第42話 その手の温度
「ミナ様、お荷物はこちらにお入れしておきますね」
私は昨晩から旅行の準備を進め、最後の荷造りをしていた。
エラが用意してくれたトランクは、正直、半分以上は必要ないもので埋まっている気がする。
替えのドレス、上着、靴。私の好きなクッキーの缶まで入っていた。
(これは一泊二日の旅行の荷物じゃない)
「ありがとうございます。でも、そんなにたくさん持っていかなくても大丈夫ですよ。向こうにも必要なものは揃っていると思いますし」
「何をおっしゃいますか、ミナ様!」
エラはぴしゃりと顎を上げた。
「久しぶりの、ご当主様とのお出かけですよ?いつものように動きやすければ何でもいい、などと仰っていては、もったいないではありませんか!」
「もったいない⋯⋯?」
「向こうで急に、湖畔でのお散歩にお誘いされるかもしれません。もしくは別邸の食堂で、急きょ正式な夕食会、などということも。そういう時に部屋着しかないでは、私のプライドが許しません」
(すごい。私より気合が入ってる)
「本当はミナ様付きのメイドとしてご同行したかったのですが、今回はご当主様より『お二人だけの時間を大切にしたい』とのお達しがありました。とはいえ、私がそばにいなくとも、どのような場でも即座に相応しい装いで臨めるよう整えておくのは、務めとして当然のことです」
「な、なるほど⋯⋯」
「ですから、どうか安心してお任せください。ミナ様が三秒で淑女になれる準備は万全です」
そこまで言われると、もはや何も言えない。
「それは頼もしいですね⋯⋯ありがとうございます」
観念して、荷造りの仕上げを任せた。
ふと、鏡台の上の小箱に目が止まる。
「そうだ、先週もらったこのネックレス、忘れないように着けないと」
深紅のルビー。光を受けると、内側に熱を含んだみたいに艶やかに輝く。
鎖を首に回し、留め具を止める。
胸元に落ちる冷たい感触が、すぐに体温で馴染んでいく。
(不思議⋯⋯これを身につけると、なぜか気分が上がる)
ほんの小さな飾りなのに、つい口元が緩んだ。
玄関ホールへ降りると、外には馬車が一台待っていた。
御者台に控える御者はいるけれど、周囲を見回しても護衛の姿はない。
「お待たせしました」
声をかけると、レオンがこちらを振り向いた。
いつもの黒い上着ではなく、旅装束に近い軽いコート。けれど仕立ての良さは一目で分かる。
(相変わらず綺麗な顔をされてらっしゃる⋯⋯)
「ミナ、そのネックレス――」
レオンは言いかけて、すぐに微笑んだ。
「とても似合っています。あなたの白い肌に、よく映える」
「ありがとうございます⋯⋯」
迷いなく真っ直ぐ褒められて、返事の声が思ったより小さくなる。視線の置き場に困って、ついネックレスに指先で触れてしまった。
私は照れくさくなって、話を変えた。
「そういえば、今日は護衛の方々はいないんですか?」
「今日は、私とミナの二人だけです」
(たしかに二人旅とは聞いていたけど、何人かはついてくるものだと思っていた)
「ですが、お立場を考えると危険ではありませんか?いつも、護衛や騎士団の方がそばにおられますし」
「あれは周りが勝手についてきているだけですよ。自分の身は自分で守れます。もちろん、ミナのことも。ご不安なら、今からでも護衛の者を呼びましょうか?」
(よく考えれば、レオンさんはこの国の総団長だ。心配はいらないか。それに私としても他に誰かいると気を使うから、いない方がいい)
「いえ、レオンさんがいるなら大丈夫です。ただ気になっただけなので」
「ありがたいお言葉ですね。命に代えてでも、あなたをお守りします」
そう言って、レオンが手を差し出す。
「ただの旅行なのに大袈裟ですよ。でも、ありがとうございます」
その手は、落ち着いていて、温かい。
私は小さく息を吸って、その手に自分の手を重ねた。
ほんの数歩、馬車までの距離を並んで歩くだけなのに、胸の鼓動がやけに忙しい。
(なんか、本当にデートみたいだ)
そう思った瞬間、顔が熱くなって、慌てて視線をそらした。
馬車が動き出す。
窓の外には、見慣れた王都の街並みが流れていく。
「アステリア湖までは三時間ほどで到着します。揺れがつらければ、おっしゃってください」
「ありがとうございます」
屋敷の外に出ると、視界が一気に開けた。
一面の畑、遠くに見える森、ぽつぽつと点在する家々。
(久しぶりに王都の外に出たなあ。なんだか遠足前の子どもみたいに、胸が落ち着かない)
期待と不安が混ざった軽い浮遊感。それが心地よくて、窓に額を寄せた。
だが、レオンの表情はなぜか硬く、旅の始まりには似つかわしくなかった。




