第21話 機を待つ
──王妃は、日本人だった。
そう確信した瞬間、手の中の本がじんわりと汗で湿っていくのを感じた。
胸がどくどくとうるさい。
さっきまでただの昔話にしか見えなかった絵本が、急に現実と地続きのなにかに思えてくる。
「ミナ様、そろそろ夕食が冷めてしまいます」
エラの声に現実へ引き戻された。
「そ、そうですね。一度自室に戻ってから行きます」
「かしこまりました。下でお待ちしております」
一礼して去っていく足音を背中で聞きながら、私は童話集を閉じた。
(もう一度、あのノートを確かめたい)
私は書庫を出て、自室へ急いだ。
部屋に入り、机の上に置きっぱなしになっていたノートを掴む。
(⋯⋯たしか、このあたりのページだったはず)
ぱらりとめくった瞬間、喉がひゅっと詰まった。
「⋯⋯え?」
そこは、真っ白だった。
数日前まで、確かに「ユリ・クサナギを調べろ」と書いてあったページ。インクどころか、紙のへこみすら残っていない。
何も書かれていなかったかのような、綺麗な白。
「ちょっと待って。そんなはず⋯⋯」
慌てて前後のページをめくる。どれも同じ、空白の紙。
(消えた⋯⋯?でも、どうやって⋯⋯)
背中に冷たい汗がにじむ。ノートを持つ手がかすかに震えた、そのとき。
紙の上に、じわりと墨を垂らしたような黒いしみが浮かんだ。
「⋯⋯な、なに?」
目の前で、誰の手も触れていない紙の上に、線が一本、また一本と現れていく。
まるで、見えない誰かが今この瞬間、文字を書いているみたいに。
(自動筆記⋯⋯条件付き発動魔法?)
講義で習った理論が頭をよぎる。
条件付き発動魔法とは、あらかじめ魔法を組み込んでおき、特定の条件が満たされたときだけ発動するようにした術式である。
(条件⋯⋯私が「ユリ・クサナギが日本人」だって気づいたこと?)
浮かび上がった文字列を、息を呑みながら読む。
『王立大学創立記念広場の中央記念碑に行け』
「中央記念碑って⋯⋯たしか⋯⋯」
あの童話の一場面が脳裏に蘇る。
初代国王とユリが初めて出会った場所とされていた。
(記念碑は⋯⋯たしか二人の出会いを記念して建てられたって言われてるんだよね)
ごくりと唾を飲み込む。
そこまで読んだところで、さらに新しい文字が滲み出た。
『ヴァルティエルに絶対に知られてはならない』
「⋯⋯⋯⋯え?」
ひゅ、と肺から空気が抜ける。
(⋯⋯一体誰が、いつ、こんな魔法をノートに仕込んだの?)
それらは全て日本語で書かれている。つまり──
(ユリ・クサナギの条件付き魔法?)
私の胸の中に、さっき確信したばかりの「ユリ・クサナギは日本人だった」という事実と、また別の恐怖が静かに積もっていく。
──コンコン。
控えめなノックの音に、肩がびくりと跳ねた。
「ミナ様。そろそろ本当にお食事に向かわれませんと。ご当主様もご帰宅なさいました」
「っ⋯⋯はい。すぐ行きます!」
慌ててノートを閉じ、机の奥に押し込む。
(とにかく今は、何も知らないふりをしなきゃ)
深呼吸を一度。
心臓の音を胸の奥に押し込んでから、私は食堂へ向かった。
食堂に入ると、ちょうど反対側の扉からレオンが入ってきた。
「お、おかえりなさい」
(落ち着け。いつも通り、いつも通り)
「ただいま戻りました。ミナに出迎えてもらえると、仕事をした甲斐がありますね」
以前と変わらない口調なのに、どこか今は、その一言一言の裏を探ろうとしてしまう自分がいる。
向かい合って席に着き、食事が運ばれる。
スープの匂い、パンの温かさ。いつも通りの夕食のはずなのに、味が遠くに感じる。
「今日は、書庫にいたそうですね」
心臓が、どくんと跳ねた。
「⋯⋯はい。そうです。どうして知ってるんですか?」
「エラが嬉しそうに話していましたよ。ミナが書庫を気に入っていたと」
(屋敷の中で私が何していたか、レオンさんに伝わらないわけないか)
「何か興味のあるものは見つかりましたか?」
嘘はつかないと決めて、私は素直に口を開いた。
「アストリア建国物語という童話を読みました。なんとなく、たまたま目についたので」
「初代国王とその妃の話ですね。アストリア人なら誰でも知っている物語です」
レオンは、少しだけ目を細めた。
探るようにも、懐かしむようにも見えるその視線が、胸の内側をじわりと刺す。
「なにか、気になることでもありましたか」
「⋯⋯いえ。史学の教科書で習った内容とだいたい同じでした。二人の結婚記念日が『良い夫婦の日』の起源になったとか、そんな感じの」
「そうですね。彼らは理想的な夫婦の象徴として語られ続けています」
こともなげに言いながら、レオンはパンをちぎる。
「特に、初代国王の王妃に対する愛は凄まじかったそうです」
「え⋯⋯?」
「故郷に帰りたいとこぼした王妃の一言で、初代国王はひどく取り乱したそうです。その夜、王は大陸中の航路を見直させ、妃の故郷へ向かう全ての手段を廃止したとか。地図からその国の名前を消させたという話もあります」
ナイフとフォークの音が、妙に大きく響く。
「⋯⋯それは、愛というのでしょうか?」
誰にとっても故郷は大切な場所だ。
家族も、思い出も、帰ればいつでも迎えてくれるはずの場所。そこへ二度と戻れなかったお妃様の胸に、どれほどの孤独が積もったのだろう。
想像するだけで、胸が締めつけられる。
だが、彼の表情からは何も読めなかった。
「ええ、私は愛だと思いますよ。そのおかげで二人は死ぬまで離れずに済んだのですから。愛する者を奪いかねないものなんて、本来存在してはいけないんです」
穏やかに笑う。だが、なぜか視線が肌にまとわりつくように重く、私はひどく恐怖を感じた。
(あの幸せそうな童話の裏でこんな話があっただなんて)
レオンさんは変わった。私が宿に泊まろうとした、あの日から。なぜ私を閉じ込めるのかは正直わからない。
だが、優しい笑顔の裏にあるのは、私を逃がさないと決めた者の目──獲物を捉えた肉食獣の目だ。
顔に出ていたのか、レオンがふっと表情を和らげた。
「そんな顔をしないでください。昔話ですよ。どの時代にも、少し劇的に脚色された物語はあるものです」
「⋯⋯そう、ですね」
口ではそう言いながら、どうしても「あくまで昔話」で終われなかった。なぜか自分のことのように感じたから。
レオンはそれ以上、その話を追及しなかった。
「そういえば、来週少し帰りが遅くなります。夕食は先に済ませて、ゆっくり休んでいてください」
「来週ですか?」
「ええ。公務が長引きそうでして。屋敷には夜更け前には戻るつもりです」
「分かりました。ご無理なさらないように」
それはいつも通りの、何気ない予定の共有。
けれど、さっきノートに浮かび上がった文字が、その言葉にべったりと張り付く。
(来週⋯⋯もしかしたら、チャンスかもしれない)
条件は、整いつつあった。




