抑止の名のもとに。
この街にルールはある。だがそれは “理屈”ではなく、“抑止”としての力で 成り立っている。
澪は、初めてそれに触れた。
ボタンを押す。それが誰かの自由を 奪う瞬間でもあり、自分自身の“境界線”を踏み越えることでもある。
今回は、結城が「この街の秩序の真実」に触れる回です。
第2話『ルールに従え。さもなくば血を流せ』
――朝6時。街にサイレンが鳴った。
「起床。区域内すべての住人は、30分以内に出頭。違反者には罰則が科される」
女性の声にしては無機質すぎる、合成音声。レクイエム・タウンでは、一日の始まりさえ"命令"から始まる。
結城澪はその声で目を覚ました。簡易宿舎の硬いベッド。部屋には鏡もなく、窓もなかった。あるのは、部屋番号と自動ロックだけ。
まるで“人間の存在を管理する箱”のようだと思った。
「ここ、本当に“再生”のための街なんですか……」
思わず口にした言葉に、返事はない。誰に聞かせるでもなく、ただ空気に問いかけただけだった。
前日、榊原に「ついてこい」と言われてから、澪は無言でその背中を追っていた。
街の中央を通る灰色の通路、壁に埋め込まれた監視カメラ、歩くたびに足音が響く乾いた空間。無数の視線を感じながら、澪は宿舎まで案内された。
「今夜はここを使え。最低限の設備は整ってる」
榊原がそう言ったきり、それ以上は何も話さなかった。
――そして今、澪は再びその背中を追っていた。
街は無音だった。だがそれは、静寂ではなく“音が許されていない空気”のように感じられた。
廊下を歩いていると、壁のスクリーンに映像が流れた。昨日見たばかりの街の地図。その下には『本日の労働区域』と書かれている。
住人たちは日替わりで割り当てられた労働を行う。労働に応じて報酬が与えられ、それで物を買い、薬を手に入れ、生き延びる。
だが、ルールは絶対。違反すれば、即座に罰。
「いずれ見ることになる。お前も、やらなきゃならない日が来る。見ておけ」
初めて榊原隼人の声がした。
澪が振り向くと、広場の中央に人だかりができていた。その中心で、1人の男が腕を押さえて倒れている。
「窃盗。初犯だ。現物の半額未満で物を奪った。判定は“私的利益の優先による秩序違反”。」
係員の無機質な声に、澪は反射的に足を踏み出した。
「待ってください、彼は──!」
男に駆け寄ろうとする澪の腕を、榊原が無言で引き止めた。
「やめておけ」
「初犯で、こんな──! こんなの、人として……」
澪が抗議の声を上げると、係員が顔を上げた。冷ややかな視線が、彼女を刺す。
「新人か。……初犯? ふざけるな」 係員の声が低くなった。 「ここの奴らはな、全員、かつての重刑者だ。刑務所すら持て余して、ここに“放たれた”連中だ」
言葉の温度が、一気に氷点下まで下がったようだった。
「甘えたことを抜かすな。中には洗脳で人の心を壊し、金品を奪い、家族を、親を、子供を──殺した奴もいる」
澪は息を呑んだ。
「それでも守るか? そんな奴らを?」
榊原が黙って横に立っていた。止めるでも、加勢するでもなく。ただ、見ていた。
係員が静かに合図すると、補助員が躊躇なく刃を振り下ろした。
鈍い音。血のしぶき。
男の左手首が、地面に転がった。
澪はその瞬間、背中に氷水をぶちまけられたような感覚に陥った。足が震える。声が出ない。
榊原がぽつりと呟いた。
「これが、ここの日常だ」
***
その日の昼、澪は初めての巡回に出た。
榊原と共に、整然と並ぶ居住ブロックを歩く。無言の住人たちが目線を上げることはない。だが、確かに彼女を見ている気配があった。
恐れでもなく、憎しみでもない。もっと湿った、言いようのない目線。
「怖いと思うか?」
唐突に榊原が聞いた。
澪は答えに詰まった。
「……怖い、というより、理解が追いついてません」
榊原は頷きもせず、ただ歩を止めた。
「罪を犯した者の目は、すぐには死なない。だが“死ねない”まま生きる者の目は、こうなる」
榊原が顎で示した先。そこには、何もない空間を見つめている初老の男がいた。
目に光はなく、口は動いているが、声は出ていなかった。
「彼は、娘を殺した男を殺した。法で裁けなかったからな」
澪の息が詰まった。
「それって、あなたと──」
「……違わないさ。似たようなものだ」
榊原は歩き出す。澪は、黙ってついていくしかなかった。
何かが壊れている。だが、それを“正しい”とする空気に、澪は一歩ずつ染まりつつあった。
***
午後の巡回。
澪は榊原と共に、倉庫裏の路地を歩いていた。人気の少ない通路。監視カメラの死角も多く、住人同士の私刑や取引が多発する区域だという。
「ここは気をつけろ。昔の癖が抜けない奴が多い」
そう言った直後だった。
背後から物音。
「女だ……」
ドス黒い声が響いた。
振り返ったとき、ふたりの男が走ってきていた。その顔は汗と歪んだ笑みで濡れていた。動機は見え透いていた。
澪が身構える前に、一人の男が手を伸ばし――
「結城、ボタンを押せ!」
榊原の声。
咄嗟にポケットから取り出した“赤いスイッチ”。
澪は迷った。押せば、何が起こるのか本当にわかっていない。でも、このままでは……。
「押せ!」
指が、赤いボタンを押し込んだ。
瞬間、襲いかかろうとしていた男の体が跳ね上がった。
「ぐゥ……ッ、あ、が……!」
男は両目を見開き、筋肉が痙攣し、地面に膝をついて泡を吹いた。もう一人の男は怯えて逃げ出した。
澪は震える手で、スイッチを胸元に押し当てていた。
「これ……これが、あの首輪……? 本当に、こんな……」
榊原は静かに、倒れた男を見下ろした。
「この街でボタンを持つ者は、選ばれた“抑止力”だ。だが一度押したら、もう“ただの見張り”ではいられない」
澪はゆっくりとうつむいた。
「……もう、こんなこと……したくない……」
その声に、榊原は何も返さなかった。
澪はしゃがみ込んだまま、しばらく動けなかった。
手のひらには、まだ赤いボタンの感触が残っている。
榊原は倒れた男の脈を確認し、立ち上がると、ふと空を見上げた。
「2分もすれば痙攣は止まる」
言葉とは裏腹に、声に感情はなかった。
「……それだけで済ませるんですか? あんな、あんなふうに……」
澪の声はかすれていた。涙までは流れなかったが、胸の奥が焼けるように痛かった。
「これがこの街での正当防衛だ」
榊原は少し歩きながら言った。
「感情じゃ抑止にならない。ここでは理屈より“力”が秩序を作る」
「でも……私は、そんなの正しいなんて思えません」
榊原は立ち止まり、背を向けたまま答えた。
「ボタンを持った時点で、お前は人を止める側になった。拒めば、いずれ“止められる”側に回る」
倒れた男の手足がわずかに痙攣しているのが見えた。
彼の目は虚ろで、すでに人としての意思は感じられなかった。
「……この街、どこで間違ったんですか」
「間違っちゃいない」
榊原は振り返り、初めて澪の目を真正面から見据えた。
「元重刑者が解き放たれて、街に混ざったときに、外の人間が安心すると思うか?」
澪は息を呑んだ。
「だが“殺すな”と叫ぶ奴もいる。抑止も管理もせず、“人間として扱え”と。理想論だ」
榊原はひと息置いて、言い切った。
「この街には、本当に償おうとしてる奴もいる。だが、刑期を終えてもまた獲物を探してる奴もいる。混ざってる。忘れるな、結城」
澪は拳を握りしめた。
「……わたし、間違ってないですよね?」
「間違ってはいない。でも──“正しさ”じゃ、生き残れない場所だ。覚えておけ」
「罪を償った者には、人として生きる場所を」
それがこの街の理念。けれど、理想と現実の間には、どうしても“抑止” が必要になる。
今回、結城が押したボタンは、人を抑 える道具であると同時に、
彼女自身が「この街の秩序」に組み 込まれた証でもありました。
それでも、彼女はまだ信じたい”と 思っている。
償いと人権は両立できるのか。次回は、そこに少しずつ踏み込んでいきます。