第九話
翌朝、俺は普段より早く目覚めた。
時刻は午前八時を少し回ったところだ。寝起きにしては妙に頭がすっきりしていた。
昨夜の廃墟での出来事が夢のようだったが、床に敷かれた布団を見ると、そこにはエリスがいた。やはり、あれは現実だったのだと実感した。
ちなみにエリスはまだ静かに眠っていた。
布団から顔だけを出した彼女の寝顔は、昨夜見せた甲冑姿の凛々しさとは対照的だった。無防備で愛らしい表情に、俺は思わず見入ってしまう。
茶色い髪が頬にかかり、長い睫毛が頬の上で小さな陰を作っている。桃色の唇がわずかに開いて、規則正しい寝息を立てていた。
あまりにも美しくて、しばらく見つめてしまった。
はっと我に返り、慌てて視線を逸らす。こんなふうにじっと見ているなんて、失礼すぎる。
音を立てないよう注意深く立ち上がり、洗面所で顔を洗った。髭を剃り、歯を磨いて身だしなみを整える。
今日はキッチンで朝食を作ることにした。
せっかくエリスがいるのだから、それなりにきちんとした朝食を用意するべきだろうからだ。
キッチンの棚からパンを取り出す。クロワッサンが数個残っていた。これを温めれば美味しい朝食になるだろう。
電子レンジの扉を開けて、皿にクロワッサンを乗せる。ボタンを押すと、庫内が淡く点灯した。
ほのかに甘い香りが部屋に広がり始める。
「ん……おはようございます、ケイイチさん……」
その香りに誘われるように、エリスが目を覚ました。まだ眠そうな声だった。
彼女はゆっくりと上体を起こし、大きな青い瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「おはよう、エリス。よく眠れた?」
「はい……とても気持ちよく眠れました。」
彼女は丁寧に布団をたたんでから立ち上がった。寝癖で髪がはねているのが、なんとも愛らしい。
「あの……いい匂いがしますね。まるでパン屋さんのような……」
「朝食の準備をしてたんだ。」
エリスは洗面所で顔を洗ってから、俺のいるキッチンにやってきた。
「わあ……!」
エリスは目をきらきらと輝かせながら、キッチンを見回している。
「ケイイチさん、これは……?」
彼女が興味深そうに見つめているのは電子レンジだった。
「電子レンジっていう道具だよ。食べ物を温めるんだ。」
「食べ物を温める魔道具ですか!」
エリスは興奮したように手をぱちんと合わせた。
「王都でも似たような魔道具を見たことがあります!でも、もっと大きくて、魔法陣が刻まれていました!」
「魔法陣?」
「はい!炎の精霊と契約して、食べ物を温める高級な魔道具でした。でも、これはとてもコンパクトですね!」
電子レンジから『チン』という音が鳴った。
「きゃっ!」
エリスがびくっと肩を上げて俺の腕にしがみついた。柔らかな感触と甘い香りに、俺は動揺してしまう。
「だ、大丈夫だよ。温め終了の合図なんだ。」
「そうなんですか?」
俺は電子レンジを開けて、湯気の立つクロワッサンを取り出した。
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます!」
エリスは嬉しそうにクロワッサンを受け取った。一口かじると、目をきらきらと輝かせる。
「ふわふわで……とっても美味しいです!さっきまで冷たかったのに、魔道具のおかげで温かくなってる!」
その反応があまりにも可愛くて、俺は思わず笑みを浮かべた。
「気に入ってもらえて良かった。」
俺は水道の蛇口をひねって、コップに水を注いだ。エリスは、透明な水が勢いよく流れ出る様子に改めて感動している。
「やっぱり不思議です……王国の水道魔道具は、結構複雑な魔法陣が必要だったのに……」
彼女は手のひらで水を受けて、その冷たさを確かめていた。澄んだ瞳に純粋な驚きがあった。
「これも魔道具なんですよね?どんな精霊と契約しているんでしょう?」
「えっと……水の精霊、かな?」
俺は曖昧に答えた。魔法の概念で説明する方が、彼女には理解しやすいようだ。
「やっぱり!水の精霊さん、いつもありがとうございます!」
エリスは蛇口に向かって小さくお辞儀をした。
その姿があまりにも愛らしくて、俺は思わず見とれてしまう。
朝食を食べながら、俺は家電について説明する代わりに、壁のスイッチを指差した。
「そうだ、もう一つ見せたいものがあるんだ。」
俺はリモコンを取って、テレビの電源を入れた。
テレビの電源が入ったことで、そのディスプレイから音が鳴り、人の姿が映し出された。
ニュースをキャスターが読み上げていた。
「きゃああああ!」
エリスが大きな悲鳴を上げて、俺の後ろに隠れた。
「だ、大丈夫だよ!危険じゃない!」
「で、でも……あの黒い箱に人が閉じ込められています!」
「閉じ込められてるんじゃないよ。これはテレビっていう道具なんだ。」
エリスは俺の後ろから恐る恐る顔を出して、テレビ画面を見つめた。
「テ、テレビ……?」
「遠くの場所を映し出す道具なんだ。あの人たちは別の場所にいるんだよ。」
「遠くの場所を……まさか!」
エリスの瞳が急に輝いた。
「遠見の魔道具ですね!」
「遠見の魔道具?」
「はい!王宮にあった魔道具です!でも、王宮のものは、水晶でできていました。でも、こんなにはっきり映るなんて……」
エリスは興味深そうにテレビに近づいていく。
「あの人たちは、今どこにいるんでしょう?」
「テレビ局っていう場所だよ。そこから電波で映像を送ってるんだ。」
「電波……なるほど、風の精霊を使った伝送の魔法ですね!」
彼女は納得したようにうなずいた。
「それにしても、この世界の魔道具は本当にすごいです!王国のものより性能がいい!」
朝のニュース番組では、天気予報が始まっていた。
「今日の天気は晴れでしょう……」
「あ!あの人、未来が見えるんですか?」
エリスが驚いたように声を上げた。
「天気予報だよ。科学的に天気を予測してるんだ。」
「科学的……魔法とは違う方法なんですね。ボクにはよく分からないけど、すごいですね!」
朝食を終えて、俺はふと彼女の服装を見た。昨夜借りたTシャツとジーンズを着ているが、一着しかない。
「そうだ、エリス。君の服を買いに行こう。」
「服を……買う?」
「そうだよ。君にあったサイズのものを着たいだろう?」
エリスは困ったような表情を浮かべた。
「でも……ボク、この世界のお金を持っていません。エルタリア金貨は使えませんよね……」
「大丈夫、俺が出すよ。」
「そんな……これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
彼女は申し訳なさそうに俯いた。その健気な様子に、俺の胸が熱くなる。
「迷惑じゃないよ。それに、一緒に暮らすなら、こういうのも共有だろう?」
俺は軽く笑って見せた。
「一緒に……暮らす……」
エリスの頬がほんのりと赤くなった。その反応に、俺の方も慌ててしまう。
「あ、いや……その……」
「あ、そうだ!ボクたち、騎士の誓いを交わしました。そうでした!」
彼女は大きな声をだした。
そして、照れくさそうに微笑んだ。
「ボク……とても嬉しいです。ケイイチさんと一緒なら、この世界でも頑張れます!」
その笑顔があまりにも美しくて、見惚れそうになった。
俺は慌てて話題を変えた。
「そ、それじゃあ準備しよう。駅まで歩いて、電車で街に出るから。」
「電車……?」
「大きな乗り物だよ。たくさんの人を運ぶんだ。」
エリスの瞳に好奇心が宿った。
「きっと馬車のような魔道具ですね!楽しみです!」
俺たちはアパートを出て、駅に向かって歩き始めた。
朝の街は通勤の人々で賑わっている。エリスは周囲をきょろきょろと見回しながら歩いていた。
「みなさん、同じ方向に向かっているんですね。まるで行進みたいです!」
「仕事に向かってるんだよ。」
「お仕事……みなさん、とても真面目ですね。ボクも見習わなければ!」
彼女の素直な感想に、俺は新鮮さを感じた。
駅に到着すると、エリスの驚きは一層深くなった。
関東郊外の主要駅らしく、大きなロータリーには複数のバス停が並び、タクシーが列をなしている。駅ビルは高くそびえ立ち、多くの店舗が入っているのが見えた。
「すごい……!」
エリスは駅の大きさに圧倒されているようだった。
「こんなに大きな建物が……そして、人がたくさん!」
確かに朝の通勤ラッシュで、駅前は多くの人で賑わっている。
駅の中に入ると、まず券売機が並んでいるのが見えた。
「エリスの分の切符を買わないとね。」
「切符……ですか?」
エリスは券売機を見て、首をかしげた。
「これは……なんでしょうか?まるで魔法の石板がたくさん並んでいるみたいです。」
「切符を買う機械だよ。お金を入れると切符といって、電車に乗るために必要な紙が出てくるんだ。」
俺は券売機の操作方法をエリスに説明しながら、彼女の分の切符を購入した。
「すごい……お金を入れると、この小さな紙が出てくるんですね!」
エリスは切符を興味深そうに眺めている。
「この紙が、ボクが電車に乗る許可証なんですか?」
「そんなところかな。」
切符を購入した後、俺たちは自動改札機に向かった。エリスは改札機を見て首をかしげた。
「これは……なんでしょうか?まるで城門のようですが……」
「改札っていうんだ。ここを通って電車に乗るんだよ。」
俺はまずICカードを改札機にタッチした。
「ピッ」
機械音と共に扉が開く。
「わあ!」
エリスが驚いて、思わず俺の手を握ってきた。柔らかくて温かい手の感触に、俺は動揺してしまう。
「だ、大丈夫だよ。君は切符を入れて通るんだ。」
俺はエリスに切符の入れ方を教えた。
「ここに切符を入れて……」
エリスが恐る恐る切符を差し込むと、改札機が切符を飲み込んで、反対側から出てきた。同時に扉が開く。
「一緒に通ろう。出てきた切符を忘れないでね。」
俺は彼女の手を優しく握り返した。
「は、はい……」
エリスの頬が赤くなっている。俺も同じように顔が熱くなった。
俺はエリスと手をつないで、改札を通り抜けた。
そのまま、ホームに向かった。
「へー。」
周囲を見ているエリスは、その好奇心が抑えきれていない様子だった。
そのまま、ホームで電車を待っていると、遠くから電車が近づいてくる音が聞こえてきた。
ゴオオオオ……
「なんか音がしますね。鳴き声みたいです!」
「電車が来るよ。」
やがて電車がホームに滑り込んできた。エリスは驚きで目を見開く。
「大きい……!本当に鉄のドラゴンみたいです!」
電車が停止し、扉が自動で開いた。
「うわあ……また自動で開きました!」
「こっち、エリス。」
俺は彼女の肩に軽く手を置いて、電車内に導いた。
車内は朝の時間帯でそれなりに混雑していた。運良く座席を見つけて、二人並んで座る。
電車が動き始めると、エリスはふと窓を見た。
「わあ!景色が流れてます!本当にドラゴンに乗ってるみたい!」
しばらくすると、郊外の住宅地から都市部に近づいてきた。窓の外に高層ビルが次々と現れ始める。
「あ、あれは……!」
エリスは窓に顔を近づけて、目を輝かせた。
「あんなに高い建物が……まるで天まで届く塔みたいです!」
高層ビル群を見上げる彼女の表情は、純粋な驚きに満ちている。
「ここは普通の高さなんだ。」
「信じられません……王国で一番高い塔でも、あの半分くらいの高さでした。」
電車が揺れると、エリスがバランスを崩しそうになった。
「わっ!」
彼女は慌てて俺の腕にしがみついた。
「だ、大丈夫?」
俺は彼女を支えながら尋ねる。近くで見ると、エリスの睫毛が長くて美しい。
「は、はい……すみません、また しがみついてしまって……」
彼女の無垢な表情と近さに、俺は顔が赤くなるのを感じた。
「気にしないで。電車は慣れるまで難しいからね。」
「ありがとうございます……でも……」
エリスは俺の腕から離れようとしたが、電車がまた揺れて、結局しがみついたままになった。
「あの……ケイイチさん……」
「なんだ?」
「ボク……手を離すタイミングが分からなくて……」
彼女は照れくさそうに笑った。その表情があまりにも可愛くて、俺は胸がどきどきしてしまう。
「別に……このままでもいいよ。」
「本当ですか?」
「うん。君が安心できるなら。」
エリスは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。ケイイチさんの腕、とても温かくて……安心します。まるで騎士の鎧みたいに頼もしいです。」
その言葉に、俺の心が温かくなった。
電車の窓から外の景色が流れていく。エリスはその景色に見とれていた。
「すごいです……景色がこんなに速く流れて……まるで風魔法で空を飛んでるみたいです!」
「慣れると普通になるよ。」
「でも……ケイイチさんと一緒だから、特別な気持ちです。初めての旅が、こんなに楽しいなんて!」
エリスのその言葉に、俺は彼女との時間がどれほど特別なものかを改めて実感した。
しばらくすると、エリスが小さく あくびをした。
「あ、すみません……」
「疲れた?」
「いえ、大丈夫です。でも、このドラゴンさんに揺られていると、眠くなってしまいます。」
彼女の頭が少しずつ俺の肩の方に傾いてくる。
「少し休んでいいよ。」
「でも……」
「遠慮しないで。まだ時間はかかるから。」
エリスは安心したように、俺の肩にもたれかかった。彼女の髪からほのかに甘い香りがして、俺の心臓が高鳴る。
「ケイイチさん……」
「なんだ?」
「昨夜は夢のようでした。怖い化け物と戦って、でもケイイチさんがいてくれたから頑張れて……」
彼女の声は眠そうで、とても可愛らしい。
「今朝起きて、魔道具をたくさん見せてもらって……本当に不思議な世界です。」
「君にとって不思議でも、俺には普通のことなんだ。でも、君と一緒だと、何もかもが新鮮に見える。」
「ボクも……ケイイチさんと一緒だから、怖くないです。この世界は魔法がなくても、魔道具がたくさんあって、みんな親切で……」
エリスの声が次第に小さくなっていく。
「きっと、ここはとても平和な世界なんですね……」
やがて彼女の呼吸が穏やかになり、眠ってしまったようだった。俺は動かないよう注意しながら、彼女の寝顔を見つめた。
やがて目的の駅に到着する。
「エリス、着いたよ。」
俺は優しく声をかけた。
「ん……もう着いたんですか?」
エリスはゆっくりと目を開けて、慌てて頭を上げた。
「すみません!寄りかかってしまって!」
「気にしないよ。今度はどこに行くんだっけ?」
「えっと……」
エリスは一瞬きょとんとした顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「服を買いに行くんでしたね!楽しみです!」
俺たちは手を取り合って電車を降りた。
到着した駅は、先ほどの駅よりもさらに大きく賑やかだった。エリスは駅の構内を見回して、目を丸くしている。
「こんなに大きな建物があるなんて……!これが駅……!」
確かに駅構内は複雑で、多くの通路が交差している。案内板には無数の方向が示され、人々が忙しそうに行き交っている。
「ショッピングモールは駅と直結してるから、そんなに歩かなくても大丈夫だよ。」
「直結……つながってるんですね!」
俺たちは案内に従って歩き始めた。
「あの……ケイイチさん。」
「なんだ?」
「今日も一日、どうぞよろしくお願いします。この世界のことを、たくさん教えてくださいね!」
エリスは丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしく。」
俺たちは手を取り合って、ショッピングモールに向かって歩き始めた。