一本しかない、一本ない
第七章:一本しかない、一本ない
たたらを踏む、という言葉がある。つまづいてよろめく、と言えばいいところを少し小洒落た風に言っただけで、たたら場ではよくあることなのだろう。鉄を作ろうと思ったら大変な仕事だから、女がみんなで吹子を吹いたり男の力自慢が必要だったりする。山奥にはそれを生業にしている人たちもいるのだから感謝だけど、たたらって何?って聞かれたらよくわからない。鉄を溶かすために火を焚くんだから、釜戸とでも言っておけばよさそうなのに。
うどん屋の大将の出立が近づいて、平賀さんも一緒に江戸に行くらしい。そもそも江戸に行くついでに引っ付いてきたからちょうどいい、と荷造りをしているとか。もし一族の者が東海道を通ってきたらそいつをよろしくお願いします、というので笑ってごまかした。名乗らないだけでちょくちょくいると聞いているのでゾッとする。今度うどん屋を任される若旦那はどんな人か知らないけど大将よりは常識があるだろう、とある種気楽だった。平賀さんはやっぱり清六が気になるようで、江戸の土産になるような話はないだろうかと聞いていた。その手の川を渡るなら教えるかもしれないけどやっぱり流されて、知らぬ方がいいですかな、と聞いたら「言えるのはこれが全てです」なんてあしらわれる。平賀さんはわかったような顔をして、自分はまだ言いたいことがある、と言っていた。世の中には知らないことがたくさんあって、すごいこともおもしろいこともあるし便利なものもある。すごいことや便利なことを考えるのが好きだと、時々見えるのだそうだ。恐ろしいものが。すごいことや便利なことの隙間から、何かがのぞいている。そんなとき、思わず目を伏せてしまう。とんでもないものを見てしまったのではないかと、怖くなるのだそうだ。わかっている。自分は、信用ならない。信用できるのは……。平賀さん、とうどん屋の丁稚に呼ばれて平賀さんは帰っていった。
平賀さんがいなくなると聞いて、清六がほっとしていた。失礼な奴ね、顔に出すなんて。清六には遠慮がなく、厄介な御仁だったと帰らぬ人みたいな言い方をする。清六曰く、にじり寄ってくるのは金持ちでもお上でもない。もしもこうなら?だったらどうなる?それを飽きもせずに繰り返す者は、不意に見つける。自分にとっても、油断のならない相手だという。やっぱりこいつは悪巧みをしているのだろうか。待ち人とやらが来る気配もないし、宿代を浮かせているのでは?と金勘定を疑っていた。
大将の出立の前日、沼津の町で騒ぎがあった。よりにもよって死人が出て、佐山一家の若いのが一人大慌てだった。そんなつもりじゃねえんだ!と何を言っているのかわからなかったけど、無作法にも清六が仏さんの腹を探って、小石程度のものを取り出した。この人は、鉛を撃ち込まれて死んだのだという。清六は真剣な様子で、平賀さんを呼んでくれと言ってきた。こんな場所にいたくないから黙って呼びに行く。これがどれくらい大事かなんて、人が死んでいるのにまだわかっていなくて。
死んだのは絡まれた人で、よくある喧嘩だった。佐山一家の若いのは、本当に殺す気はなかったと申し開きをしているがじゃあ何をしたのか。そんなに簡単に死ぬわけないとみんなで詰め寄った。佐山一家がこんな下っ端をかばうわけもなくて、若いのはすぐに放り出した。短筒というのだろうか、でもこんなの見たことない。でもたぶん短筒なのだろうとしか思えないものを、遅れてやってきた平賀さんに見せると、難しい顔で黙り込んだ。織田のものでしょうか、と清六に聞かれて、平賀さんはようやく口を開いた。
「桶狭間ではないでしょう。しかし同じようなものだ」
織田の火縄式よりもずっと軽く小さく、優れている。どこかで繰り返し作ったのだろうが、何のために作ったのかと聞かれれば人を撃つ以外にはない。鉛を撃ち込んで人を殺すために、繰り返した。それ以外に、銃が優れる理由はないという。こんなものが手に入るとすれば、長崎か……清六がそう言いかけて、平賀さんが止めた。銃の台を見れば、わかってしまうという。
「檜だ。南蛮にはないらしい」
この短筒は、遠い海の向こうから来たのではない。近くで作られたのだ。平賀さんの言葉に、全員が息を呑んだ。人を殺すために、誰かが繰り返している。その一つが、ここにこぼれ出た。静まり返る沼津の町に、時期の早い木枯らしが一つ吹き抜けた。
「平賀さんは、いったい何を見たのですか?」
清六に聞かれても、平賀さんにはいつもの元気がなかった。名乗った方が良いでしょうかと聞かれて、必要ないと答えた平賀さんはようやく話し始めた。考えるのが好きで、感じるのが好き。それだけの一族で、それ以上ではない。だが、ときに思うのだそうだ。この世には、すごいことも便利なものも、ない方がいいのではないかと。人を苦しめるのに便利なものなど、生み出してはいけない。だが、見えることがある。何か恐ろしい、その先にあるものが。織田も太閤も、どこまで考えていたかはわからない。だがもし、世界のどこかに火薬の使い方など考える阿呆がいたならば、死ぬまで後悔するだろう。そして真に恐ろしいものは、その後悔の中で忍び寄ってくる。死ぬまで終わらぬ苦しみが、見えているのに見えなくし、そいつが死んでも終わらない。ならいっそ、何も考えることのない猿になった方がいい。木の上で欠伸をしている猿を見て、なんと賢いのだろうと幾度も思ったそうだ。何度も垣間見た恐ろしい何かから、いつも目を逸らしてきた。それが今、逸らしようもないほど目の前に現れて、面食らっている。それだけのことだ。図に載る阿呆の蛸踊り、お話しするほどのことではありません。それ以上平賀さんから何も聞くことができず、夜が更けていった。
かなめさん、ちょっと行ってくる。そんなこと言われても、もう店に誰もいなくなって、清六が出かけるからって気にするつもりはなかった。でもその出立ちがどうかしている。腹にはさらし、手と足には具足というのだろうか、硬い鉄器を身につけて出かけようとする。なんでそんなものを持っているのか、どこに行って何をするつもりなのか。問い詰めると、哀れな奴らを助けてくると言っていた。いくら平賀さんでも哀れまれる筋合いはないでしょうと止めたけど、平賀さんではないという。ここ数日で佐山一家を何人見たかと聞かれて、別に毎日見るわけではないから三日程ほど見ていない答えた。清六はもう少しこまめに気にしていて、四日前に二人で歩いていたのを最後に見ていない。昼間の馬鹿が三日ぶりだという。隠れているわけではないのなら二人のうちどちらかは見るのが道理、ましてこそこそできるような器用な奴らではない。ならば、見ないのはいないからだと考えるのが自然。なぜいない?いたからとて咎める者もおらず、隠れることなどしない連中が、なぜいない?どこかに集まっているのだ、と清六は語った。そしてすぐに、集められているのかもしれないと言い直した。まさか、と私は息を呑んだ。轟徒衆が、佐山一家使って何かを始めた?おそらくは、と清六が言っていた。金の力と、金も及ばぬ何かの力。人を狂わせるには、余りある。店を出る前に、清六は足を止めて話した。哀れなものでしょう。銭の上で踊りながら血を流して死んでいく、善ならぬ者の宴。止めてやらねばなりません。筋者も、轟徒衆も。そう言って店を出ようとした清六を、思わず呼び止めた。轟徒衆を、助けるつもりなの?佐山の連中ならまだわからないとは言わない。でもそんなくだらない悪党たちを、なんで助けるの!でも清六は、当たり前のことだと思っているようだ。東海道の端っこよりずっとずっと西から来た、くだらない奴らは佐山一家と変わらない。ずっと向こうの西の果てで、同じ目に遭わされた奴らが、轟徒衆などと名乗っただけ。全員同じ。全員がくだらなくて、全員が哀れな奴ら。それが轟徒衆で、佐山一家なのだという。人から人へと移り渡り、狂って死んでまた渡る。まるで亡霊のような、そんな奴らなのだという。清六はもう行こうとしたけど、私は黙っていられなかった。待ちなさい!私はボロボロ泣いていた。そんなつもりはなかったのに、泣くことなんてないはずなのに、涙がどんどん溢れ出た。あんたが言ってたんでしょう!幽霊が、そんなものであるものかって!死んだ人は、草葉の陰で笑っているんだって!清六は少しだけ立ち止まって、私の話を、聞いていたんだと思う。かなめさん、ありがとう。そう言って清六は店を出ていった。後からやってきた権兵衛が清六についていこうとしたけど、止めた。権兵衛は留守番!私が行く!私は清六を追いかけて、店を飛び出した。
店を出た清六には急ぐ様子はなかったけど、もう姿が見えなかった。あっちに向かったから、たぶん山の中。こんな時間に女一人で入る場所ではないけど、明かりがあれば別。……山の中ほどに、いつもは見ない火のゆらめきが、ぽつりぽつりと見えていた。いったい何があるんだろう。私は山に入っていった。前に一度だけ来た道を、山寺へ向かって。あのときは清六と、鼬という男が一緒だった。一人で来るにはあまりに不気味で、来たことがなかったらきっと登れなかっただろう。山寺が近づくと、誰かの歌声が聞こえてきた。
〜〜一つ、この世は銭のため。無慈悲に生まれたこの体、粉にしてあなたに仕えます。二つ、背負った愚かさは、許してもらう夢の旅。今日もあなたに仕えます〜〜
頭がおかしいんじゃないかと思うような歌声で歌っているのは、実際にどうかしている連中だった。山寺に集められた佐山一家は、虚な目で鉄の塊を運んでいた。何をしているのか、たぶん誰もわかっていない。もう年寄りの佐山の親分でさえその中に混じって、傷だらけの泥だらけ。誰もおかしいと思っていない。悲鳴を上げるのも忘れて見ていると、後ろから声をかけられた。いたのは清六。思った以上に、まずいことになっているという。
働く佐山一家に混じり、見慣れぬ者たちがいたのに気がついたかと聞かれて、少しだけ気になったと答えた。おそらくは轟徒衆、一番下の手下となれば佐山一家と変わらない扱いを受ける。長崎から来たのだろうが連中の親玉の姿がないという。何をしているのかといえば、鉄で何かを作っていて、大した考えはないのだろうと言っていた。おそらくはどこかの山奥で人を集めればいいと思っただけ、無茶をするから厄介な連中であれば饕餮たちも黙っていない。お上も大陸も、大変ですからね。そう言って私を送り返そうとした。でも私は帰る気がない。ここで帰るくらいなら、最初から来ていない!そのとき、佐山一家の誰かが悲鳴をあげた。佐山の親分が倒れて、悶えている。足の筋が切れたのだろうと清六が言っていたけど、耳に入らない。荒れ寺の奥から現れた大男は、真っ赤な肌と金切り声、丸太のような腕をしていてまるで金剛力士。化物と呼んだ方がよほど似合う奴だった。そんなお化けが佐山の親分を引っ掴んでぶん投げた。もちろんただ転がって痛がる親分を助ける者は誰もおらず、大男が親分を踏み潰そうとした、そのとき。いつのまにか飛び出した清六が、男に蹴りを入れた。男は少しよろけたけど全然痛がっていない。清六の声が、寺に響いた。
「逃げろ!」
呆けて動かない佐山一家に構わず、私は逃げた。一人で山の中には入れないから、寺の後ろに。少しでも隠れる場所が欲しかった。清六と男は戦ったようだけど、すぐに声が聞こえなくなった。それと同じ頃に、寺の裏側で、見つけた。たくさんの骸。その中に混じっているのは、女だ。この辺りの者じゃない。だって、黄色い髪と白い肌なんて私は見たことない!何してる、と私に怒ったのは清六だった。山に入らなかったのかなんて言われても普通一人で夜の山には入らない。真ん中の死んだ女と、周りに倒れる男たちは、轟徒衆のうちの何人かなのだという。男はせいぜい小悪党、女は兎にも角にも厄介。なにせ一見器量良し、絵にも描けない美しさ。織田をたぶらかすには、もってこいだっただろうという。国が焼かれて死に物狂いで取り返し、身内同士で大喧嘩。そして今に至るという。なんて馬鹿な話、そんなことは猿でもしない!木の上の猿がなぜ賢いかなんて、私は全然わかっていない。でもそうとしか思えない。だけど、だったら、なんでこいつら死んでるの!とにかく信じられないから全部疑ってるのに、清六のやつときたら答えてしまう。少し考えれば誰でもわかること。こんな乱暴者たちが、殺し合わないわけがない。一番強い者が残り、往々にしてそれは大うつけ。あの木偶の坊に、皆殺しにされたのだという。馬鹿!馬鹿馬鹿馬鹿!いくら言っても清六は、その通りですと言うばかりで突っぱねてくれない。こんな馬鹿な連中は、助けてやらねばなりません。清六がそう言ったのと同時に、金切り声が聞こえた。あいつが来る。震える私に、清六が聞いた。気が付きましたか?一本動いていなかった。そう言われて、ようやくわかった。あいつの動きはぎこちない。足が動いていないのだ。片足だけで動いているから速くはないし大雑把。でも、仮にそれがつけ目だとして、清六は勝てるのだろうか。やってみなくちゃわからない、と清六は男を待った。赤い男が現れて、虚な目で清六を睨んだ。男が飛びかかると、清六は跳ね飛ばされて転がった。思った以上に強いらしい。清六は、何かを狙ったように見えたけど、また跳ね飛ばされて突っ伏した。もうやめて!私は思わず叫んでいた。強いのもわかった、馬鹿なのもわかった!もういいじゃない!赤い男は私を見て、迫ってきた。何をするつもりかはわからなかった。轟徒衆が死んだ後、この寺には女がいないと頭に過ぎるその前に、清六が立ち上がった。後ろから腰骨を突き、男が振り返るところをこめかみに一撃。振り上げられた手をかわし相手の指を取った清六は、大きく身を翻した。
いったい何が起きたのだろう。身を翻して腰を割り、でやあと叫んだ清六は、相手の何かをへし折った。見えていたのにわからなかった。瞬く間もない、電光石火。ぎゃああと悲鳴が聞こえた最中、清六の貫手が男に飛んだ。男の喉をぐさりと刺して、血がどくどくと流れ出る。男は一歩、二歩と歩いて、ばたりと倒れて動かなかった。
呆けた佐山一家たちは、もう話が通じなかった。何をされたかわからないけど、もう生気がない。事切れた赤い男を見て、よくあんなのに勝てたわね、と清六に言うと、私のお陰だという。自分だけでは、届かなかった。勝てる相手ではなかったという。まるで勝ち筋があったみたいな言い方だから、なんで勝てたか聞いてみた。清六はきょとんとしていて、なぜわからないか、わからないようだった。
「指が動いていなかったでしょう」
一見平気なように見えるが右手の小指が動いていない。勝ち目があるのは、その一点。確か途中で言ったでしょう?と言われて「そ、そ、そうだったわね!」と思い出した。忘れてるだけで思い出したのよ、きっと。なんで動かない足より動かない指を気にしたかなんて、私は考えもしない。清六は真っ赤に染まった手を、拭きもせずに眺めていた。
清六は、きっとこんなことはしなくていいはずなのだと、柄にもなく悲しそう。殺したいなど、苦しめたいなど、本当は誰も思わない。馬鹿をやって阿呆をして、それだけのはずなのだという。佐山一家は、誰も正気ではなかった。時間をかければ、何人かは治るかもしれない。……だがここからは、清六に何ができるというものではないらしい。寺にあった火薬も鉄器も何かわからない草も、全部捨てた。臭水だけは、始末が悪いという。捨てようが燃やそうが、何かが起きる。触らないようにしようと、清六は山を降りていった。私はその後についていって、だんだん陽が登るのを背中に感じていた。
町を出る平賀さんは、まだ落ち込んでいた。私も清六も一睡もしていなくて、本当は寝ていたかったけど見送りには出た。清六は素知らぬ顔で、平賀さんに伝えた。この世にはすごいことや便利なものがあって、たまに恐ろしいものが混じる。とても安心できないが、信用できるものも、きっとあるはずだ。平賀さんは少しだけ安心したようで、礼を言って町を出た。すごいことも便利なものも信用できないなら、何ならできるのよ。そう言って、ふとわからなくなった。
「もう一つなかったっけ?」
どうでしたかね、と清六はとぼけて、もう答えなかった。




