第29話 最悪のタイミング
私はひとりで封印庫の奥へ足を踏み入れた。そこは、予想以上に静かだった。
背後で扉が閉まる鈍い音がして、わずかに空気が揺れた。
「とうとう、ここまで来ちゃった」
レオンにはすぐに連絡がいくだろう。だが、今日彼は隣国へ向かったはずだ。急いで帰ってくるとしても、早くて今夜──
(それでも、時間はない。急がないと)
ゆっくりと、本棚の間を進む。
鎖で縛られた書物。魔法陣が刻まれた石板。封印札がびっしり貼られた箱。一目見ただけで、触ってはいけないと本能が告げてくるものばかりだ。
その中で──
「あれ?これだけ⋯⋯」
ひとつだけ、異質なものが目に飛び込んできた。
他の本はすべて、この国の文字で背表紙が埋まっているのに。その一冊だけ、見慣れた縦書きの日本語で題名が記されていた。
『異世界から来たあなたへ』
指先が、ゆっくりと震える。
(日本語だ⋯⋯間違いない。これが、クサナギユリの本)
周囲をちらりと見回す。誰もいない。気配もない。
「こんな分かりやすいところに置かれてるなんて。もっと厳重な何かの中に保管されていると思ってた」
私は息を飲み、その本を棚から引き抜いた。
床にしゃがみ込み、膝の上に本を置く。ページの端をつまみ、ゆっくりと開いた。
最初の数ページは、日記のような文章だった。
──この世界に来てから、十年が経った。日本に帰りたいという思いは、少しも薄れない。だが、それをあの男が許してくれるはずもない。このまま、死ぬまでここでの生活を強いられるのだろうか。
ところどころ、崩れた字、滲んだ跡がある。
ページをめくるたび、文体が変わっていく。
感情の吐露から、徐々に冷静な観察と、魔術師としての考察へ。
──この世界の魔術体系は、「名」を縛ることに異様なほど執着している。
──真名を術式の核に据えることで、対象の位置、時間、寿命、可能性さえ固定できる。
──だから私は、この世界に来る者の真名を隠す術式を組んだ。二度と、私のような目に遭わせないために。
──真名を取り戻す術式には、対象本人の強い意思が必要。他者のみの術式展開による取得は不可能。
(⋯⋯ここまでは、だいたい私の知っている内容と同じだ)
さらにページを繰ると、文字の密度が増し、図形が増え、紙面が魔術式でびっしり埋め尽くされていく。
(ここから、真名を取り返すための具体的な術式の編み方について書いてあるのか)
円と直線。複雑なルーン。幾何学模様の塊。その合間に、日本語の注釈が書き込まれている。
「⋯⋯ちょっと待って」
思わず声が漏れた。
「なにこれ。難しすぎる⋯⋯」
今まで受けてきた魔術理論の授業なんて、ほんの入口に過ぎなかったんだと痛感する。
一つ一つの式は、解説を読み込めば、ぎりぎり理解できなくもない。
でも、それら全部を組み合わせて、ひとつの巨大な術式として完成させるなんて──
「無理だ。私にはできない⋯⋯」
ページの中央には、大きな魔法陣が描かれていた。
──この術式は、外側の世界から来た者の真名を思い出させるためのもの。この魔法陣を正しく展開できれば、失われた真名を取り戻すことができる。
文字の海を見下ろす。
「どうしよう⋯⋯私、詰んだ?」
声に出した瞬間、自分でもおかしくて、笑いがこみ上げた。
「こんなの、中級レベルの私にできるわけない⋯⋯」
それでも、まだ何か他の方法があるのかもという想いを捨てきれず、更にページをめくる。
その先には、真名を取り戻したあとに行うべき術式が記されていただけだった。
──王立大学創立記念広場。そこで、真名を取り戻した者が再び術式を展開すれば、外側の世界へ戻る道が開かれるだろう。
視界がじわっと滲む。
異世界から来て、まだ数年。数ヶ月前から魔法を学び始めた人間が、努力したくらいでどうにかなるレベルじゃない。
ページの端を掴む指先に、ぐっと力が入る。
「どうすれば、いいの⋯⋯」
「──こんなにも早く、ここまで辿り着くとは思いませんでしたよ、ミナ」
背後から突然、声が聞こえた。
「えっ、誰──」
背筋が凍りつく。
ゆっくりと振り返ると、封印庫の入口にレオンが立っていた。




