それでも私は……! Ⅶ
ロングルの森の深くへと消えて行ったアネットを見送ったユウナは、地面に湿気を通さないシートを敷き、その上に仰向けで寝かせたシエルに向き直る。相変わらずに顔色は悪く、荒い息遣いの合間に小さな唸り声をあげている。
「大丈夫よシエル。すぐに楽にしてあげるから」
誰に言うでもなくそう呟いたユウナは、プラチナブロンドの前髪を一度掻き上げると、肩かけの多様な薬品が収められた群青色のポーチから刀身の背にセレーションが備わったナイフを取り出した。指に合わせて、グリップし易い形状に作られた柄部から研ぎ澄まされた刃先まで、艶のない黒一色で仕上げられた大型のそれは殺傷を目的として作られている事を微塵も隠す気がないデザインである。
少女の小柄な手には余る大きさのナイフを左手で保持したユウナはそれをゆっくりと横たわる代行神の少女へと近づける。そしてナイフを、シエルの小さく鼓動する心臓の垂直上に突き立て、グリップエンドに右手をそっと添えると、目を閉じ、ゆっくりと大きく深呼吸をした。
――だが、あとたった少しの動作というところで、いつまで経ってもユウナ・アルテレイは神経毒によって犯され、苦しむシエルの心臓目掛けて突き立てたナイフを振り下ろせずにいた。完全に無抵抗の相手に対してならグリップエンドに被せている右手にちょっと力を入れるだけで良い。丹念に研がれた大型のブレードは容易に肉を裂き、鼓動を続ける心臓を貫くだろう。それこそがユウナに課せられた使命なのである。しかし、ユウナのナイフを保持する手は小刻みの震えが止まらない。自分とそう歳が変わらないであろう、弱々しく横たわる少女が時折発する苦しみに耐える呻き声がユウナの心に重く響く。
(どうして……)
ロングルの森の地面は湿気が多いのか、立て膝をついた右膝からはジメリとした不愉快な感触が伝わって来るが、今のユウナにはそんなことを気にしている余裕は一切ない。
「私がやらなきゃ……やっと邪魔な仕騎を追い払った絶好の機会なんだから」
シエルが神経毒に倒れた事も、アネットを湧泉樹のある場所まで戻らせたのも、全てはユウナの計画であった。しかし、これは本来道筋を描いていたラグトスを利用した計画が思わぬ方向で失敗に終わってしまったために急遽作り上げたものである。そしてどちらの計画も最終目的は同じ――"代行神の排除"であった。
ユウナは丘陵地帯からロングルの森へと移動する際に、シエルが傷を負っているのを良いことに、手当と称して傷口に遅延性の麻痺薬を塗っていたのだ。キューレイと呼ばれる強力な有毒植物から採取した葉や花弁と、毒素の働きを一時的に弱める薬品とを魔力を加えながら混ぜ合わせることによって生み出されたユウナ特性の麻痺薬である。薬が作用するまでの時間には多少の個人差があるものの、麻痺薬としての効果は絶大であり、その効力は目の前で倒れる少女を見れば一目瞭然である。
とはいえ、シエルの華奢な体格からして、ロングルの森に入って程なく毒が体中を廻りきると目論んでいたユウナの予想はだいぶ外れていた。これは代行とは言え、神の力を得たことにより何らかの耐性を得たのであろう。
毒の廻りが予想よりも遅れたことは事実である、しかしそれ自体は瑣末な問題にしかならない。結果的に代行神の少女の稜に常に付いて回っていた守護騎士の少女アネットも短時間とはいえ、上手いことシエルから引き離すことができた。苦しみに耐えている少女の心臓の鼓動を止めるには十分すぎる時間だ。とはいえ、あまり悠長に躊躇っている時間はない。アネットの身体能力を鑑みれば後数分もすれば戻って来てしまうかもしれない。
しかしこんな状況下でも……いや、こんな状況下だからこそ、大きなナイフを手にした少女の頭は全く違う事を考えていた。
ユウナの中でのシエルに対する第一印象は"イメージと違う"であった。事前にユウナに与えられていた情報は、四神ゲンロウを秘密裏に貶め、神の地位から失墜させ、自らを代行神という立場に押し上げて事実上テトラ・テオスの一角に成ることでセンスティアの地を我が物にしようとする人物であるということであった。その神の代行者の企みを阻止するために必要とあらば命さえも奪う、それがユウナに課せられた任務だった。
シエルという存在が明確な悪であると認識していたが故に最悪の場合、命を奪うことになるかもしれない任務に対しても覚悟を決めることが出来ていた……のだが、実際彼女と接触してみてどうだろうか……差し迫る自身の危険も顧みず、ラグトスの前に飛び出す勇敢さ、自身がケガをしているにも関わらず真っ先に他人を心配し思いやる優しさ、自身を傷つけようとしたラグトスにさえ優しく接する寛大さ、そして無邪気な笑みを浮かべながらアネットや自分と会話をする彼女を目の当たりにして、事前情報との差異にどうにも違和感を覚えていた。
他人の命を奪うどころか、積極的に他人を傷つけたことさえないユウナにとって、本当にこの任務が正当性が分からない状態での精神の揺らぎは大きい。代行神シエルという少女はもしかしたら……
だが、ユウナは少しだけ考え込むと、左右に大きく何度か首を揺すってすぐにその疑念は振り払う。自分の感じた印象などは関係ない。与えられた情報通りシエルはきっと"悪"なのである。彼女をこのまま神の座に就かせておいたらセンスティアがどうなってしまうか分からない。それを救うことができるのは自分のみ。ならば自分は与えられた任務を遂行するだけである。
そう決意を固め直し、目の前で仰向けに横たわる可愛らしい容姿の悪魔の少女に視線を落とす。そして、いままでよりも一層深く一度深呼吸をすると、自分に言い聞かせるかのように小声で「よし……」と呟いて覚悟を決めた。
無抵抗に苦しむ少女の心臓上空で保持していたコンバットナイフを握る手に力を込めようとした正にその瞬間――ユウナは後方からこれまでに感じたことがないほどの強烈な殺気を感じ取り、生物としての本能に従って反射的に、被さっていたシエルから跳ねるようにして退く。その僅かな瞬間の後、ユウナがつい先程まで立膝を着いていた空間に、眼で捉えきれない程の神速で絶対的な質量を持った"何か"が横一線に流れた。それが何なのかは、嫌が応なく直ぐに理解することとなる。
目の前には燃え盛るようなの長髪を後部で一本に結い、銀鎧で身を包んだ凛々しい少女が、怒りを隠す気のない鋭い視線でユウナを睨みつけている。右手には先ほど目にした紅蓮の刀身を持つ剣が握られていた。今の一撃はアネットが、手にした紅剣で攻撃してきたということで間違いない。
アネットのクロエラを握っていない左手には、無色透明の液体で満たされたボトルが握られているということは、湧泉樹で既に水を汲み終えて戻ってきたのであろう。予想していたよりもやや早い。ユウナは自らの想定の甘さを恨んだ。
「くっ、もうちょっとゆっくりしていても良かったのよ?」
挑発紛いのセリフを吐いてはいるものの、それとは裏腹にユウナの内心では焦りが出ていた。この状況でどう言い訳を重ねようとアネットが聞き入れるはずがない。今までのアネットがシエルへ接していた態度をみれば容易に想像できた。そうなれば戦闘になるのは避けられないだろう。
他人を積極的に傷つけたことがないとはいえ、護身程度の戦闘はユウナにも出来る。ただ、相手が戦う事を前提として、普段から戦闘の訓練を積み重ねている騎士ともなるれば分が悪いのは明白である。更に言えば、アネットはに直接仕える仕騎である。神を守ることを使命とし、そのためならば例え自らの命であっても厭わない仕騎の強さは通常の騎士を遥かに凌駕する。どうあがいても勝ち目のない勝負であることは明白であった。
無言のまま仰向けに横たわるシエルの元へといたアネットは彼女の全身を目視、触視で汲まなく確認し、生命に以上がないことを確認する。そして一通りの確認が済んだのか、小さい安堵の息を漏らした。
それも束の間、アネットは口を開く。
「これは、どういうことだ?」
ユウナの挑発に対しては反応せず、状況の説明を求めたアネットの冷徹な声色は低く物静かな割に、あからさまな怒気が放たれている。
「どういうことって……見ての通りよっ!」
ユウナは焦りを必死に隠そうとするも、やや裏返り気味の声を荒らげて、開き直ったかのように叫んだ。その声は暗闇と静寂が支配したロングルの森では一段と響き渡る。
その返答で欲する内容を悟ったのか、アネットは「そうか」とだけ短く発し、シエルの一歩前へ歩み出る。そのまま自身でシエルを庇う立ち位置まで動くと、彼女の顔元に湧泉樹から採取してきた湧水の入った透明なビンをそっと預け、紅蓮の刃身を持つ剣、クロエラの柄を両の手で静かに握り直す。
アネットから放たれていた怒気が今の自身の発言で明確な殺気に変化したことを全身で感じたユウナも、大型の厳ついナイフを逆手持ちへと握り直す。アネットに合わせて戦闘態勢へと移ったユウナであったが、対峙する仕騎の少女と異なる点は、額に絶えず流れる汗と鳴り止まぬことのない心臓の早鐘であろう。ドクンドクンと自分の心臓が脈打つ音でさえ聴力を奪われるような煩わしさに襲われるユウナであるが、目の前の仕騎だけに注力を向ける。
アネットはタイミングを計っているのか、紅の剣を構えてユウナを睨みつけたまま動かない。ユウナも小刻みに震える体をなんとか押さえ込み意を決する。
(例え勝てない相手だとしても、私は私の大義のために引けない!)
膠着状態の続く中、先に仕掛けたのはアネットであった。脚部に集中させた魔力を前傾姿勢になるとともに瞬時に開放する。瞬発性の強大な魔力に耐え切れなかったロングルの湿った大地はアネットの足型状にめり込む。だが、本人はそれすらも計算に入れていたかのように、気にも止める様子もなく、《紅刃剣クロエラ》を構えたまま、鎧の擦り合う重苦しい音を立てながら爆発的な推力でユウナへと飛びかかる。
まさに大地が震えるという表現が正しいだろう。感情の昂ぶりを見せるアネットのスピードは丘陵地帯でみせたそれを凌ぐであろう速さである。ユウナから見れば、まるでアネットがいきなり消えたかのような出来事であった。そして次に騎士の姿を知覚することが出来たのは間合いを完全に詰められ、目の前で灼熱色に染まった刀身を振り下ろそうとしていた時である。
「――はやっ!」
宙を切り裂くアネットの体重と速度が乗ったクロエラによる剣撃は、ユウナが驚嘆を上げ終える前に容赦なく降り注がれた。アネットの恐るべきスピードに不意を突かれたユウナは、手にしたコンバットナイフで咄嗟にそれを受け止め、かろうじて防ぐ事しか出来なかった。しかし、全力に近い仕騎の放った一撃は生半可な受身では到底耐えられるはずもなく、相殺しきれなかった衝撃は、そのまま全てユウナに流れるように伝わり、それを受けた少女の体は十メートルも後方へと弾き飛ばされてしまう。
ユウナの身体は、蹴り飛ばされたボールのように綺麗な放物線を描きながら宙を舞う。着地の際になんとかバランスを取ったユウナは倒れることこそなかったものの、全身に鋭い痛みが走り、腕と脚には強い痺れが出ている。幸い、漆黒色のナイフには刃こぼれひとつ見えない。
ユウナの長年愛用する黒一色で染め上げられ、センスティアの文字でブレード部にセンスティアの文字で製造者の刻印が打たれた大型のコンバットナイフはフィンガローで一番……いや、センスティア全土で最高峰と言っても過言ではない鍛冶師が特注で鍛え上げ、した一品である。切れ味は勿論、耐久性も使い易さも間違いなく一級品である。とはいえ、ユウナ自身が鍛冶師にオーダーをしたわけではなく、今は亡き祖父が注文し、愛用していたのを数年前に譲り受けたのだ。更に言えば、譲り受けた理由もとしての仕事で使うためである。人を傷つける目的で振るったのも、戦闘に用いたいのもこれが正真正銘初めてであった。
ユウナは予想を上回るダメージに苦痛を浮かべるものの、祖父の形見であるナイフが壊れていないことに内心で安堵しながら、痺れで小刻みに震える足腰に必死で鞭を打って体制を立て直す。視線を上げれば先程まで自分が立っていた場所が遥か先方に見えた。甘かったとはいえガードをしてこの威力……もし一瞬でもナイフを構えるのが遅れていたらと考えると身の毛もよだつ。改めて仕騎の強さを実感した。
「くっ……」
奥歯を噛み締めて痛みを堪えるユウナは、こちらに敵意をぶつけているアネットの姿を急いで探す。一瞬とはいえ、吹き飛ばされたことによって相手の姿から目を離してしまったからである。アネットの身体能力を鑑みれば、その一瞬で間合いを詰めることも、逆に間合いを取ることも、次の攻撃に転じることも可能であろう。次の瞬間には自分が追撃をくらい、地に伏している可能性だって十分に有りうる。戦闘時においての一瞬の隙は正に致命的と言えるだろう。それゆえに自らの隙を埋めるために最速で状況の確認を行った。
そして、絶対たる力を見せつけた紅の騎士は、闇夜でも鮮明な紅蓮色に輝く長剣をユウナの真正面で構えていた。
こんにちは、作者の村崎 芹夏 です。
大変おまたせ致しました! やっとこさの更新です。 引越しでバタバタしていて全然執筆できていなかった><
今回はなんとか更新せねばと急いで書いたのでちょっと短め&雑な部分がありますがご容赦くださいorz
今回はストーリー進展というよりも、ユウナの心象を中心に描いている感じですね。 ユウナさんの目的が分かっちゃったりします。 ただ、そんな目的に反して決して気丈な娘じゃないんです。
ユウナさんのキャラ設定って実はすごい迷っていたのですが、話が進むにつれて勝手・・・自然とキャラ像が浮かんでくるものなんですね(おい
次回はアネットさんとユウナさんのバトルを中心に書くつもりです。
もうじき10万字!頑張らなくては!(笑)
ではでは今回も読んでくださった方々、ありがとうございます。
また次回投稿した際にはよろしくお願いいたします。