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第23話 夢と現実

屋敷の裏口から中に戻るときは、行きよりもずっと足が重かった。


かんぬきをそっと元の位置に戻し、音を立てないように扉を閉める。厨房前の通路は、行きと同じように静まりかえっている。


(⋯⋯戻ってこられた)


胸の奥で、何度もそう繰り返しながら、使用人用の階段を上る。


廊下に出て、自室の扉の前で一度深呼吸。耳を澄ませても、人の気配はない。


鍵を開けて中に入り、そっと扉を閉める。そして、その場にずるずると座り込んでしまった。


「⋯⋯はあ」


全身から一気に力が抜ける。ノートを握りしめていた手が汗ばんでいた。


とりあえず窓辺まで行き、外をうかがう。まだ夜の深い時間。レオンの馬車は、どこにも見えない。


(とりあえず間に合った⋯⋯)


安堵の波が一瞬だけ押し寄せて、すぐに別の感情に飲み込まれる。


(なにがなんだか、もうわからない。何を信じたらいいのかも)


さっきまでの会話が、頭の中で何度も巻き戻される。


考えようとするたび、頭の奥で何かがきしむ。


靴を脱ぎ捨て、ノートだけを抱えたままベッドに体を投げ出す。


「ああ、疲れた⋯⋯」


そこで意識は、いつの間にか夢の底へ沈んでいった。





気づけば私は、どこかの廊下に立っていた。


目の前にあるのは、あまりにも豪華な部屋。


(ここ⋯⋯私の部屋?いや、でも間取りも何もかも違う)


天井からは大きなシャンデリアが下がり、光を受けて宝石のようにきらめいている。ふかふかの絨毯。棚には、選びきれないほどの本や宝石箱、可愛らしい小物たち。


(派手で、眩しい)


胸の奥がひゅっとすぼまる。


視界がぐらりと揺れた。


場面が切り替わる。






暗い部屋。扉は鉄格子。その前に、私は立っていた。


中には、衛兵と思しき男が二人いた。

彼らの顔には見覚えがあるのに、名前は思い出せない。


「⋯⋯ごめんなさい。ごめん。本当に、ごめん⋯⋯」


涙でにじむ視界の中、私は何度も頭を下げていた。


背後から、靴音が近づいてくる。


乾いた、規則的な足音。


振り返ると、レオンがいた。


今と変わらない整った顔立ち。穏やかな笑み。けれど、その目は今よりずっと冷たかった。


「ミナ。また逃げようとしたんですね」


「ごめんなさい⋯⋯もうしません。だから──」


喉が震えて、うまく声が出ない。恐怖なのか、罪悪感なのか、自分でも分からなかった。


中にいる男たちの肩が、びくりと震える。


「こ、この度は我々の監督不行き届きで──」


「そうですね」


レオンは笑った。ひどく残酷に。


「ミナがここからいなくなったら、私は生きている意味を失います。そんな大切な人を逃がしてしまったとあれば、責任を取らなければなりませんね」


「待ってください!私が悪いんです。衛兵の人は何も──」


必死で叫ぶ。


喉が裂けそうなほど声を張り上げても、レオンはただ静かに私を見つめているだけだった。そして、この状況には似つかわしくないほど優しい手つきで、私の頭を撫でる。


「ミナは優しいですね」


そう言ってから、扉の外に控えた騎士たちへ視線を向ける。


「この二人を、王宮地下の牢獄へ連れて行け」


「承知しました」


鉄の鎧が鳴る音。男たちは青ざめた顔のまま、連行されていった。


「やめて、もう、もう本当に逃げないから、お願い──!」


声が枯れるまで叫んでも、レオンの表情は一切変わらない。


ただ、少しだけ目を細めて、優しげに言った。


「ミナ、行動には必ず責任が伴います。これからは、しっかり考えて動きましょうね」


その言葉に、世界がぐにゃりと歪んだ。


(⋯⋯あぁ、そうだ。私、あのとき何度も謝った。私のせいで、あの人たちが──)


頭のどこか、普段は鍵のかかった引き出しが、乱暴にこじ開けられる音がした。





景色がまた切り替わる。





今度は、広い謁見の間。


高い天井、赤い絨毯。左右には身分の高そうな人たちが整列し、その中央には、跪かされた一人の女と、その後ろで縛られた家族たちがいた。


女はまだ若く、目を泣き腫らしている。その少し手前に置かれた椅子に、私は座らされていた。隣にはレオンがいて、私を抱き寄せるように腰掛けている。


女は私に向かって、必死に頭を下げた。


「殿下!誤解です!わ、私はミナ様のご出自を悪く言ったことなど一度もなく⋯⋯!」


頭を床につけているのは彼女だけじゃない。父親、母親、弟らしき少年までもが、震えながら額を押しつけている。


(この人⋯⋯たしか私のことを蔑んで、肩を押してきたんだ。それでその時、転んで⋯⋯)


あんなもの、ただの口の悪い貴族の嫌がらせ。傷もすぐ治ったし、慣れていた。


「顔を上げろ」


正面に立つレオンが、静かに告げる。


女は恐る恐る顔を上げる。瞳には、恐怖と後悔が濃く滲んでいた。


「お前はいま、嘘をついた」


その一言に、謁見の間に小さなどよめきが走る。


「未来の王妃を侮辱しただけでなく、この私に嘘をついた」


「いえ、私は嘘など──」


「『なんで、私がこのクソ女のせいで』か。ここまで腐っていると、救いようがないな」


「──っ!」


女の顔から、血の気が引いていく。


そのとき、列の端、少し後ろにいた青年が口を開いた。レオンの弟、アレクだ。


「人の思考を読める兄上に、嘘が通るはずないじゃん」


面倒くさそうに髪をかき上げながら、信じられないほど軽い声で続ける。


「それに、義姉(あね)様が傷つけられた時点で、この人たち、もう詰んでるけどね。兄上が許すわけないでしょ」


笑いすら浮かべていた。その笑みには、罪悪感も躊躇いも、ひとかけらもない。


(この人たちにとって、人の命って⋯⋯こんなに軽いんだ)


胸の奥が、ぎゅっと縮む。


レオンが片手をひらりと上げる。合図ひとつで、衛兵たちが女と家族へとにじり寄る。


「お、お待ちくださいっ!娘は⋯⋯娘だけは⋯⋯!」


父親が叫ぶ。母親は涙で声にならない声をあげる。弟は震えながら姉にすがっていた。


「レオン、やめて⋯⋯!」


夢の中の私は、椅子から立ち上がっていた。思わず叫ぶ。レオンがこちらを振り向く。


「ミナ、あなたの居場所は、ここですよ。私の隣です」


「えっ──」


拒むより先に、支えを失ったみたいに膝から力が抜けて、気づけばまた彼の隣に座らされていた。


「彼らのせいでミナは元の世界に戻りたいと言ったのでしょう?なら、それは取り除けば、あなたはここにいたいと言うはずだ。ミナを悩ませるものすべてを排除し、二人で穏やかに幸せに暮らしましょう」


その声音には、確かに愛情があった。けれど、その優しさは目の前で命を奪われようとしている人たちには、一滴も向けられていない。


「悪いのは、ミナを傷つけた彼らです」


淡々と、ただ事実を述べるような口調で。


直後、謁見の間に、甲高い悲鳴と、何かが床に崩れ落ちる鈍い音が響いた。


「あ、ああっ⋯⋯あああああぁ⋯⋯!」


私はその場に崩れ落ち、絞り出すような声で泣きじゃくっていた。


世界が揺れたような気がして、視界が暗転する。






「──っ!」


息を吸い込んだ音で、自分が目を覚ましたのだと気づいた。


視界に飛び込んでくるのは、見慣れた天井の模様。身体中が汗で濡れていて、寝間着が肌に貼りついている。


心臓が、うるさい。


「夢⋯⋯?いや、あれは──」


かすれた声が喉から漏れる。


夢にしては、あまりにも生々しすぎる。


思い出そうとした瞬間、頭の奥がじわりと痛んだ。

さっきまで見ていた光景が、断片的にフラッシュバックする。


連れて行かれる背中。私のせいだと繰り返し謝る自分。

そして、血の色と、レオンの笑顔。


「──これ⋯⋯私の過去の記憶だ」


なぜだかわからないが確信があった。


窓の外は、かすかに白んでいる。もうすぐ朝が来る。


私はゆっくりと上体を起こし、枕元に置いていたノートへ手を伸ばした。


指先が表紙に触れる。


それだけで、昨夜のすべてが蘇る。


「⋯⋯私、本当に、何を忘れてるの」


問いかけても、ノートはただそこにあるだけだった。

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