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第22話 忘れ去られた記憶

来週、とレオンさんは言った。


けれど、実際に屋敷を抜け出せそうな日が訪れたのは、それから四日目のことだった。


レオンさんは公務で王宮に詰める日程が決まり、夕刻に屋敷を出て、戻りは翌朝になると知らされた。


ノートに突如として現れた『王立大学創立記念広場の中央記念碑に行け』という文字。


確かめるには、今日しかない。そう思った。


その日一日はいつも通りを装いながら、頭の中ではずっと屋敷の見取り図を並べていた。


玄関ホールには、夜も交代で付きっきりの護衛がいる。正面から出るのは初めから論外。


裏口は昼間こそ使用人でごった返すが、深夜になれば人の出入りはほとんどない。だから、裏口しかない。だが問題は、そこに辿り着くまでの廊下と階段だ。


見回りは一時間ごと。交代の前後、十分くらいだけ、廊下にいる人の気配がなくなる時間がある。


ここ数日、ただ部屋に引きこもっていたわけじゃない。


レオンが屋敷を出たのは、夕食前のまだ明るい時間帯だった。


「では、行って参りますね。ゆっくり休んでください」


そう言い残して玄関から馬車に乗り込むのを見送った。


時計を見つめる。夜の見回りが始まるのは、消灯から一時間後。その最初の交代タイミングが狙い目だ。


大学までは歩いて三十分ちょっと。記念広場は、そのすぐ手前。往復一時間はかかる。なら、広場にいられるのはせいぜい一時間。それ以上は危険だ。


(全部で二時間⋯⋯それが限界)


夕食を済ませ、あとは自室で休みますとエラに告げた。


灯りを落とした部屋の中で、ベッドに横になりながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。


ノートは、服の内ポケットに入れてある。何度も指先で存在を確かめてしまう。


廊下から聞こえる足音と、階下からかすかに届く声。

それらがひとつ、またひとつと消えていき、やがて屋敷全体が静けさに包まれていった。


(そろそろだ)


決めていた時刻になったところで、私はそっと身を起こした。


履き慣れた靴を選ぶ。

扉の取っ手をゆっくりと回し、きしませないよう注意しながら隙間を開ける。


廊下には誰もいない。

魔石灯も夜用に弱く絞られていて、足元だけをぼんやり照らしていた。


(大階段は避けなきゃ。使用人用の階段から行こう)


私は壁際を歩き、音が響かないよう一歩ごとに体重を分散させる。自分の呼吸音さえも邪魔に思えるほど、静かな廊下だった。


角をひとつ曲がる。

見回りの兵は、ちょうど交代のため反対側の棟に向かっているはずだ。


(今、私のいる側の廊下は誰もいない。ここまでは計算通り)


使用人用の狭い階段の前まで来る。

扉を少しだけ開き、中の暗闇を覗き込む。誰の気配もしない。


一段、また一段。

ゆっくりと、しかし迷いなく降りていく。

手すりに触れる指先が湿っているのが分かった。


階段を下り切ると、そこは厨房と裏口に続く短い通路だった。


昼間は湯気と人の声で満ちている場所も、今は静まり返っている。

扉の隙間から覗くと、見張り役もいないようだった。


(よし⋯⋯)


私は息を殺して、厨房の前を横切る。

足音をひとつ立てるごとに、心臓が跳ね上がる。


裏口の扉に手をかける。


扉は内側からかんぬきを下ろす仕組みだった。音を立てないよう、ゆっくりと持ち上げて外す。


冷たい夜気が、隙間からすっと滑り込んでくる。


(行くしかない)


私は外へ出て、そっと扉を閉めた。

かんぬきを元に戻すか一瞬迷ったが、戻してしまえば帰ってきた時にまた手間がかかる。

だから施錠はせず、扉がきちんと閉まったことだけ確認して、その場を後にした。


見上げると、月が高い。


屋敷の塀沿いに、影の濃いところを選んで歩いていく。正面門のほうから、話し声が聞こえた。門番がいる証拠だ。


(正面は近寄らないようにして、塀の低い裏庭側から抜けよう)


レオンの屋敷は王都の中でも高台にあり、裏手の塀は表よりわずかに低い。

庭師用の小さな道から、塀すれすれまで近づく。


そこには、枝を大きく張り出した木が一本。


(数日軟禁されてたことにも意味があった。おかげで屋敷の構造が全て把握できてる。ここからなら⋯⋯いける)


私は幹に足をかけ、低い枝までなんとかよじ登る。そこから塀の上へと身を移した。


(思ったより高い⋯⋯でもやらなきゃ)


躊躇は一瞬だけ。私は塀の外側へ飛び降りた。


膝に衝撃が走る。けれど、なんとか転ばずに着地できた。


(出られた⋯⋯!)


振り返れば、そこには高くそびえる公爵家の塀。


安堵と同時に、時間のことが脳裏に浮かぶ。


(ここから大学までは、早足で三十分。記念広場に行って⋯⋯記念碑を確かめる)


ポケットの中のノートを握り込む。夜風が、頬を切るように冷たかった。


ここからが、本当の勝負だ。





屋敷から大学までは、何度も通った慣れた道。いつもなら、ただの平和な通学路。けれど今日は違う。


(早く、急がないと⋯⋯)


心の中で時計の針をなぞりながら、足を速める。


やがて王立大学の重厚な門が見えてきた。その先に広がるのが、創立記念広場。


石畳の中央に、白い大理石の記念碑がすっと立っている。土台には初代国王と王妃。二人の「出会い」を記念して建てられたとされ、学生なら誰もが一度は見上げる場所だ。


(ノートには、創立記念広場の記念碑の前に行けとだけ書いてたけど⋯⋯)


私は息を整え、周囲をぐるりと見渡す。


さすがに深夜だけあって、広場には誰もいない。


見上げれば、童話の挿絵で何度も見た二人の横顔。国王の真っ直ぐな眼差しと、王妃の柔らかな微笑み。


ノートを胸元で抱きしめ、そっと碑の土台に手を置いた。


だが、何も起きない。


(どうしよう。来たら何か起こるのかと思ってたけど⋯⋯)


意味が分からず、記念碑の周りを一周してみる。隠し扉のような継ぎ目も、怪しい細工も見当たらない。


(もしかして私、なにか勘違いしてる⋯⋯?)


焦りがじわじわと額ににじみ始めた、そのときだった。ノートが、ほんのりと熱を帯びた。


「え⋯⋯?」


手のひらに伝わる、微かな温度。表紙が、ぽうっと淡く光を帯びる。


同時に、指先で触れていた碑の表面から、震えるような魔力の波が伝わってきた。


視界の端で、記念碑の表面に、古びた魔法陣の線が浮かび上がる。


(記念碑そのものが、術式の一部になってる?)


ノートのページが、ぱら、ぱら、と勝手にめくれていく。一枚、また一枚。やがて、真っ白だったはずのページが開かれた。


その瞬間、どこからか声が聞こえた。


──こんばんは。ここは世界の継ぎ目。無事に辿り着くことができたようですね。


「え⋯⋯どこから私に話しかけて──」


思わず声に出して問い返す。けれど広場には、相変わらず私ひとりしかいない。


声は、耳からではなく、頭の内側に直接落ちてきている感覚だった。


──私は、クサナギユリ。この声は、世界の継ぎ目、日本から来た異世界人──これらが揃わなければ、届けられないもの。

ミナさん、お会いできて嬉しいです。


初代王妃の顔が脳裏に浮かぶ。


「⋯⋯初代国王の妃、クサナギユリ様?」


──そうです。この国の歴史では、私は異国の妃と書かれています。けれど本当は違う。私は、あなたと同じ場所、日本から来ました。


「やっぱり⋯⋯日本人だったんですね。でも、お妃様は何百年も前にお亡くなりになったはずでは⋯⋯」


──そう。私はもうこの世にはいません。ですが、あなたのためにこの魔法を残しました。今、あなたは私と会話しているように感じているでしょう。でも実際には、あなたの問いに合わせて、私が残した情報が自動的に引き出されているだけ。私はあなたの今の状況も、この世界で何が起きているかも分かりません。それはできないのです。


(条件付きの自動応答魔法、みたいなものか⋯⋯)


「あの、私、本当にわからないことばかりで、なにから聞いたらいいのかも⋯⋯」


──今から、私が持っている情報をすべて話します。


声は淡々としているのに、どこか優しさが滲んでいた。


──まず、私はこの世界に転移してから、必死に日本へ帰る方法を探しました。その中で、二つ大事なことを知りました。


一つは、こちらの世界の魔法が「名前」をとても重く扱うということ。真名は、強い術式の核にされます。真名を縛ることで、その人間のいく先や寿命さえもねじ曲げることができる。


(魔法史の講義で聞いたことがある。でも、真名を使うほどの強い魔法は今では禁忌扱い。現在は使える術者すらいないと)


──そして、もう一つは、日本に帰る方法。


「日本に、帰る方法ですか?」


鼓動が一気に早くなる。


──はい。まず、この世界と私たちがいた日本は、本来なら決して交わらないはずの層にある。けれど、数百年に一度、世界の縫い目にゆらぎが生じることがある。

その歪みは、日本と呼ばれる島国のどこかに現れやすい。


それは地脈の流れのせいなのか、星の巡りなのかは、はっきりとはわかりません。


ただ、残された記録を並べていくと、異世界から迷い込んできた人間の出身地には、いつも同じ地名が添えられている。


──日本。


数百年に一度、日本のどこかでこちらとの境界がわずかに重なる。その継ぎ目に、たまたま立ってしまった誰かが、こちら側へと落ちてくる。


選ばれたわけでも、使命があるわけでもない。そこにいてしまったという、それだけの理由で。


私もあなたも、その数百年に一度のゆらぎに巻き込まれた、ただの一人に過ぎない。


「そ、そんな──」


──私は帰還方法も見つけました。しかし、それは、初代国王の異常な執着心ゆえに阻まれた。私は名を縛られ、二度と故郷に帰ることができなくなった。

ヴァルティエルの血。あれほど強い魔力を持つ彼らなら真名を使った禁忌魔法も、容易く行使できる。


「な、なぜ、そこまでしてユリさんを⋯⋯」


──私の見解では、魔力の強い人間ほど、外側の世界から来た魂に強く惹かれる傾向がある。だから、あなたも奴らには気をつけなければならない。決して、真名を握られてはなりません。


その言葉に焦りが募る。


「名前って⋯⋯そんなの、もう無理です。レオンさんだって、私の名前はもう当然知ってて⋯⋯」


──だから私はひとつの術式を組みました。外側の世界から来た者の真名を、この世界の言葉から切り離し、新しい名前にすり替える魔法です。


心臓が跳ねる。


──あなたが最初にこの世界に現れたとき、あなたは自分を「ミナ」と名乗ったはず。


「はい。名乗ったも何も、私の名前はミナですし⋯⋯それは⋯⋯」


──いいえ。違います。あなた自身も、本当の名前を忘れてしまう。それがこの術式の肝です。本当の名前でなければ、誰にも縛られない。他者も、この世界も、あなたの真名を使って、あなたを拘束することができなくなる。


「そ、そんな⋯⋯つまり、私は自分自身をミナだと思っていたけど、本当の名前が別にあるってことですか?」


──そうです。けれど、それは同時に、あなたの帰り道を曖昧にしてしまうことでもありました。外側の世界に戻るための術式には、本来の名前が必要になるからです。


息が苦しくなる。


──だから私は、真名を取り返す方法を含めた、元の世界へ帰る方法を日本語で書き残しました。この世界の人間には読めない言語なら、暗号として機能すると思ったのです。


「この世界の人間が読むことはできない──」


言いかけて、血の気が引いた。


(違う、それは間違ってる。レオンさんは、日本語を読める。なぜなら私が教えたから。しかも、レオンさんは──)


「ど、どうしたら⋯⋯私、日本語をレオンさん⋯⋯ヴァルティエルの人間に教えてしまって⋯⋯」


──それなら、一刻も早く真名を取り戻し、日本へ帰りなさい。


「一刻も早く⋯⋯そ、その本はどこにあるんでしょうか?」


──この記念碑の内部です。ですが、一年前に持ち出され、現在は王宮地下封印庫にあります。


「持ち出された?誰がそんなことを⋯⋯?」


──あなたにしか不可能です。ミナさん、あなたは一年前にもここに来ています。


「そ、そんな⋯⋯私にそんな記憶は⋯⋯!」


──はやく、その本を回収してください。


「あ、あの、まだ聞きたいことが──!」


──そろそろ時間です。ご武運をお祈りします。


そこで、声は途切れた。


慌てて呼びかけるが、返事はもうない。


「そ、そんな⋯⋯一体どうしたら⋯⋯」


(私の『ミナ』という名前は本当の名前じゃない?一年前にここへ来たことがある? そんな記憶なんて、どこにもないのに……何が、どうなってるの?)


気がつけば、空の色がさっきよりわずかに明るくなっている。


(いけない。もうこんな時間⋯⋯)


ノートを閉じると、記念碑からも魔力の気配がすっと消えていった。さっきまで浮かんでいた魔法陣も、跡形もなく消えている。


ただの大理石の塊。

ここで異世界に戻る方法についての話が交わされていたなんて、誰も思いもしない。


私はノートを胸に抱き、小さく息を吐いた。


(今ここで考えている時間はない。とにかく今は屋敷へ戻らなきゃ)


広場を抜け、通りを走り、夜の空気を肺に流し込みながら、屋敷の裏口へと急いだ。

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