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第31話 一年という契約

「⋯⋯え?」


(愛してる⋯⋯?)


思考が止まる。


「ミナは、どうして元の世界に帰りたいんですか」


レオンの声は静かだった。けれど逃げ道を塞ぐように、淡々と続く。


「一年前、よく言っていましたね。家族とうまくいっていない。友達もいるようでいない。頑張っても報われない。あなたは、元の世界のことをそんなふうに話していました」


「それは……」


言葉が詰まる。静かな指摘が、背中を壁に押しつけてくる。


「こちらの世界では、あなたは魔力を持ち、大学で学び、友達もできた。そして、私はあなたを必要としている。ミナの願いなら、なんでも叶えて差し上げられる」


レオンは首をわずかに傾けた。


「それでも、帰りたいですか?」


問いかけは優しい。

けれどその優しさの奥にあるのは、明らかな誘惑だった。


正直、彼の言う通りだ。こっちの生活のほうが、はるかに楽しい。充実もしている。けれど――


私は息を吸い、はっきり言った。


「たしかに元の世界にも大変なことはたくさんありました。でも、ここにいるよりはずっとマシです」


言い切った瞬間、自分の声が少し震えた。


「あなたみたいに嘘ばかりの人のそばに無理やり置かれて、飽きられたらどうなるか分からない。そんな場所で、平気な顔して過ごせるわけないじゃないですか」


「そうですね」


レオンは、あっさり肯定した。


「分かりました。では、もし本当に帰りたいのなら」


すっと、片手が差し出される。


「私が助けて差し上げます。真名を取り戻す術式なら、私が組みましょう」


「どういうことですか……」


「ミナ。ひとつ、取引をしませんか」


「取引……?」


「私に一年間の猶予をください」


レオンは淡々と告げる。


「その一年で、あなたの気持ちを変えることができたなら。あなたの真名を、私に教えてください」


「……真名?」


「ええ」


一歩、距離が詰まる。

封印庫の空気が、わずかに冷える。


「私はただ、あなたの本当の名前が知りたいのです」


「……名前?ただ名前が知りたいだけですか?……そんなのが理由で……?」


「これ以上ないほど筋の通った理由でしょう」


レオンは微笑みも崩さずに返した。


「愛する者の本当の名前を知りたいと思わない人間が、どこにいるんですか」


「でも、そんな、いきなり……」


胸の奥が痛いほど熱くなる。


「あなたは自分の都合のために、私の記憶を消したんですよ?そんな人間のこと、信用できるわけないじゃないですか」


「もちろん、今すぐ答える必要はありません。ただ――」


レオンは視線を落とし、静かに続けた。


「あなたは、私なしでは元の世界には戻れない。そして私も、ミナの意思なしには、あなたの真名を知ることはできない」


封印庫の空気が、重く沈む。


「この状況で、お互いの望みを少しずつ譲り合った形が、さっき言った『一年』です」


「譲り合った形……」


心の底から彼を信用なんてできない。

利用されるかもしれない。術式を組むと言っておいて、真名を取り戻した瞬間に縛りつけられるかもしれない。


「ミナ。これは変わらない事実です」


たしかに、彼の言う通りだ。 


今の私が元の世界へ戻る手段は――目の前の男の力を借りる以外にない。


(でも他に何か方法が……)


考える。必死に。


それでも、何も浮かばなかった。


真名を使う禁忌魔法を扱える人間は、この世界でも限られている。

この国でそれが可能なのは、おそらく彼だけ。私自身にできるはずがない。


(……でも、よく考えたら)


レオンの提案は、悪くないのかもしれない。


一年という時間はかかる。

それでも一年後、私が「帰りたい」と言えば彼は帰す、と言っている。


(なら、今の私ができる最善は……)


私は唇を噛み、覚悟を決めた。


「……分かりました。その条件、飲みます」


彼の誘いに乗ってやる。

現段階で、元の世界に帰れる可能性が最も高いのは、この方法しかない。


それに、この一年で別の方法が見つかる可能性だってある。


レオンは、私がこう答えるのを最初から知っていたみたいに、余裕の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


「ただ、私も一つ条件があります」


レオンは一瞬、笑顔を崩した。


「何でしょう?」


「契約魔法を結んでください」


レオンの眉が、わずかに動く。


「契約魔法、ですか」


「はい」


私は言葉を選びながら、はっきり告げた。


「一年後、私が帰ると言ったら、あなたは必ず術式を組む。逆に、この一年の間、私はあなたから逃げない。その約束を、魔法で固定してください」


契約魔法とは、互いの誓約を術式として刻む禁忌寄りの魔法だ。

口約束では、いくらでも言い逃れができる。けれど契約魔法なら、嘘をつく以前に、誓約に反する行動そのものができなくなる。


沈黙が落ちた。


やがてレオンは、ため息にも似た息を吐き、微笑んだ。


「いいでしょう。それであなたが『一年』という条件を飲んでくれるなら、お互いに都合がいい」


「……本当ですか?」


「ええ。私から逃げないと誓えるなら、私も誓いましょう」


その言葉が、やけに優しい。


「では、契約の内容を確認します」


私は震えそうになる声を押さえ込む。


「一年後、私が帰還を望んだ場合。あなたは真名回復と帰還の術式を組み、妨害をしない。私は、この一年間、あなたの管理下から無断で逃亡しない。それでいいですね」


「はい」


レオンは、差し出した手をわずかに上げた。


「では、契約を」


その指先が、ほんの少しだけ私の親指を指す。


「……血で、ですか」


「ええ。誓約を術式として刻むには、媒体が要ります。いちばん確実なのが、血です」


レオンは懐から小さな銀の針――飾り気のない、儀式道具のようなものを取り出した。躊躇もなく、自分の親指の腹を浅く裂く。


赤が、静かに滲む。


(逃げ道は、もうない)


私は息を飲み、同じように親指を傷つけた。


レオンの親指が、私の親指に触れる。

血と血が交わった瞬間――皮膚の内側に熱い糸が走り、見えない鎖が互いを結んだ。


これで、嘘をつく以前に誓約に反する行動そのものが、選べなくなった。





第3章までお読みいただきありがとうございます。

次話から第4章。二人の関係が動き始めます。

よろしければ、いいね・お気に入りで応援いただけると嬉しいです。

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