第45話 愛している
「⋯⋯私の」
声がやっと出た。
「私の記憶を書き換えなかったのはなぜですか。消すのではなく」
レオンは一瞬、言葉を失ったような表情をした。
「さあ、なぜでしょう⋯⋯」
レオンは湖面へ視線を落とした。
「最低な私ですが……それでも、あなたの選択だけはあなたのものとして残したかった。そういう見栄が、まだ私の中にあったのかもしれません」
「⋯⋯」
レオンが、ゆっくり私を見る。
月明かりが瞳を照らし、そこに深い影を落とす。
「でも、結局やり直しても同じでした。私は自分の気持ちを抑えられない。
記憶を消した後も、ユリ・クサナギが残した本の中身を知らずにはいられなかった。だから、あなたに日本語を教えてほしいとお願いしたのです」
レオンは、少し自嘲するように鼻で笑った。
「それに、一人暮らしのあなたを放っておけなかった。縛られず自由にいたい気持ちも分かっていたのに、怪我をしたのを見た瞬間、もう抑えられなくなった。結局――あなたが屋敷に来るしかない状況を、私が作ってしまった」
「⋯⋯ もしかして、大家さんに立ち退きを迫られた件のことですか?」
「はい。私が、あの一帯の土地を買いました」
「えぇ?!」
(いくら第五区の土地とはいえ、王都の土地だ。相当な額のはず⋯⋯感覚が追いつかない)
「私はあなたを失う未来だけは選べなかったのです」
沈黙が落ちる。
(⋯⋯何を言えばいいんだろう)
レオンの話は、辻褄が合っている。実際、私は彼を恐れていて、逃げたかったのだろう。
私は喉の奥を押さえつけられたような感覚のまま、月の映る水面を見つめた。
「その⋯⋯」
言葉を探そうとして、見つからない。
ふと胸元のルビーが目に入った。
(これ⋯⋯私のために買ってくれたもの。何が欲しいか分からないからって、レオンさんは雑誌に載ってるもの、全部買ったんだ⋯⋯)
正直、異常だと思う。
だけど、今の彼は、昔とは違う。
夢で見た以前のレオンは、もっと露骨だった。私の行動をすべて監視して、逃げ道を塞いで、支配下に置くことを躊躇しない。
でも今の彼は、私の選択を露骨に奪ったりしない。大学にも通わせてくれるし、アルバイトも続けられている。食事だって私の好みに合わせてくれる。私の好きなものも全部覚えている。
深夜に私が抜け出したことも知っていながら、彼は気づかないふりをして、私の好きにさせた。
それが自分から、もう逃げられないと確信していたからなのかは分からないけど──
『兄上は変わった』
アレクの声が、頭の中を横切る。
もし本当に昔の自分を悔いて――同じことを繰り返さないように、必死でやり方を変えているのだとしたら?
私は聖女でもない。何か特殊な魔法が使えるわけでもない。彼から何かを奪われている実感もないし、実際私は何も持っていない。
それでも彼が欲する理由があるとしたら、
私のことが好き──
「⋯⋯レオンさん」
やっと出た声は、震えていた。
「今、この話をしたのはなぜですか?」
「あなたが決める前に、逃げる道も、残る道も――どちらも選べるようにしておきたかった」
私は彼の目をまっすぐ見た。
「そうですか⋯⋯。でも、私はまだ⋯⋯帰るか帰らないかの決断はできないです」
レオンの瞳が、わずかに揺れる。
「でも、ひとつだけ言えることがあります」
胸の奥に、セシルのあの言葉が残っていた。
──自分の気持ちにだけは、嘘をつかないで。
私は自分でも驚くほど静かに言えた。
「──私はあなたが好きです」
言いながら、自分の心臓の音が耳の奥で鳴り響く。でも、目を逸らしたくない。
「勘違いしないでください。あなたのしてきたことを全部許したわけじゃないし、簡単に信じられるわけでもない。だけど、あなたは優しいふりだけじゃなくて、私のために動いた。友達を助けてくれた。私が傷つくのを本気で嫌がった。そこに、嘘じゃない気持ちがあるって思ったんです」
レオンは驚いたように目を見開き、まっすぐ私を見据えた。
「ミナ」
月明かりの中で、レオンの表情がほんの少し崩れた。
「あなたを愛しています」
安心なのか、痛みなのか、分からない。
それでも、その目が、ほんの僅かに潤んだように見えた。
小舟は、湖の真ん中で揺れている。
(もし、彼が嘘をついていたとしてもそれでいい。私がした決断なんだから)
月明かりの下、私たちはキスをした。




