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第32話 事件の予感

屋敷の部屋に戻って、扉を閉めた瞬間、張り詰めていた息がふっと抜けた。


(一年か。勢いで条件を飲んじゃったけど、本当に良かったのかな)


(でも、一年って長く感じるけど、もうここに来てからもうすでに二年経ってるんだ。そう考えるとあと一年増えたとしてもそんなに変わんないし⋯⋯)


(いや、そもそも地球での一年もこっちの一年も同じ時の流れなのかな⋯⋯なんかもう訳分かんないや)


ベッドの端に腰を下ろし、膝の上で手を握る。指先が冷たい。


でも、少なくとも今は、レオンさんが私に何かしてくる様子はない。


そもそも、私に何かできるはずもないし、あの場で条件を飲む以外の選択肢はなかったんだ。


自分に言い聞かせるみたいに、心の中で繰り返す。


術式が自分では使えないと分かったのも無駄じゃない。現実が見えた分、次の動き方を選べる。


それに、考えたところで、今すぐどうにかなる話じゃない。


頭を抱えて沈むより、動いて、探して、拾えるものを拾っていくしかない。


(割と快適な生活はできてるし、死んだら死んだ時だ。今の段階での最善を選んでいくしかない)


思ったより、私はしぶといんだ。








翌朝。


カーテン越しの光で目を覚ます。

屋敷の朝は相変わらず静かで、むしろ昨日の出来事が夢だったようにも思える。


簡単に朝食を済ませて登校し、私はいつも通り席に着いて教室を見渡した。


(——あれ、セシル遅刻かな?)


すぐ後ろの席から声がした。


「ミナ」


ディランだった。制服の着こなしが妙に整っていて、いつもより朝の顔がきりっとしている。こういう瞬間に、この人は貴族なんだと思い出さされる。


「セシル、来てねえな」


「うん。今ちょうど、どうしたんだろって思ってたところ」


ディランは机の端に指を置き、周囲に聞こえない程度に声を落とした。


「昨日、うちの屋敷に商人ギルドの監査の話が回ってきてな。王都向けの納品ルートを止められた商家があるんだ。それが、セシルの家の名前だった」


「⋯⋯それ、今日セシルが来てないのと、絶対関係あるよね?」


「だよな。だから、今日、本人に聞こうと思ってたんだけどよ──」


ディランは立ち上がり、廊下側を見る。


「このまま授業受けても頭入んねえ。今からセシルの家、行かねえか?」


「私も心配だし行きたい。でも授業どうしよう⋯⋯」


「各科目ごとに欠席三回までは許されてる」


(確かに。こういう時のために休まないで、どうするんだ)


「なら、私は大丈夫だけど、ディランはいいの?この前も休んでたよね」


「ああ。今日休んだら次はねえけどな」


「大学が始まって二ヶ月も経ってないのに、何回休んでるの」


「俺にも色々あんだよ。ミナもこの前1週間くらい休んでたじゃねぇか」


「私のはディランと違ってサボりじゃないから」


(あれはレオンさんに軟禁されていたから、めんどくさくて休んでたわけじゃない)


小さく息を吐いて頷く。


「とにかく、今から行ってみよう」








商人街へ向かう道は、朝の光がまだ柔らかかった。

学生が行き交い、露店が支度をして、街は普通に動いている。


(なんか胸の奥が落ち着かない)


セシルの家の店は大通りに面している——はずなのに。

扉は開いていたが、人の気配が薄かった。


「⋯⋯静かすぎるな」


ディランが、ぽつりと言った。


扉を押して入ると、鈴が乾いた音を立てた。

棚は整っている。商品も並んでいる。床も磨かれている。なのに客がいない。


「いらっしゃいませ⋯⋯すみませんがうちは今日から──」


セシルのお母さんが出てきた。笑っているのに、目の奥が疲れきっている。


「あれ?ディラン様⋯⋯?あとこちらの方は⋯⋯?」


視線が私に移る。


「おはようございます。私、セシルさんと同じクラスのミナと申します」


ディランは軽く頭を下げた。


「朝からすみません。セシルが学校に来てなくて、心配で」


丁寧で、距離の取り方がうまい。社交の場に慣れた人の声だった。


(いつもの口の悪いディランはどこ行ったの)


お母さんは一瞬だけ目を伏せてから、奥を示した。


「ご心配をおかけしてすみません。娘は奥におります。どうぞ」


帳場の横を通ったとき、私は見てしまった。


赤い封蝋のついた書類。ギルドの紋章。そして封印紙。


小声でディランに聞く。


「ねえ、あの手紙なに?明らかにヤバそうだけど」


「ああ。当たりだ。営業停止の通達だ」


「⋯⋯営業停止?」


ディランは視線をやって、顔を硬くした。




奥の居間には台帳と書類が積まれていた。セシルはその隣で膝を抱えている。


「⋯⋯ミナちゃん、ディラン」


呼んだ声が掠れている。


「なんで来たの。見られたくなかったのに」


「学校来てない方が悪いだろ」


「ちょっと、ディラン。言い方」


私は椅子に座る前に言った。


「セシル、何があったの?」


「⋯⋯」


「いいから言えよ」


セシルは一度息を吸ってから、静かに話し始めた。


「実は、うちは商人で、保存食と薬草と、魔導素材の物流を担当してるの。規格も検査も通して、信用もあった。でも先日、納品先で商品が腐敗してたって言われたの」


ディランが眉をひそめる。


「腐敗?」


「それだけじゃない」


セシルは唇を噛んで続けた。


「検査印が偽造だって、ギルドが言い出して⋯⋯営業停止になったの。お父さんが、自分の店を潰すようなことをするわけないのに」


「で、でも、営業停止期間が過ぎたらまた再開できるんだよね?」


「検査印が偽造と言われた時点で信用は落ちて、取引先は離れるの。こっちが何を言っても言い訳にしかならない。このままだと、お父さんはこの店も畳むことになるかもしれないの」


「そんな、一度のミスで——」


ディランが短く息を吐いた。


「厳しいことを言うようだが、そういう噂が立った時点で商家は詰む」


セシルが拳を握る。


「でも⋯⋯お父さんは、はめられたの!取引権を奪うために」


「はめられた⋯⋯誰に?」


セシルが吐き捨てるように言った。


「ヴァイス商会。うちが止まった瞬間、代替で入る準備ができてたって聞いたの。最初から待ってたみたいに」


その名前を聞いた瞬間、ディランの顔色が変わった。

ほんの少し、怒りがにじむ。


「⋯⋯ヴァイスか」


「知ってるの?」


私が聞くと、ディランは顎に手を当てた。


「うちでも話題に出てた、最近やたら取引を伸ばしてる商会だ。黒い噂しか聞かねえけどな」


「黒い噂⋯⋯」


ディランは言いにくそうに言葉を選び、それでもはっきり言った。


「裏に貴族が噛んでる。それも複数」


「貴族って、ディランも貴族じゃん」


「俺は子爵家の次男だ。権力なんかねえよ。むしろ稼いでる商人の方が強いこともある」


(貴族社会も単純じゃないんだ⋯⋯)


部屋の空気が、さらに冷えた。


セシルが苦々しく頷く。


「⋯⋯貴族の後ろ盾がある商会は、ギルドの動かし方が違うの」


私はセシルを見た。怒りの顔なのに、目が濡れている。


「そんなの許せない。そうだ、はめられたっていう証拠さえあればどうにかなるんじゃ⋯⋯とは言っても何からどう動いたらいいか見当もつかないんだけど⋯⋯」


私が聞くと、ディランは台帳の端を指先で叩いた。


「いや、ミナ。いいこと言った」


「え?」


「まず、考えるぞ。どこで腐敗したことにされた?どこで印が偽造されたことにされた?それからだな」


私は台帳を見る。


「ねぇ、ここ見て⋯⋯」


そして、問題にされた取引が、すべて同じ港の荷扱いを経由していることに気づいた。


「⋯⋯もしかして、ここの港?」


「そうだ」


ディランは短く頷いた。


「港の荷扱いは利権の塊だ。ヴァイスが動いてるなら、絶対そこに手が入ってる」


私は言った。


「じゃあ、まず港へ行くべき?」


「昼間はやめとけ。知らない顔がいくと目立つ。行くなら、夜明け前だ」


「わかった。じゃあ、明日の朝4時くらい?」


「ちょ、ちょっとミナちゃん、ディランも、まさか行くつもりじゃ──」


「そうだな。俺も知り合いに声をかけてみる」


ディランがセシルを見る。


「セシル、お前も行くか?」


セシルは息を吸って、吐いて、決めた顔になる。


「でも、うちの事でみんなを巻き込むのは⋯⋯」


「何言ってるの。友達なんだから当たり前だよ」


目を見て言った。


「ああ。それに、俺はお前の親父さんにも昔お世話になったことがある。その貸しもあるから」


「そんな⋯⋯」


「それで、お前は明日来るのか、来ないのか。どっちなんだ」


「ほんとうにいいの⋯⋯?」


「しつこいな」


「⋯⋯行く。私の家のことだもん。ミナちゃん、ディラン、本当にありがとう」


「私にできることなら、何でもするよ」


私は最後に、そう返した。

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