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第44話 手を離せなかった理由

夕食のあと、レオンが提案してきた。


「少し、散歩しませんか」


外はもう暗くなっている。けれど、湖面には月の光が落ちていて、ぼんやりと明るい。


敷地内には、こぢんまりとした桟橋があった。そこに、小さな舟が一艘、係留されている。


(ちょっと乗ってみたいかも⋯⋯)


「乗りたいですか?」


レオンは、私が舟を見つめているのに気づいたのか、少し驚いたような顔をした。


「はい。夜景も綺麗ですから。でも⋯⋯ちょっとだけ水が怖くて」


言った瞬間、昔の記憶がよぎった。子どもの頃にプールで溺れかけたことがあって、水の話題が出ると、なんとなく落ち着かなくなる。


「水が怖い⋯⋯そうだったんですね」


レオンの表情が、思いのほか深刻になる。


「あ、いえ、ただバランスを崩してひっくり返ったりしないかが心配なだけで、そんな――」


「万が一落ちても、その瞬間に湖面を凍らせます。心配はいりません」


(たしかにレオンさんなら本当にできそうだけど⋯⋯なんなら、この湖全体を凍らせられそうだし⋯⋯)


私が苦笑すると、レオンは真面目なまま小さく頷いた。


その言葉が、妙に優しくて、胸がきゅっとなる。





舟に乗り込むと、想像していたより揺れずに水面を滑り出した。


櫂が水を押す音が、暗い世界に小さく響く。


「⋯⋯なんか、夢の中にいるみたいですね」


思わず呟く。


別邸から少し離れた場所で、舟が静かに止まる。周囲には、ただ水音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。


「それに、ここに来たことないはずなのに、来たことがある気がするんです。何を言ってるんだって思われそうですけど──」


レオンはしばらく黙っていた。


「合っていますよ」


「え⋯⋯?」


月から視線を外し、こちらを見る。


「あなたはここに来たことがあります」


「そう、なんですか⋯⋯?」


「静養のために、あなたはここでしばらく過ごしていました」


「静養⋯⋯?」


「少し、昔話をしましょうか」


レオンは何か深く考え込むような表情を浮かべ、やがて決意したような目をして話し出した。


「一年前、あなたはユリ・クサナギが残した本を見つけ、私がそれを奪った後、あなたは壊れてしまいました。眠れず、食事も喉を通らず、笑うこともなくなっていた」


「あの⋯⋯急にどうしたんですか⋯⋯?」


「王都は人が多く、魔力の流れも乱れやすい。それに、王宮はあなたにとって安心できる場所じゃなかったのでしょう。あなたにはそれが負担だと思い、この場所で静養するよう、手配しました」


「⋯⋯」


レオンの視線が、桟橋の先をなぞる。


「こちらに来て三日目の夜でした。あなたは、こっそり部屋を抜け出した。私は急いで追いかけました。嫌な予感がしたので」


私は息を呑み、黙って続きを待った。


「あなたはここで、湖をじっと見つめていた。さっきと同じように、月を映した水面を──そして、帰りたいと泣いていました」


息が止まった。


「私が声をかけたとき、あなたは――」


レオンが言い淀む。


「──湖へ、身を投げようとしていた」


レオンから、強い感情を押し殺している気配がした。


「私は――あの瞬間、あなたを失う怖さを、初めて現実として感じた」


月光がレオンの横顔を照らす。


「私はあなたの腕を掴んで引き寄せましたが、二人とも湖に落ちました」


「⋯⋯」


「あなたはずぶ濡れで震えていて、私の服を掴んだまま、子どものように泣いていた。──そして『あなたが怖い』と言った。

私はようやく自分がしたことの重大さに気づきました」


レオンは、ゆっくり息を吐いた。


「私は、あなたを解放するべきだとも思った。あなたの望む場所へ帰してあげるべきだと。でも、できなかった。私はあなたを失いたくなかった。あなたの望みより、私の恐怖の方が勝ってしまった」


「⋯⋯」


「最低だと思いますか」


問いかける声が、いつもより低い。


私は、咄嗟に首を横に振れなかった。


「それで、私はもう一度全てをやり直したくて、あなたの記憶を消しました」


私は息を吸ったのに、肺がうまく膨らまず、声が出なかった。

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