前世を憶えている魂は転生して無双できるか?
日本の大都会の片隅に雑多に建つアパート群、その中の何の変哲もない一棟のとある部屋で、せんべい布団にくるまった男がぜひぜひと息も絶え絶えに呼吸しながら眠っていた。白髪八割の頭と顔に刻まれた深い皺が男の年齢を物語っている。
布団の周りにはカップ麺やコンビニ弁当の空き容器やペットボトルやゴミが散乱している。不健康な食生活を送っていたようだ。壁際に並んだプラスチックの収納ケースには衣服の他にフィギュアやプラモデルの箱が詰め込まれ、入りきらないモノが外にあふれ出している。典型的なオタク趣味の独身男性の汚部屋だ。老齢になっても趣味にかける情熱は冷めなかったらしい。
グッ!という配管にモノが詰まったような音を立てて男の呼吸音が止まると、男は苦しげに身体をブルブルと硬直させ、数秒後には身体を弛緩させて布団に横たわった。──男の呼吸音は、もう聞こえなかった。
◇
(……ここは、どこだ)
男の意識が浮かび上がり、目が光をとらえた。男に自覚はなかったが、確かに彼はアパートの一室で孤独死を迎えたはずだ。
『0%5×=*=゜$♪*jaw』
状況が把握できていない彼に、優しい印象の未知の言葉が頭上よりかけられた。彼がぼやける視界の焦点をなんとか合わせると、巨大な自身の三倍はありそうな顔が自分を慈しむように見つめて話しかけていることが認識できた。
ごく一般的な人生を送った現代人が、そんな非常識な事態を受け入れられるわけもなく、彼は身体の生理現象に引きずられるままに甲高い泣き声を上げた。みっともなく泣き喚くうちに彼は違和感を持った。自分の声が老人と思えないほどに甲高い、いや高いどころではない、これは赤ん坊の泣き声だ。彼は自身の赤ん坊の身体に引きずられて泣き止まない中で、前世の人格の思考で現状の把握に努めた。
涙に濡れる視界だが、自身の手は赤ん坊のぷにぷにした小さい手であり脚も相応に小さいのがわかった。自分をのぞき込む人物は金髪のヨーロッパ系の女性で、柔らかなまなざしには母性を感じる。
(──夢と思えないこの状況、これはまさかの異世界転生ってやつか!?……い、い、い、いやったぁぁぁ!!)
彼は自身が赤ん坊に転生したことを認識した。老齢になってもオタク趣味を捨てなかった彼にとって、転生というのは夢のシチュエーションだ。まさかの展開に何度も夢でないことを確認して現実と判断できた彼の身体は、唐突に泣き止んで今度はキャッキャッ、キャッキャッと喜びに、もぞもぞ四肢を振り動かしたのだった。
ひとしきり母親とおぼしき人物に愛想を振り向いた彼は、赤ん坊の体力の限界を迎えて電池が切れたように眠りについた。
彼が再び目を覚ましたとき部屋には誰もいなかった。窓にはカーテンがかかり外は見えなかったが日はくれているようだ。室内に電灯やコンセントなど電化製品とおぼしきものは見当たらない。しかしベビーベッドの上空、天井との中間に淡い光を放つ玉がぷよぷよと浮かび、彼が眩しくない程度に視界を確保してくれていた。
(ま、魔法キターーー!?)
吊り下げる糸もなく、光源となる固形物も見えない。CGのように光だけがその場に浮いている光景に、彼のオタク脳は即座にそれを魔法の存在と認知した。事実、間違ってはいない。彼の転生した世界は前世の物理法則以外に、魔法法則とも呼べるものが存在する世界なのだ。人の魂から湧きだした魔力と呼ばれるエネルギーを糧に物理的な現象を実現させる技術を狭義な意味での魔法といい、この光球はその魔法で作られていた。
「だー!うー!」
(魔法!使いたい!)
オタク生を大往生した彼は、こんな異世界ど定番設定を見逃すはずもない。部屋を訪れた使用人の女性となんとかコミュニケーションをとって魔法のことを教えてもらおうとしたりするが、言葉も話せない赤ん坊の正確な意図が伝わるわけもない。使用人、母親、父親といろいろな人に魔法の教授をねだってみたが伝わることはなかった。ただし光源の魔法は何回か何かを詠唱して使っている場面は見ることができたので、魔法の存在は確定した。
魔法についてくわしく教えてもらうのはもう少し大きくなってからと諦めた彼だが、その代わりにろくに動けない赤ん坊でも一人で試せることをしてみることにした。魔法のある異世界への転生で赤ん坊スタートなら必ずと言っていいほどある魔力増大チートトレーニングだ。
「だーい、だーい!うー、あー……」
(まずは魔力を感じ取るぜ!あれだよな。臍の下あたりの丹田に意識集中して熱く感じるエネルギーを見つけるんだ。たぶん)
彼の予想は、はたして正しかった。意識を集中すると丹田に熱いエネルギーを感じる。彼は感じ取った魔力を小さくしたり大きくしたりしながら動かすコツを探っていく。
(うぉぉぉぉ!?魔力だぜぇ!魔力使ってるわ俺!これを身体中巡らせてやるぜ)
彼は急速に魔力の扱いを体得していった。赤ん坊には決して不可能なことだ。魔法に詳しい成人でも難しいことをなしているのは、この世界の魔力を扱うのに彼のオタク知識がピタッとはまっているからだった。
(ぐぎぎぎぎ…魔力の塊を身体の中で動かすのは大変だぜ。魔力も結構消費してる感があるし、枯渇寸前までもっていって止めよう。そんで超回復を繰り返せば「なんだこの規格外の魔力は!?」的な神童展開が始まるはずだ!ふひひひひ)
彼の試している魔力を自在に操るトレーニング法は、この異世界で魔法技術を上達させる術として非常に理にかなっている方法だった。魔力を枯渇させてから回復させて保有魔力量を増やすというのも手法としてはあっている。ただし、その方法が通用するのは普通の新生児であればだ。
(ん?…げっ、あっ意識が…魔力は完全に枯渇させないように残してるはずなのに……)
ベビーベッドの上に寝ている彼の顔から血の気が引いていき呼吸も浅くなっていく。まわりに見守りの使用人の姿もない。鳴き声をだす力もなくなった赤ん坊に部屋の外の人を呼ぶことはできない。彼の意識はブラックアウトし、二度と覚めることはなかった。
彼は生まれてすぐに死んでしまった。悲しいことだがこの異世界の文明レベルでは新生児の死亡はよくあることだ。彼のように新生児が自発的に魔力トレーニングして死ぬのは極めて珍しいだろうが。
彼はそのオタク知識で魔力を扱う術には長けることができたが、その魔力の源泉に問題があった。この異世界では魔力を生み出すのは魂である。普通の新生児の真っ新な魂であれば彼の行ったトレーニングも、あるいは耐えられたかもしれないが、彼の魂は前世で寿命まで生きた経年劣化した魂である。例えるなら硬くなり、ひび割れたゴムを遠慮なく伸び縮みさせるようなものである。故に負荷に耐えられなかった彼の魂は崩壊した。
彼が自身の魂を慮ってトレーニングを自重していれば自滅は逃れられたかもしれない。だが魔力を増やせなければ、魔力を扱う知識も宝の持ち腐れだ。そもそも自身の知識が有用なのも気づく機会がもてない。彼がこの異世界で活躍するには魔法が使えないハンデを背負って、現代知識チートで成り上がりを目指すしかなかったのだ。
昨今の現代日本からの転生者は、魔法があるとわかると魔力チートをしたがり自滅していく者が増えている。自滅トラップに引っかかりやすい現代日本人はこの世界に適さないようだ。転生者に事前説明してくれる意志疎通可能な神が、いつか無より発生して転生者を導いてくれるまで、現代日本人転生者の活躍はお預けのようである。
完