手のひらに目が開く
第五章:手のひらに目が開く
表のうどん屋の大将が近々沼津を出るらしい。店をたたむとか具合が悪いとかそういうことではなく、店を出して繁盛したら他の店も出したくなったとか。江戸に行って繁盛するかやってみたいから、上方から来た弟弟子に沼津を任せて江戸に向かうはずだったらしい。でも大将はこだわりが強いから、出汁の取り方を叩き込むと張り切っている。だからあと一ヶ月くらい沼津にいるだろう、と新しい常連は清六に語った。うどんの本場讃岐国からやってきた白石さんはたいそう変わり者の多い一族で、自分は平賀の末裔だと言って譲らない。そんなどこぞのお偉いさんは興味がなく、白石さんの一族の話も無理に聞いていた。なんでも考えないと気がすまないタチの者が多く、夜空を見れば何が光っているのだろうと話に華が咲くのだとか。何言ってんだろう、星に決まってるのに。
それもわからない平賀の末裔さんは、ウチの店に出入りするようになった。歩く姿を一目見て、気になって仕方がないと言われれば悪い気はしなかったけど、店に来た後ずっと清六と楽しそうに話している。やれ膝だ足首だとそんな話ばかり、膝や足首なんて誰にでもあるでしょう。女将さんもこちらの旦那と一緒に何かされたのですか?と聞かれて、そいつとねんごろになったことはない!と怒ったら、「わかってる」と権兵衛を見て言っていた。その後芋煮に山ほど七味を忍ばせて出してやったら、なかなかおもしろいものだと全部平らげた。してやったり。
平賀さんは権兵衛の持ってい千代紙にもえらく興味を持って、ぱん、と音を鳴らして素晴らしいと感心していた。千代紙で何かを作らせたら清六よりも権兵衛の方が上手く、こればっかりは敵わないと清六がお手上げだった。そんなよくできた紙細工片手に平賀さんときたら、土間のわらじを見て一足欲しいなどと言い出す始末。父さんのわらじよ、死んでもやらん!代わりに清六のわらじが売れた。わらじなんて自分で作ればいいのに、これで商売をしているのだからどうかしている。
清六を水汲みに送り出して権兵衛が他の客と飯を食う間、平賀さんの相手をする羽目になった。白石さん、と言い直すともう平賀でいいと言うので、こっちも遠慮しない。平賀さんは清六と権兵衛が誰なのか気にしていたけど、私も成り行きだから知らない。名乗りたくないのなら聞き出すのも良くない、と平賀さんは聞かないことにしたらしい。……名乗らないのは確かだけど、名乗りたくないかどうかは知らない。聞いてないから名乗らないだけじゃないの?聞けるときに聞かなかったから聞きにくいし。でも平賀さんは、名乗りたくないようだと決めつけていた。何度も試したから間違いないという。何かしてたっけ?と思ったけど、ここでしていたらしい。
何回か、話の節を作った。ここで分かれるなら名乗るものだというのに、名乗らずに話す。二度目となれば余計に名乗ることになろうに、名乗らない。三度目はもういらなかったが一応試し、名乗りたくないのだと考えることにした。三回試せば半分の半分の半分、これ以上は野暮というものだと後は茶を濁した。悪巧みをするものではないのなら、何か抱えているのだろう。だからもう言わない、という平賀さんに「悪巧みしてたらどーする!」と怒鳴った。コブを作った平賀さんは、私ももう聞きづらいと涙目で語った。まったく、何かあったらたまったものではない。最近おかしな奴が出るという話もある。清六がつるんでいたら洒落にならないと怒っていると、何かありますかと平賀さんに聞かれた。この辺りでは最近、怪談話が出回っている。この町に、怪物が出る。そいつは手のひらをこちらに向けて、睨む。顔ではなく手で睨むという。手のひらに開いた目玉が、ギラリと睨んでみんな腰を抜かすという。もちろんそんな化物がいるはずないけど、佐山一家みたいに出鱈目言いふらす奴はどこにでもいるから何か隠しているのかもしれない。平賀さんは目をぱちくりして聞いていた。そしたら、後ろを清六が通って。
「何もしてねえよ」
待ち人が遅れてるだけだ、と水桶片手に清六は言っていた。清六さん、手に目玉はありますか?と平賀さんが聞くと、尻にならあったかもしれないと下品なことを言う。見せてもらいましょうか!と凄むと清六も流石に困っていて、権兵衛がこちらを気にしていた。
平賀さんはその後も店に出入りして、聞こうとはしないけど清六の素性を気にしている。困っているなら察してやらねばというのは方便、実のところ知りたいだけだと隠す様子もない。平賀さんと清六はときどき出方を伺いつつ楽しそうに話す。こっちは息が詰まる思いだけど、もう慣れた方がいい。そんなとき、権兵衛が千代紙で凝ったものを作ってきた。細工で作った花飾りは、大した折り方だと平賀さんが感心していて、権兵衛は得意そうだった。でもしゃべれない権兵衛はそれ以上のことができず清六が不思議そうだった。教えたことのないような折り方をしていて、誰かに教わったのだろうとは思うがこんなことできる御仁がいただろうか。清六と平賀さんはわからなくても私は昔からこの町にいるから知っている。トメさんの得意なやつだ。
町外れにいるトメさんはもう七十になろうかという長生き婆さんだ。気難しくて誰も近寄れず、遠巻きに見るだけ。だからトメさんは、いつも手元で千代紙を使って同じ細工を折っていた。一度欲しがったら怒られて泣いてしまった覚えがある。その人に教えてもらったのか、なんて納得したのは清六だけで、私にはわからない。トメさんはこれを他の人に教えるだろうか。父さんが一度言っていた。あれはトメさんの大事なものだ。紙や細工じゃない、あれを折るのが大事なんだ。一度だけ細工を手に取ったことがある父さんは、トメさんが困っていたら助けてあげるようにと言っていた。もしかしたら、誰も助けないかもしれないと思ったのだろうか。誰も助けないかもしれないと思って、助けてあげたいと思ったのだろうか。言葉が途切れて、平賀さんが割って入った。私に任せてくれ、と言われて言いようのない不安が襲った。
翌日、平賀さんは権兵衛と一緒にトメさんの元に向かった。もちろん怒られて帰ってきた。くだらないことするな、余計なことを言う奴は信用ならんと一人だけにべもなく突き返されて、なるほどと頷く平賀さん。頭にできたコブはあまり気にしていないのだろうか、きっと殴られ慣れてるんだな。
余計なことを言う奴は信用ならんというなら権兵衛は喋れないから別勘定。何かに気がついたとて伝えることができない。秘密があるのだ。それでも気づかれるきっかけになるから危ういはずだが、権兵衛はいてもいい。誰も来てほしくないわけではない。もしかすると……苦しんでいるのかもしれない。そこまではわかるが何に困っているのかと聞かれれば町のことを知らず、あなたの方が詳しいでしょうなんて丸投げしてきた。トメさんのことを教えろっていうの?と怒ると、教えなくていいから考えてほしいという。先代が言ってたんでしょう、困っていたら助けるようにと。そんなことを言われては言い返せず、私はトメさんに話を聞きに行った。
「村井のとこの子かい、いい歳になったもんだね」
その歳で男がいないんじゃこれから苦しいね、とトメさんは遠慮もしない。こっちから訪ねてきたものだから大人しく聞いているけど、向こうがあと三十ほど若かったら大喧嘩になっている。人生の酸いも甘いも噛み分けた先達の言うことなら当たっているかもしれないという不安もあって言い返せない。でもトメさんは、あやとりの糸を持つ権兵衛を待たせたまま嫌そうに語った。
「甘いことなんかあるもんか。嫌なもんだね、生きてるなんて」
生きていればいいことも悪いこともあるなんて、いい加減なことを言う奴がいるものだ。いいことも悪いことも吸い寄せられたり突き放されたり、同じ奴に固まっていく。私を見て良かったねなんていう奴は、私が明日死んだって同じことを言うさ。トメさんは権兵衛の指にかかった紐を掴んで取っ払うと、今日は帰っとくれと引っ込んだ。さっきの男はもう寄越すなと言われたのでばっちりバレている。まあ平賀さんなので大して不思議でもない。
店に戻ると、何があったんですかと平賀さんに聞かれた。あんたが行かせたんでしょ!と怒るとそうではないという。さっきこの近所の生きのいい阿呆が三人ほど詰めかけて清六に蹴り出された。生きこそいいが目が本気で、どうやら正気ではなさそうだ。厄介かもしれない、と言うので平賀さんはあの轟徒衆という連中を知っているのかと思えば清六から聞いた以上のことは知らないらしい。でも一目見て妙だと思った。人というのはよくできたもので、異様なものは異様だと感じる。まともな頭であれば危ないものは勝手に避けて必要なものを探す。だが、まともでなくなれば……そうはいかないかもしれない。わからないだけならいいが、逆になったらあな恐ろしや。平賀さんの言うことだから真に受けなかったけど、「必要なものを避けて」「危ないものを探す」なんて話をわかっているはずがなかった。
日が暮れて平賀さんが宿に帰り、店じまい。権兵衛が清六に何か訴えていたけど、何かわからない。清六だって権兵衛の言いたいことがなんでもわかるわけではなく、焦っているとかそういうのしかわからない。待ち人がいるのだからあまり時間も割けない、と清六が渋っていたので新しい雑用を押し付けた。トメさんちに行って炊事洗濯、全部やってこないと追い出すわよ!清六は驚いていたけど、頭を一度下げて権兵衛と出かけた。逢引きとはいいねえとはやす近所のおっちゃんをいなして、暖簾を片付ける。そのまま待っていても、良かったんだけど……私は気になって、トメさんの家にもう一度足を運んだ。トメさんの家から炎が上がったのは、私の目の前のことだった。
野次馬が集まって、その中で権兵衛がおたおたしている。何があったか聞いてもわかるはずがなく、私も一緒になって困るだけ。野次馬の中に佐山の親分がいて、祭囃子に持ってこいだとふざけたことを言う。怒ろうとして、すぐに言葉をなくした。親分が平気な顔をしている。佐山一家が、火をつけたんだ。いくら筋者だからってここまで極悪とは思っていなかった。お年寄りを、焼き殺すなんて!でも佐山の親分はどうとも思っていなかった。トメ婆さんがどんな女か知らないからそう思うのだという。
トメ婆さんは京から来た。昔は遊女でたいそう人気で、お偉方に取り入り金をかき集めた。都がきらびやかな打首台だった頃の、名残のように。山ほどの金子とともに東海道を逃げ、沼津へ。男とは死に別れ、味方は誰もいない。一人怯えて老いさらばえる哀れな悪女。金子をくすねる相手を間違えたな、と知った風な口利きだった。そんな昔の金の話で、焼き殺した?でも佐山の親分は、金は掃いて捨てるほどあると言っていた。金はいくらでもあるが、金を集める手段は一つ。それを知っているのなら、殺されるのが自然。たいそう美人で人気だったトメさんは、不思議なほど誰も顔を覚えていないという。目も、鼻も、声も。真っ白い白粉に真っ黒に塗った歯、遊女なら誰でもする姿しか、誰も覚えていない。金を際限なく集める方法を、トメさんは知っていたのだという。
「顔を持たないことだ」
顔がないなら誰にも捕まらず、誰も追いかけない。だから顔を消した。美人であることがわかればあとはなんでもよく、金をくすねて遊女たちの中に消えていく。それが佐山の親分の、さらに親分のやり方だという。トメさんの家で柱が倒れて、清六が飛び出してきた。トメさんはたくさん火傷をしていて、息も絶え絶え。片手に、火のついた千代紙を持っていた。こんな今際の際に、他のものを持たなかった。燃える千代紙が、灰になって消えていく。権兵衛が手を取ったけど、まるで力がない。笑う佐山の親分を睨んだ清六は、つかつかと歩いていった。俺たちの後ろに誰がいるか、わからんか?佐山の親分が得意げに言うが早いか、清六の指が親分の鳩尾に刺さった。げふ、と血を吐いて倒れる親分に、清六が吐き捨てた。
「知っててやってんだよ」
佐山一家の若いのが清六の周りに集まって、匕首を取り出した。追い詰められた清六だけど、両手を開いてぎらりと目を光らせた。そしたら佐山の若いのたちは……ぎゃあ、と叫んでどこかに行った。目だ!目だ!と叫んでいるように思えたけど、それどころではない。トメさんの元に駆け寄ると、もう手遅れだとわかった。
トメさんの葬儀があって、数珠を片手に送った。近所の人たちは、なんだかんだみんな線香を上げて、もう少し気にしていればよかったと口々に言っていた。権兵衛は千代紙でトメさんに教えてもらった紙細工を折った。それを清六に渡して、たぶん供えてほしいのだろうと思ったけど、清六は何かに気がついて妙に不思議がっていた。女のものではないという。何言ってんの、目の前で権兵衛が折ったでしょ?と教えてやっても、折り目の運びが女ではないという。だから権兵衛も、さほども上手くない。たぶんトメさんが、男の誰かに教えてもらったのだろう……そう言って清六は、トメさんの墓前に供えてほしいと私に丸投げしてきた。それを受け取って思わず聞いた。あんた、手のひらに目があるの?あるわけないだろう、と当たり前のことを言われた。清六が渡してきた千代紙はうっすらと濡れていて、まるで手のひらが泣いたようだった。




