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烏と、天狗と

第九章:烏と、天狗と


 世は元禄、華々しい天下泰平の世!とあいなっても流行病というのは恐ろしいもので、たまにたくさんの人が仏様になる。悟るどころか風呂屋で女湯を覗いて喜んでいる男衆が仏様になるので極楽浄土はてんやわんやだろう、南無阿弥陀仏。そんな感じにお釈迦様のためにお経をあげるようなことに、最近なりつつある。流行病が東海道を伝ってきて、人がばたばた倒れていく。江戸まで行ったらお上はきっと大騒ぎ、犬の次は猫とか鼠とか大事にするかもしれない。蚊かもしれませんよ、と清六が冗談を言っても冗談に聞こえなくなるから困ったものだ。言われる前に蚊を大事にして線香をあげて、仏壇の前で蚊が仏様になる。南無阿弥陀仏。


 そういう病が来そうだと聞いても沼津に来るのはいつのことやら、まず本当に来るのかなと呑気に構えていたけど、来るかもしれないという話が来たということは話を誰かが持ってきたということ。それに気がついたのは、うどん屋の若旦那が飛び込んできてからだった。落ち着いてしゃべりなさい、聞き取れないでしょう。表のうどん屋を任されたあんちゃんは悪い人ではないんだけど慌てん坊で気が気でない。お付きの人がいるにはいるけど二人してせわしなく困ってるし。町の寄り合い所で倒れる人が出て店を閉めろとお達しが来た、どうしたらいいの!やれやれ、大将は店をこいつらに任せて本当に良かったのだろうか。流行病が町中で出れば沼津が潰れる。集まって話し合いたいが一人病人が混じればみんなやられる。私は昨日寄り合い所に行ってなくて、若旦那は新参者で下衆だ下衆だと警戒されているから呼ばれなかった。ちょっとやりすぎる人だしなあ。


 店の前で話していると、割って入ったのは見慣れぬ人。山伏だろうか。真っ白な服を着て、頭に飾りをつけていた。家を出てはいけません、病が広がります。我らが行くまで、いらぬことはせぬように。なんか偉そうだから身分があるのかと思えば、医者だという。うーん、よくわかんないけどそうなのか。納得しそうになったとき、若旦那が言い返した。適当なことを言う前に他人のことを考えろ、的なことを言ってたんだけど慌てん坊だからよくわかんなかった。医者を追い返して、こんな学のない馬鹿に説明できない医者は藪に決まっている、とぷんぷん怒ってうどん屋に戻る若旦那を、「大丈夫とは言わないが、おもしろい御仁だ」と清六が見送った。




♪ちゃかちゃんりんちゃんりん、どんどん。


 昔昔、遥か古の時代。東海道の果ての更に西、長崎の海を渡りさらに西へ向かった大陸に、大きな国があった。永き歴史とひたぶる研鑽で世の理を解き明かした大陸の人は、海を渡りお上に技を授け、陸を歩き更に西へ伝えた。大陸の大きな国の更に西、北へ西へと技は絹とともに受け継がれ、いつしか大きな国の技は何かに変わったという。地の果てで妖に化けた何かに、大陸の人は怯えた。どんなに高い壁も、どんなに長い城もそれを防ぐには至らない。自分で作ったがゆえに恐ろしさを知る大陸の人は、死に物狂いで戦った。だがどんな鉄壁の守りにも、思わぬ穴がある。目に見えぬとわかっていても、見えぬのだからわからない。何よりも恐ろしいのは、誰よりも美しい女だったという。今大陸は大騒ぎ、いずれはこの東海道を、伝って江戸へ行くかもしれぬ。




ちょんちょん、と箸で机を叩いた清六の話を聞いて、子供たちが「悪くはないけどぎこちない」と素直な感想を述べた。こないだまでが良すぎたから今のが気になるのかもね、と次から次へと率直な意見が出てくるので清六が正座して落ち込んでいる。これでもこないだまでよりはだいぶ良くなっていて、時間をかけたらもう少し良くなるだろう。「若旦那はどうすればいいか知っているだろうか」と本気で言うから、あいつは信用ならないとみんな言っているからと止めておいた。藁にも縋る思いの清六は、一度江戸に行こうかと悩む始末。行ったらどうなるのよ。清六のやっていたことというのが、できれば当たり前になるのにできなくなるとわからないという始末の悪いものらしく、毎日水汲みの桶の持ち方を変えては頭を抱えている。時間をかければできるのだが待ち人がいつ来るかわからないから焦っていて、焦るから進まないという悪いめぐりにはまっている。まるで煮付けのの塩気に悩んでいた父さんだ、薄味すぎてみんな味がわからないから飯が進まないと言って表のうどん屋ばかり行く。「塩と醤油を置いておけば自分で適当に入れるだろう」と教えてくれたのは先先代のうどん屋の女将さん。すごい人だった。そういうのを見てたから一度これが始まったら終わらないのも知っている。誰かが教えてくれるようなものでも、ないだろうし……と思っていたら権兵衛が清六の隣に座った。俺はもう教えられねえよ、と頭を抱える清六に、権兵衛が小指を出して微笑んだ。そうだったな、と清六が小指をかけて、指切り。がんばるよ、と散歩に出かけていった。そのときは思わなかった。清六と権兵衛が、当たり前に一緒にいるのが、このときが最後だなんて。


 清六が出かけて、夕方になっても戻らない。戻ってこないといけないということは、権兵衛が心配する以外に何もないのだけど、権兵衛が心配するものだから探しに出た。店を出て少しだけ外を見て、すぐに帰るつもりだったのにそうもいかない。山から、煙が上がった。見たことのないくらいの火柱が、すごい音を立てて上がって黒い煙が上った。何が燃えているの?荒れ寺に火がついたからって、あんな燃え方はしない。燃えるとしたら……清六が何もできなかった臭水しかない。燃えるとは聞いた。でもあんなに燃えるの?みるみるうちに広がる炎が山を真っ赤に染めていく。何ができるはずもなく、山が焼けていくのを見ているしかなかった。妙な噂が立ったのは、次の日。清六は、帰ってきていない。


 山が燃えたのは、天におわす神様の怒り。疫病を撒き、罪深い者をあの世に送る。皆祈れ、死にたくないなら。誰が言い出したのかもわからない馬鹿な話を信じる人が、たくさんいた。私は何を言っていいのかわからず、しゃべれないというのはこんなにつらいのかと権兵衛の気持ちが少しだけわかった。町ではそんな話に怒る人が、若旦那をはじめ少しだけいた。でも何が起こっているのか、何を言っていいのかわからなくて、喧嘩が始まる。そうなれば誰も話を聞かず、お互いを信じない。誰かがでたらめを言った。それ以外のことはわからず、わからないなら何も言えなかった。一人だけ、おかしな奴を知っている。少し前に見かけた、医者だという男。絶対に怪しいけど、あいつじゃない。そんなことができるほど、切れ者だとは思えない。だから、誰かがいるんだ。あいつの向こうに、名前も顔も持たない誰かが。そんなことを言えるはずもなく、沼津の町は静かになった。


 店にお客は、来ないということはない。たまに来るけど、飯が不味いと文句を言う。強めに味をつけてもわからないらしく、醤油を山ほど入れないと納得しない。舌がおかしいんじゃないか、なんて冗談だから言えることで本気で言えるわけがない。だからうちの店が、やたら不味くなったと悪い評判が立った。なら表のうどん屋に客が行くかというと、そういうわけでもない。何を食っても不味いという人が増えて、なぜだろうと不思議だった。いつも遊びに来る子どもの一人が、お母さんが持っていたという花を見せてくるまでは、私にはわからなかった。それを見た途端、私は叫んだ。持っていてはいけないはずのその花を見て、怖くなって叫んだ。


 これは、朝顔のような花。本当はこの辺りにはない。海を渡った大陸の端から、誰かが持ってきたものだ。一度だけ父さんが、佐山一家から取り上げて怒っていたのを見た。……父さんが本気で怒ったのを見たのは初めてだったから、すごく怖かった。これは朝顔に見えて、朝顔ではない。毒かといえばそうではないが、怖くてとても使えない。使うとしたら命がけ。幻と共にこの世が見えなくなるというその花を、子どもが当たり前に持っていた。私が腰を抜かすと、子どもは気味悪がって花を捨てた。それを拾った権兵衛が、花を持って歩いていった。どうしたの?とついていくと、花を川に投げ込んで手を合わせ、私を見た。私に手を振って笑った権兵衛は、そのままどこかへ行った。もう振り向かず戻ってこず、呼んでも聞かず歩いていった。お別れはいつも寂しいもの。権兵衛がいなくなって清六もいないなら、きっと寂しい。今までも少しだけ思ったことがある。でも、お別れがこんなに突然来るなんて私は思わなかった。




 人が少なくなった店は、思っていたよりずっとずっと静かだった。静かすぎて、うるさい。でも音を立ててくれる人が、少ししかいない。いつも来る常連も、大して騒がない。自分だけ元気だと余計に寂しくて、私も静かになった。だからその日来た、太田とかいうどこかの侍もあまり気にしなかった。その名前を聞くまでは。


「人を探している。村井、真左衛門という男なのだが……」


 ……父さん?父さんを知ってるの?でも太田という侍は、真左衛門を知らないという。探しているのは、村井。探させているのも、村井。太田が知っているのは、村井の弟。伊豆の町の唐変木だという。真左衛門はおかしな男で、くだらぬ情に絆されて頭を抱えて振り回される。飯を作れば人と舌が違うものだから不味いと言われる。なのに村井に、お前より強い男はいるかと聞けば真左衛門しかいないという。兄者より腕の立つ男を、俺は知らぬ。もう何年も会っていないが、死んでいるわけがない。そう言って太田に、探してくれと頼んだ。もしかすると鼬という男が来たかもしれぬが、会っていないだろうか。叔父さんが父さんを探していると聞いて、太田に詰め寄った。縋ったと言った方がいいかもしれない。私は、寂しくて仕方がなかった。顔も覚えていない叔父さんに、助けてほしかった。でも。


 叔父さんは、もう自分で真左衛門を探せない。雷獣と戦い手傷を負い、目を患った。もう何も見ることができない。真左衛門が目の前にいたとして、わかるとは言えない。その目がもう見えないのだ。私が顔も覚えていない叔父さんは、もう誰の顔も見ることができない。助けてくれなんて、とても言えなかった。村井が倒した雷獣は怪物だったと語る太田の言葉に、耳を貸すこともできない。うなだれる私に、太田は言っていた。村井が言うには、終わったわけではない。自分がこの様なら、誰かに頼まねばならない。怪物の姿をした怪物などかわいいもの、恐ろしい怪物は人なのだ。……残念だけど、真左衛門は死んだわ。帰ってちょうだい。太田は少しの間黙って、そうしようと言っていた。銭を置いて帰る間際、これは俺が思うだけなのだが、と余計なことを付け足した。


「真左衛門には娘がいたそうだ。道場の隅で、跳ね回って遊んでいたのだとか」


 そんなことを、村井はふと口にした。必要ではなかったはずだ。きっと今も、覚えているのだろう。真っ暗なまぶたの裏で、真左衛門とその娘を、見ているのかもな。余計なことだった、と言い残して太田は店を出た。本当に余計なことだ。そんなことを聞かされて、私は涙が止まらなかった。




 沼津の町で妙な噂が立った。最近いつもだから気にしていなかったけど、みんな気になるらしい。神子札を手に入れれば、疫病にかからない。そんなわけないでしょ、なんて誰も思わない。私はおかしいのだろうか。みんながおかしいと思うのは、私がおかしいのかな。食い物の店はだんだん少なくなって、大将ならどうするだろうなんて若旦那が言っていた。でもすぐ話を切り上げて、大将も苦しいのだと腹を決めたようだった。腹を決めたからといって何ができるわけもなく、潰れるまで店を開けるといつも通り商売していた。商売なんて、一人でやるものじゃない。表に店があるから、私も店を開けていた。そこに現れた、妙な男。おかしな仮面だけど、大陸のものではない。なんだろう。頭から布を被り、首から飾りを下げ、腰布は地面まで垂れる。多くの人が、その男についてきて、店の前に並んだ。


「もし、化け物を知りませんか」


 この店に、憑いていたはずだ。そう言われても何のことかわからない。その化け物は、このような怪しい絵を皆に進めた。頭から長い髪が伸び、嘴、三つの尾鰭を持つ右を向いた異形。悪魔の刻印だ、というその人に絵を見せてもらったんだけど。


「なんだか……似てますね」


 何がと聞かれるとわからないけど、男と異形の絵が似ているように見えた。右を向いていないくらいかな、違うのって。そんなことを気軽に言ったつもりだったのに、男は怒った。自分の妙な格好を棚に上げて、魅入られていると叫び出す。周りの人が我先にとつかみかかってきて、清めてやると言い出した。馬鹿!どこ触ってんのよ、助平!そんなこと言ったって止まるはずなくて、何もできなくて。もう駄目だと思った。そいつらの後ろにそれが降り立つまで、もう駄目だと思っていた。


 空から舞い降りたのだろうか。どこから現れたかわからないそいつは、地面に降り立って音を鳴らした。かかん!と高らかな下駄の音。噂に聞く、天狗というやつだろうか。そんなわけがない。だって知っている。久しぶりに戻ってきて、なんでこいつが来ただけで、こんなに嬉しいんだろう。清六は、男たちを睨んだ。皆息を飲み、動かない。歩み寄った清六は、ひゅっと指を走らせて男の仮面を切り裂いた。どこにでもいる禿げ親父の顔が出てきて、慌てて逃げていった。周りの人たちは立ち尽くして、散り散りになった。あんなのを追いかける必要はない。それよりも、この酷さはなんだと清六が怒っていた。山が燃えたとて戻っても何もできない。滝に打たれ木に登り、それでもまだこの様だ。しかし……戻るべきだった、と清六は唇を噛んだ。清六は店の中から父さんの杖を持ち出して、今度はついてこないようにと強く言っていた。こんな未熟者がなんとかしようというのだ。先代のお力を、お借りします。下駄を履いて杖を持ち、清六は山へ向かった。約束しましたから。がんばるだけです。そんなことを言う馬鹿を、放っておけなかった。何回言われたって、私はついていく。見届けないと、私の気がすまないんだ。


 焼けた山の反対側、川縁に沿って清六は森へ消えたようだ。行く先々で男が倒れていた。大柄でたくましい男たちが、肩を外され膝を打ち抜かれて立てなくなっていた。うんうん言っているのをよそに、私は森を進んだ。開けた場所に作られていた掘立て小屋の前で、清六に追いつく。その中から現れたのは、以前戦ったのと同じような赤い大男。そしてもう一人、真っ黒な体で目を血走らせた同じくらいの大男が、清六の前に立ちはだかった。二人の大男は、迷うこともなく躊躇うこともなく、清六に襲いかかった。清六は、杖を地面に突き立てて宙を舞うと、身を翻して二人の大男の首筋を蹴った。驚くほどあっけなく二人は倒れて、清六が地面に降り立つ。先代の前で、恥ずかしいことはできない。お互いにでしょうね、と清六はこちらを見もせずに言った。そして現れた、最後の男。掘立て小屋の中にいた、奇妙な男だった。


 烏、だろうか。大きく口の突き出した覆面、丸い覗き穴。穴の奥の目は見えず、全身を布で覆って肌も出ていない。烏の男は布切れの中の手を、清六に突き出した。その途端、音。短筒だ。清六はわずかに身を捩り避けたようで、男の手を杖で薙ぎ、短筒を叩き落とした。男は左手から突き出した剣で、清六を切りつけた。清六はまたもかわして、右手の指先を振り抜いた。


「喝ーっ!!」


 どちらが烏かわからないような雄叫びと共に、清六の指先が消えたように見えた。そして、斬撃一閃。烏の嘴のような仮面を切り裂き真っ二つ。すぐに男に一撃見舞って、相手は倒れた。やった!清六!私が駆け寄ろうとすると、清六が止めた。来るな!……本気で怒られて、私は立ち止まった。清六は、私の方を見て少しだけ笑っていた。


「どうやら、ここまでのようです」


 江戸には、鼬がいる。百害もいる。大将も、平賀さんもいる。……後は、任せるとしましょう。清六が何を言っているかわからず、私は次の言葉を待った。でも清六はそれ以上何も言うことがないようで、立ち去ろうとした。……待ちなさいよ。権兵衛は?あの子はどうなるのよ!今はいないだけ、すぐに戻ってくるわよ!もう少しだけ!清六は振り向くこともせずに、言っていた。伝えてください。泣きたいときは泣くように。……清六は森に消えて、戻ってこなかった。私は寂しくて仕方なくて、これから来る嵐に、気がつくことはなかった。



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