほどまでの咆哮と足音の正体でまず間違いは無い。そして虚像の山峡の壁にぽっかりと大穴を空けたのもおろらくこいつであろう。先ほどの助走を付けたような足音と衝撃音から察するにタックルか何かを行ったのだろうが、それであそこまでの壁を破壊するとは相当強靭な肉体であることが伺える。
「はにゃ……でっかいにゃ!」
「あわわわわみゃー」
「何だこいつは!?」
ユウナが目をつぶりながら特に意味の無いファイティングポーズをとり、アネットは紅いの刀身を持つ神装を召喚してその手に納めたとき、シエルは目の前の巨人と目が合っていた。
まるで血液が固まって出来たかのような禍々しい赤色の眼球には光は宿っておらず、ただ暴力的で絶対たる力を表わしているような印象を受ける。そんな冷たく鋭い眼で睨まれると、さすがのシエルもその気迫に押されて身動いてしまう。
「ビブロさん、このおっきな子は何なんですか?」
「すみません、私にもわかりません……魔族種だとは思うのですが、初めてみるタイプです。調査の進んでない地域ですので未知の生物がいても不思議ではありませんが……」
魔族種は強力な魔法を使うことができ、更に好戦的な種族である。また魔力、体力、筋力など様々な面で高ステータスであり、個体によっては高い知性を備えているものもいる。そのため魔族種に属するモンスターが生息している地域は例外なくすべて《危険領域》に指定され、レベルは少なくとも3。生息する魔族によってはレベル5に指定されることもある程危険視されている。
「不思議でもないって言われても……洒落にならないみゃ」
「退路を塞がれた。戦うしかないか……」
目の前のクリーチャーが立っているのは祝福の導きが指し示す方向、つまりシエル達が向かっていた虚像の山峡の出口に向かう道である。それを塞がれてしまった今、選択肢は二つ。一つは今来たばかりの道を戻って逃げるという手。しかし、後方に逃げれば逃げるほど岸壁迷路の中に入り込むこととなる。これから日が落ちてどんどん暗さが増す中で、右も左も分からない迷路の奥に向かうのは得策ではない。無論、この道以外にも外に出られるルートはあるかもしれないが、そのような希望的観測を頼りに未知の土地に踏み込むなどそれこそ自殺行為である。それに迷うだけならまだしも、奥で魔族種と遭遇してしまったら眼も当てられない。故に自然と選ぶことが出来るのは二つ目の選択肢……目の前の巨人と戦ってここを押し通るのみとなる。
アネットはクロエラの柄を両手で握り戦闘態勢に入る。その表情は緊張で硬くなっていた。いくら仕騎のアネットとはいえ、魔族種……それもレベルが分からない個体とシエルらを守りながら戦って勝てるかどうかは微妙であった。しかしだからといって引くことも出来ない。そんな彼女の肩をポンと叩く姿があった。
「う、うちもやるみゃ!」
「ユウナ?」
ユウナは右手で真っ黒に染め上げられた大型のナイフを保持しているが、その手は微かに震えている。
「か、勘違いしないでよね。うちはシエルを守るために戦うんだから」
照れとは明らかに違う声の上ずり方。歴戦の騎士であるアネットでさえ緊張を隠せない状況でただの医魔師であるユウナが落ち着いていられるはずはない。しかし、ユウナの戦闘力が申し分ないということは直接退治したアネットが一番分かっている。何より、シエルを守りたいと宣言したユウナの意思はアネットにとって何よりも力強い助っ人となった。
「あぁ、頼むぞ」
「ま、任せなさいみゃ! シエル達は下がってるみゃ」
その言葉を受けてユウナの震えが幾分か収まる。そしていつしかアネットの緊張も程よく解れていた。
アネットとユウナはロングルの森での一件もあり、これまで表面上では何食わぬ顔で接していても、深いところではギクシャクしているように見えた。しかし、その実はシエルというお互いの大義名分を除いても、一戦を交え実力を知り合うことによって不思議な信頼関係のようなものが生まれていた。そんな中での互いの激励は体を、そして心を奮い立たせるのに十分な材料となる。
シエルはコクリと頷くと、ビブロを促して数歩ほど後退する。
眼前では巨体を振るわせるクリーチャーが長い腕を鉤爪の先まで伸ばして構え、口元から漏れる息も一層激しさを増している。獲物を前にし、臨戦態勢に入った様子である。
それを受けアネット、ユウナもそれぞれ剣とナイフの柄を握りなおした。視線は目の前の魔族種の赤い瞳と合い続けている。どうやら紅の騎士と医魔師の少女から放たれる敵意に反応したようで、クリーチャーの視線は彼女達から離れることは無い。
牽制しあう三者の睨み合い続き、この場が一気に緊張で支配される。誰かが動きを見せた瞬間、それが開戦の合図になることは全員が理解していた。だからこそアネットとユウナは動くことが出来ない。もしかしたら……万が一の可能性でこの魔族種の気分が変わり帰ってくれるのでは無いかという淡い期待を抱いていたからである。しかしそんな期待もすぐに消え去ることとなった。
こんばんわ、作者の村崎 芹夏です。さてさて、最近は倒魔の狙撃手ばかり更新していたため、代行神の更新は久しぶりになります。
スローリーではありますが、ちゃんと執筆しています!! とはいえ、倒魔の方が完結しないことに更新ペースは上がらないとおもいますが><
気長に待っていていただけると幸いです。
ではでは今回も読んでくださった方々、ありがとうございました。また次回更新した際にはよろしくお願いします。