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第19話 迎えにきた男

思いの外、カフェで長居してしまった。宿に着くころには、街はすっかり夜の色に染まっていた。


街灯が石畳をぼんやり照らし、風の音だけが静かに響く。


ここは、かつて家が見つかるまでの間、一時的に泊まっていた宿だ。


第六区に位置し、格安のため、もちろん個室ではない。


だが、ちょうど次の引っ越し先もここから徒歩数分のところにあり、引っ越す前に周辺の最新の治安状況を調べるには最適な場所だ。


ここは一部屋に二段ベッドが二つ、最大四人が泊まれる共同部屋がいくつも並んでいる。


安い分、部屋を共にする人間次第で安眠できるかどうかが決まるが、知らない人の話を聞くのは楽しかった。特に観光シーズンの今は、いつも満室のはずだった。


受付で名前を告げる。


「予約していたミナ・タカハシです」


「は、はいっ!ご用意できております!」


(なんでこんなに慌ててるんだろう?そんな威圧的に言ったつもりはないんだけどな⋯⋯)


受付の青年は汗ばんだ手で鍵を差し出してきた。声が、かすかに震えている。


「こ、こちらお部屋の鍵でございます」


「ありがとうございます。あの、今日宿泊される方はあまりいないんですか?」


「え、えっと⋯⋯本日は空きが多くてですね、お部屋もタカハシ様お一人です!」


「そうなんですか?珍しいですね」


(まあ、静かに眠れるならラッキーかな)


古びた木の階段を上がるたび、靴音がやけに響く。


(今日は疲れたし、早く寝よう)


鍵を差し込み、扉を閉める。


重い鞄を床に置いて、深呼吸をした──そのとき。


────コン、コン。


「ん⋯⋯誰?あ、もしかして受付に何か忘れたのかも」


控えめなノック音。


部屋の外は静かで、足音ひとつ聞こえない。


「はーい、今出ます」


扉を少し開けた瞬間──


ガンッ!


強い衝撃とともに扉が押し開けられた。男の影が、雪崩れ込むように部屋に入ってきた。


「っ、ちょ、何──」


反射的に防御魔法を発動する。だが、その光は一瞬でかき消えた。


「ミナ。今のは感心しませんよ。誰か確認もせずに扉を開けるとは。無防備なところは相変わらずだ」


低く、よく知る声。


その声を聞いた瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。


「っ⋯⋯レオンさん!?」


目の前に立つ彼は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。


「お迎えに上がりました」


「な、なんでここに⋯⋯」


「ミナが外泊するとの報告を受けました。ただ、私は許可していません」


「いや⋯⋯それは⋯⋯」


「それは?なんですか?」


目は笑っているが、言葉から威圧感を感じた。それに、なぜか変に意識してしまい、目が見られない。


「その、実は、今日はいつもと違うところで寝て、リフレッシュしたいなと思って⋯⋯」


「なら、一緒に今度旅行へ行きましょう。今日は帰りましょうね」


まるで子どもを諭すような口ぶり。


私の言葉に耳を貸す気配もない。まるで「帰ることは絶対だ」と告げているようだった。


穏やかな声なのに、指先には逃がさない圧がある。掴まれた手首が、少しだけ痛い。


(⋯⋯レオンさん怒ってる?たしかに直接言わずに外泊しようとしたけど、明日には帰るってメイドさん達には伝えたはずなのに)


「今日の夕食は何がいいですか?」


「あ、あの!ちゃんと話を聞いてください!」


「聞いたら帰りますか?」


「そういうわけでは──」


「なら、屋敷でミナの好きな料理を食べながらお話ししましょう」


「食べ物で釣るなんて、私のこと何歳だと思ってるんですか」


本当は少し靡きそうになったけれど、それは言えない。


「では、今度ミナの好きな家具屋に行きましょう。好きなものをなんでも買って差し上げます。ですので、今日は──」


「だから、何度も言いますが、今日は帰りません!」


自分でも、どうして帰りたくないのか分からなくなってきた。だが、私の話に聞く耳を持ってくれないレオンさんにはすごく腹が立つ。


「なぜ?」


「この辺りに次に住む家が見つかったんです!引っ越す前に、周辺の地域の雰囲気を見てみたくて。

いつまでもお世話になるのはご迷惑ですし、実は契約ももう済んでるので、私はあの屋敷から──」


「⋯⋯思い出したのか」


「え?」


低く、どこか自分に言い聞かせるような小さな声。レオンさんの表情が、見たこともないほど無機質になった。


(い、今の言い方、少し棘があったかな⋯⋯)


レオンさんは黙って私を見ていた。沈黙が痛い。視線が鋭くて、喉が乾く。


「あの、今のは私の言い方が少し──」


「だから、ミナを自由にさせるのは早い、そう言ったんだ。さて、これからどうしましょうかね?」


彼は前髪を指先でかき上げ、ほんのわずかに息を吐いた。


「え?」


「こんなに私のことを振り回せるのは、あなたくらいだ。いっそ、殺してしまいたいくらいに」


冗談めかした声音なのに、その目だけは一切笑っていなかった。


「こ、ころ⋯⋯」


「──ああ、大丈夫、殺しはしない。殺さなくて済むように、今いろいろ手を打っていますから」


さらりと告げると、レオンさんは私を抱き寄せ、子どもをあやすみたいに頭を撫でた。吐き出された言葉と、その優しすぎる仕草の落差が、かえって異常さを際立たせる。


「早く私のものにならないかな」


「あ、あ、あの⋯⋯」


喉の奥からどうにか声を押し出したときには、もう頬を伝って涙がこぼれていた。


「ミナ、泣いているんですか?これはいけない。やっぱり、怖いことは全部忘れてしまったほうがいいですね」


耳元でそう囁く声だけが、妙に優しくて温かかった。


彼が私の目線までしゃがむ。


「ミナ、少しだけ我慢して」


彼が一歩、近づく。


私が逃げようとした瞬間、体が──動かなかった。


(な、に⋯⋯これ?拘束魔法?)


視界が揺れる。


レオンさんの手のひらが、そっと私の目を覆った。


「大丈夫。怖くない。少し眠くなるだけだ」


耳元で優しく囁く。


そして、次の瞬間、世界がすっと遠のいていった。

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