16の冬、近づいた距離と繋がったもの
『 別れよう 』
そんな愛想も素っ気もないメールがきたのは、新年が明けて新学期も始まった寒い朝のことだった。
『 わかった 』
と、メールを送り返してパタンと携帯を閉じる。
すでに冷え切っていた仲だったが、まだ終わってなかったんだな……なんて冷静に考えていると、電車が揺れて隣の人と肩がぶつかってしまった。すみません、とつぶやきつつまたもとの位置へと戻る。
大人のような真剣な恋愛だったわけではない。もちろん遊びだったわけでもないのだが、こんなもんだろ。という程度の付き合いをしていた。正直、悲しくも何とも感じない。
小さく息を吐きながら、ゆっくりと電車のつり革に掴まって窓から見える景色に目線を移した。
すると、ふとひとりの女のことを思い出した。ただの中学の同級生だ。
……彼女と別れたこんなときに思い出すなんてな。なんて他人事のように笑ってみながら、俺は彼女のいた景色を鮮明に思い出していたーー
不思議な人。
それが鈴矢の印象だった。
いつもその顔に表情はなく、みんなが
みて、あれ!
と遠くを指差しても、ひとりで別の方へと目を向けているようなやつだった。
話したことは数える程度にしかなく、
「畠野くん、呼んでる」
と、他クラスの友達が呼んでいることを伝えてくれたあのとき以外は話しかけられたこともない。
しかし、その姿勢が綺麗で不思議とよく通る低い声を、なぜか俺はいつも追っていた。
お前好きなやついんの?
そんなふざけた話題になったときに浮かんでくるのは、いつもあの低い声で……。
頭でぼんやりとその低い声を浮かべながらも、口では軽く笑顔を浮かべて
いねぇよ。
と返事をした。
別に嫌だったわけではないのだが、好きな人がいるなんてぴんとこなかったし、好きとかそんなんがよくわからなかった。それに、あんまし話してもないやつなんて好きにならないだろ。そう、自然と決めつけていた。
その後、鈴矢とは特になんもなかった。
その前もなんもないからその後とも言わないだろうけど…。
さっき別れた彼女には、中学の卒業式が終わったあとの記念撮影やらなんやらで溢れかえった校門の前で告白された。特に振る理由もなかったため
名簿にチェックいれといてくれない。
うん、いいよ。
くらいのテンションで応えた。いま思えば、酷い話しだなと思うものの、そのときは別に好みのタイプじゃない訳でもないし…なんて思っていた。ただ、卒業式で涙を流したであろうその真っ赤にした目を、大きく見開いて驚きと歓喜を押し込めたような笑顔をみたときに、可愛いな、と思ったのは事実だった。
その人ごみの中で、笑う彼女の肩越しにみえたあの綺麗な後ろ姿に視線を奪われたまま、彼女の頭をそっと撫でたのを覚えている。
あれからまだ一年も経ってないわけだが……そんな記憶ももう遠く感じる。鈴矢はどこの高校にいったんだろうか? それすらも知らない相手のことを考えるなんておかしいのか?
なんて、よくわからない感情を持て余しながら俺はぼんやりと電車に揺られていたーー
ーーー
ーーーーー
ーーーーーーーーー
「………疲れた」
意味もなくポツリとつぶやいてみる。ふとみた時計の針は、午後八時を示していた。今日は割りと早く帰れたなと思うが、やっぱり冬の夜は暗いな…。寒っ、と肩を縮こまらせて俺は家へと歩き出した。
駅から家まで歩いて十五分。人通りは少なく、街灯もそう多くはない。
暗い道を歩きながら携帯をいじるなんてのは、面倒臭いしなぁ……。にしても、別れたっていった途端みんなして露骨に喜びやがって。少しは落ち込んでるかも、なんて友達のこと気遣えっての。……まぁ多分なんとも思ってもないっつうのばればれだったんだろうけどな……て、あれ?
「………鈴矢?」
こんな寒い中、街灯の下にはどこか一点を見つめている姿勢の綺麗な女がいた。今朝の電車の中のことを思い出しながら、半信半疑に俺は恐る恐る話しかけた。
女は、無言でこちらへと視線を移す。
「鈴矢…だよな? 何してんの、こんなところで」
何も言わないその目に少し戸惑いつつ、鈴矢がさっきみていた方向へと目を向ける。何気なく隣に並んでみたが、ひんやりとした冬の空気と同じく、二人の間にはただ沈黙が流れるだけだった。
別にそんな親しかったわけでもないのに、ちょっと図々しかったか。
さすがに沈黙には耐えられず、恐る恐る鈴矢の顔をみると、鈴矢の顔は俺へと向けられていた。少し跳ねる心臓。いつからこちらをみていたのかと考えると、なんとなくどこかがかゆくなってきた。
「お疲れ様」
ふいに、低く心地いい音が俺の耳に届く。
「部活、お疲れ様」
もう一度ゆっくりと繰り返された言葉の中には、温かいものがあった。
あぁ、とそっけなく返すが思いのほか嬉しく、口元は緩く曲線を描いた。
並んでても……いいのかな。
言葉は続かなかったが、少しこの沈黙も気持ちよく感じてきた。なんか……このままでいたいかもしれない。
心地よく高まる鼓動と体温が俺の身体をゆっくりと包み込み、冷たい空気がそっと頬を撫でる。ぼんやりと浮かぶ街灯が二人をそっと照らし、いつもの道ではないところへと錯覚させる。
まだこのままでいたい。
でも、もう夜も遅いしな…。
そんな葛藤をしつつさりげなく鈴矢をみると、その瞳はやはり何かを見つめている。
鈴矢の瞳には…なにが映っているんだろう。
一体なにが聞こえていて、
なにに触れて、
なにを感じているのだろう。
掴みたい。
触れたい。
覗き込みたい。
全部全部、
感じてみたいーーー
「綺麗」
「へっ⁉」
鈴矢の一言に、一瞬にしてその場に連れ戻された。さっきまでの心地いい鼓動と違い、激しいものが身体を波打っている。
なにが、とごまかしつつも、鈴矢には全部お見通しな気がして目も合わせられない。
遠くに見える三角の屋根を意味もなく見つめながら鈴矢の言葉を待ってみるが、そのあとには何も続けられなかった。待ちきれずに、思い切って鈴矢をみるとその瞳はまたも同じ方向へと向けられている。
あのさ、と呆れ気味に肩に触れる。想像していたよりも小さいそれに、少し驚く。が、そんなことも悟られるなんて恥ずかしすぎる、と言わんばかりに大きく息を吸って口を開いた。
「寒いし、そろそろ帰らねぇと風邪ひくぞ?」
……応答なし。
あぁ、もう。そっちになにがあるんだってーー
「寒いから」
凛、と冷たい空気に響く声。
…わかるよ。
…やっとわかったよ。
鈴矢がさっきから見ていた景色。
この先に続く言葉。
もしかして
鈴矢が見ていた景色はいつもこんなにーー
「寒いから……星が、よく見える」
ーー綺麗だったのか?
いつもつま先をみて、寒い寒いと縮こまって帰っているこの道の上には、こんなにも綺麗で眩しいものが広がってたなんて…。
あれは、冬の大三角形だっけか。小学校のときに習った気がする。……とすると、あれはオリオン座だな。
大きな星や星座を眺めていくと、いつもなら気づきもしない小さな星がいくつも浮かんできた。よくみると全部同じ輝きではなく、一つ一つ違うようにみえる。
すげぇ。すげぇな…。すげぇ綺麗だ。
「いいな」
「ん?」
夢中になって上を見ていた俺は、耳だけを鈴矢に傾けた。鈴矢の声を聞きながら一面に広がる星空をみているだけで、すごく贅沢だと思える。中学のときには想像もできないシチュエーションだ。
「畠野くんは……私よりも星が近い」
ぽつりと届いたその声は、珍しく表情があらわになっている。
そっと視線を移すと、やっぱりその背中は綺麗に伸ばされていた。
もしかしたら、いつも綺麗に伸ばされているその背中は、少しでも近づきたかったのかもしれない。あの、吸い込まれるかのような星空に。少しでも近くへと。手を、背筋を伸ばして。
「あっごめ……」
軽く手が触れた。
いつからこの星空を眺めていたんだろう。
その手は、ひんやりと冷たかった。
しばらく無言で星空を眺めていたが、帰ろうかと声をかけると、鈴矢はこくんと小さく頷いた。鈴矢の家はここから近いらしく、送るよ、というと、鈴矢はまた小さく頷いた。
「あそこ、私の家」
指さされた方向には、少し古くてこぢんまりとした温かみのあるアパートがあった。
もう着いちゃうのか…。なんて少し残念に思いながら、気持ちゆっくりと足を進める。
「そういえばさ、いつもあそこで星みてんのか」
ううん、と首を横に振る鈴矢。
「今日はたまたま。……なんか、立ち止まってみたくなったから」
そう言うと、鈴矢はぴたりと足を止めた。みると、もうアパートは目の前だった。
「でも、立ち止まって良かった」
どこか意味深な言葉に、なんで、と尋ねようと口を開くが、先を越された。
「失礼なこと聞くけど。畠野くん、彼女とはまだ付き合ってる?」
「へっ⁉」
不意打ちだ。
一体なんでそんなことを鈴矢が…? ってか、まだって知ってたのか⁇
と、顔にはださないが内心すごく戸惑いつつも、ここは冷静に。
「別れた…けど」
ちらっと鈴矢と目を合わせると、やっぱりの無表情。駄目だ。全然わからない。
頭でぐるぐると考えつつも、鈴矢が口を開くのをじっと待つ。いつのまにか、さっきまで吹いていた冷たい風は止んでいた。
「来月のこの日も、会えるかな」
すぅ、と自分が無意識に息を吸い込むのが聞こえた。
来月のこの日ってーー
「勝手に星みて、待ってるね。…送ってくれてありがとう」
今日。……いや、いままでに一度も見せなかった笑顔を見せて、じゃあと手を降ると、鈴矢はアパートへと歩いていってしまった。
今日は、一月十四日。そんで来月はーー
「すぐいく! 部活、すぐ終わらせるから‼ 」
あ、と思ったときには遅かった。馬鹿か、俺は。もう夜遅いっていうのに…。
「待ってる!」
顔をあげると、鈴矢が大きく手を振るのが見えた。
今度は大きく声をださないようにと、俺も大きく手を振って応える。鈴矢があのドアの先へと消えるまで、大きく手を振って。何度も、何度もーー
鈴矢が好きだ。
いま、はっきりと言える。
ごまかさずに、はっきりと。
空に輝く星座のように長い間繋がっていたわけではないが、今日繋がったこの時間は星座のように奇跡に近い。あの頃の俺からみるときっと、眩しくって遠いもんだろう。
冷たい空気を大きく吸い込んで、すっと背筋を伸ばす。
真上には丁度、オリオン座がみえた。
これで少し……近づけたかな。
星空に。
鈴矢に。
伸ばした分、ほんの少しでも。
ただいまぁ、と家のドアを開けると、母親の声と壁にかかったカレンダーが俺を出迎えた。
約束の日まで、あと一ヶ月か……。
今日、寒さが少し好きになれた。
春も、もう近づいている。
なにもなかった二人の間が繋がるのも、そんなに遠くはないのかもしれないーー