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第六話

 五階に足を踏み入れた瞬間、俺の体から血の気が引いた。

 目の前に広がっていたのは、もはやビルの一部とは到底思えない光景だった。


 天井は遥か上方に消え去り、まるで地下深くの巨大な洞窟に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。頭上を見上げても、暗闇の先に天井らしきものは見当たらない。

 壁面は黒い石材で構築されており、その表面には無数の古代文字らしき刻印が刻まれていた。文字は微かに青白く発光し、まるで生きているかのように明滅を繰り返している。


 空気は重く湿っており、呼吸するたびに肺の奥に冷たい湿気が入り込んでくる。どこからともなく水滴の落ちる音が不規則に響き、その音だけが静寂を破っていた。


「これは……どこなんでしょう……」


 エリスの声が震えていた。彼女の剣から放たれる光も、この広大な空間ではまるで蝋燭の炎のように心もとない。


 俺たちが歩を進めると、足音が石の床に反響して、まるで複数の足音が重なり合っているような錯覚を覚えた。その反響は長く続き、やがて暗闇の奥に吸い込まれていく。


 空間の中央部には、巨大な祭壇のような構造物がそびえ立っていた。

 高さは三メートルほどで、同じような黒い石材で作られている。その表面にも複雑な文様が刻まれており、祭壇全体から不可解なエネルギーが放射されているような感覚があった。


 祭壇の周囲には、七本の石柱が円形に配置されている。それぞれが異なる高さを持ち、最も高いものは天井近くまで達している。最も低いものでも俺の身長ほどはあり、その存在感は圧倒的だった。

 石柱の表面にも同じような発光する文様が刻まれており、それらが脈動するように明滅している。その光のリズムは微妙に異なっており、まるで何かのメッセージを伝えようとしているかのようだった。


「あの祭壇……何のためのものなんでしょう……」


 エリスが不安そうに呟く。彼女の美しい顔は青ざめており、甲冑を着た小さな体が緊張で硬直している。


「分からない。でも、嫌な予感がする。」


 俺は周囲を警戒しながら答えた。この空間全体から発せられる不穏な空気が、俺の神経を逆撫でしていく。

 俺たちが祭壇に近づこうとした時、突然、石柱の光が一斉に強くなった。それまでの微かな光から一変し、まるで松明のような強烈な光を放ち始める。

 その瞬間、祭壇の向こう側から、何かが立ち上がった。


 最初は巨大な岩の塊かと思った。しかし、それは確実に生き物だった。


 人間の数倍はある巨体で、全身が漆黒の鱗で覆われている。その鱗は一枚一枚が俺の手のひらほどもあり、光を反射して不気味に輝いていた。

 頭部は爬虫類と昆虫を合わせたような異形で、複数の赤い眼球が頭蓋骨の各所に散らばっている。それらの眼が同時に俺たちを捉えると、まるで標的にされたような恐怖が背筋を駆け抜けた。


 最も恐ろしいのは、その背中から生えている無数の触手だった。太いものは俺の胴体ほどもあり、細いものでも腕ほどの太さがある。それらが波打つように蠢き、先端には口のような器官が開閉を繰り返していた。


「がががっ……ががっ……」


 怪物が低い唸り声を上げた。その声は単なる音ではなく、物理的な圧力を持っているかのように俺たちの体を押し返してくる。

 空間全体が振動し、石柱から細かな石屑がパラパラと落ちてきた。足元の石床も小刻みに揺れており、立っているのがやっとだった。


「こんな……こんな化け物が……」


 エリスが恐怖で声を震わせている。

 剣を握る手も震えており、刀身がかすかに音を立てていた。


「逃げるぞ。」


 俺は彼女の手を引いて後退した。彼女の体が恐怖で硬直しているのが分かった。


「は、はい……でも……」


 エリスがゆっくりと剣を構えた。恐怖に支配されそうになりながらも、騎士としての意地が彼女を支えているようだった。


「ボクは……騎士見習いです。逃げるわけには……」


 その時、怪物が動き始めた。

 巨体からは想像もつかない素早さで、触手の一本が俺たちに向かって伸びてきた。その速度は目で追うのが困難なほどで、空気を切り裂く音が響く。


「避けろ!」


 俺はエリスを抱きかかえるようにして横に飛んだ。触手が俺たちのいた場所を叩きつけ、石床に深い亀裂が走る。

 衝撃で飛び散った石の破片が俺たちの周囲に降り注いだ。その一片が俺の頬をかすめ、鋭い痛みが走る。


「ありがとうございます……」


 エリスが俺から離れて立ち上がった。その美しい顔には恐怖と決意が入り混じっている。


「でも、一人では……」


 俺が言いかけた時、別の触手が頭上から降ってきた。俺は咄嗟にエリスを庇うように覆いかぶさる。

 触手が俺の背中を直撃し、激痛が全身を駆け巡った。甲冑を着ていないため、衝撃がダイレクトに伝わってくる。


「きゃあああ!」


 エリスが悲鳴を上げた。しかし、それは自分の危険を案じたものではなく、俺を心配する声だった。


「大丈夫……まだ動ける……」


 俺は歯を食いしばって立ち上がった。背中に鈍い痛みが残っているが、致命傷ではない。

 エリスが剣を構え直した。刀身から放たれる光が、わずかに強くなったように見える。


「やああああ!」


 彼女が居合切りを放った。光る刀身が美しい弧を描き、最も近い触手に向かう。

 剣が触手に命中し、青白い光が爆発的に広がった。触手の表面が焼けるような音を立て、怪物が苦悶の声を上げる。


 しかし、ダメージは軽微だった。触手の表面に焦げ跡が残っただけで、怪物の動きは止まらない。


「効いてない……」


 エリスの顔に絶望の色が浮かんだ。


 怪物は逆に怒りを増したようで、複数の触手を同時に振り回し始めた。太い触手が俺たちの頭上を通り過ぎ、細い触手が足元を狙ってくる。

 俺たちは必死に避けながら、距離を保とうとした。しかし、触手の数が多すぎて、完全に避けることは不可能だった。

 ついに、最も太い触手がエリスを捉えた。


「きゃっ!」


 触手がエリスの胴体に巻きつき、彼女を宙に持ち上げる。甲冑が金属音を立てて軋み、エリスの苦痛の声が響いた。


「エリス!」


 俺は周囲に散らばっている石の破片を手に取った。それを怪物の眼球に向かって投げつける。

 石は狙い通りに怪物の眼の一つに命中した。怪物が痛みで身をよじらせ、エリスを掴んでいた触手の力が緩む。

 その隙に、エリスが剣で触手を切り払った。青白い光が触手を切断し、彼女は地面に落下する。


「痛っ……」


 エリスが地面に膝をついた。甲冑のおかげで大怪我は免れたようだが、相当なダメージを受けているのは明らかだった。


「大丈夫か?」


 俺は彼女に駆け寄った。


「はい……まだ戦えます……」


 しかし、彼女の声は弱々しく、立ち上がるのもやっとのようだった。


 怪物は切断された触手から黒い液体を流しながらも、攻撃の手を緩めない。残った触手を振り回し、俺たちを追い詰めようとしてくる。

 その時、俺は気づいた。怪物の動きに一定のパターンがある。攻撃の前に、必ず頭部を俺たちの方向に向けるのだ。


「エリス、あいつの頭を狙え!」


 俺が叫ぶと、エリスが顔を上げた。その瞳に、かすかな希望の光が宿る。


「でも……近づけません……」


 確かに、触手の攻撃が激しすぎて、近距離での攻撃は困難だった。

 俺は周囲を見回した。石柱の一つが俺たちの近くにある。その石柱を盾にすれば、一時的に攻撃を防げるかもしれない。


「あの石柱の陰に隠れよう。」


 俺はエリスの手を引いて、最も近い石柱に向かって走った。触手が俺たちを追ってくるが、石柱の手前で動きを止める。

 石柱の影に身を隠すと、攻撃が一時的に止んだ。しかし、怪物は石柱の周囲を回り込もうとしている。


「このままでは時間の問題だ……」


 俺が焦っていると、エリスが剣を見つめながら呟いた。


「この剣……もっと強い力があるはずです……」


 彼女の剣は微かに光っているが、先ほどまでの戦いで見せたような強い光ではない。


「どうすれば力を引き出せるんだ?」

「分からないんです……でも……」


 エリスが俺を見上げた。その瞳には迷いがあったが、同時に強い意志も感じられる。


「あなたを守りたいという気持ちが、剣に力を与えてくれるような気がします。」


 その時、怪物の触手が石柱を回り込んできた。俺たちの隠れ場所が発見されてしまったのだ。


「もう隠れていられない。」


 俺は石柱から飛び出した。エリスもそれに続く。


 怪物の複数の眼が一斉に俺たちを捉えた。そして、これまでで最も激しい攻撃を仕掛けてくる。

 太い触手と細い触手が同時に襲いかかり、俺たちの逃げ場を完全に封じる。もはや避けることは不可能だった。

 絶体絶命の瞬間、エリスが俺の前に立ちはだかった。


「させません!」


 彼女の剣が触手の攻撃を受け止めた。金属と何かが激突する音が空間に響く。


 しかし、怪物の力は圧倒的だった。エリスの小さな体では、その力に対抗することはできない。

 彼女は徐々に押し負けそうになり、足が後ろに滑っていく。


「エリス……」


 その時だった。


 エリスの剣が、突然、今まで見たことのない強烈な光を放ち始めた。それは単なる光ではなく、生命力そのものを具現化したような暖かさと力強さを持っていた。

 光は剣から溢れ出し、エリス全体を包み込む。彼女の茶色い髪が光の中で舞い踊り、青い瞳が決意の炎に燃えている。

 甲冑に身を包んだ彼女の姿は、もはや怯える少女ではなく、真の騎士の威厳を備えていた。


「これが……ボクの本当の力……」


 エリスの声に、今まで聞いたことのない強さがあった。

 剣の光は触手を押し返し、怪物をひるませる。複数の眼球が光を嫌うように細められ、触手の動きも鈍くなった。


「今度は、ボクが守る番です。」


 エリスが前に踏み出した。その動きには、これまで見せたことのない流麗さと力強さがあった。

 光る剣が空中に美しい軌跡を描きながら、怪物の触手を次々と切り裂いていく。剣の一振りごとに、青白い光の帯が残り、それが怪物にダメージを与えていく。


「ぐがああああ!」


 怪物が苦悶の絶叫を上げた。その声は空間全体を震わせ、石柱にひびが入る。


 しかし、エリスの攻撃は止まらない。恐怖を完全に克服した彼女は、まるで舞踊のような美しい剣技で怪物を圧倒していく。

 俺は呆然とその光景を見つめていた。これが彼女の本来の実力なのだろうか。騎士見習いという言葉が信じられないほどの技量だった。


 だが、怪物も最後の力を振り絞って反撃に出た。残った触手を全て使い、エリスに向かって同時攻撃を仕掛ける。

 エリスは剣で防御しようとしたが、さすがに全ての攻撃を防ぎきることはできない。


 最も太い触手が彼女の脇腹を直撃し、エリスは壁に叩きつけられた。甲冑が壁に激突する音が響き、彼女の小さな体が衝撃に震える。


「エリス!」


 俺は彼女のもとに駆け寄ろうとしたが、怪物の触手が行く手を阻む。


「まだ……まだ戦えます……」


 エリスが血を拭いながら立ち上がった。しかし、その体は明らかに限界に近づいている。

 怪物は勝利を確信したかのように、ゆっくりと俺たちに近づいてきた。複数の眼球が嘲笑うように俺たちを見下ろしている。


 その時、俺は地面に転がっている鉄筋を見つけた。コンクリートから剥がれ落ちたもので、長さは一メートルほどだが、それなりの重量がある。

 俺はその鉄筋を拾い上げた。


「おい、化け物!」


 俺は怪物に向かって叫んだ。複数の眼球が一斉に俺の方を向く。


「相手はこっちだ!」


 俺は鉄筋を怪物の最も大きな眼球に向かって投げつけた。

 鉄筋は狙い通りに眼球に命中し、怪物が痛みで身をよじらせる。その隙に、エリスが最後の力を振り絞って立ち上がった。


「あなたがいてくれるから……ボクは戦える……」


 エリスの剣の光が、再び強烈になった。それは先ほどを上回る輝きで、もはや太陽のような眩しさだった。


「あなたを傷つける者は……絶対に許しません!」


 エリスが怪物に向かって駆け出した。その速度は人間離れしており、光の軌跡を残しながら怪物に接近する。

 怪物が触手で迎撃しようとしたが、エリスの動きはそれを上回っていた。彼女は触手の攻撃をかわしながら、一気に怪物の頭部に迫る。


「はああああああ!」


 エリスの渾身の一撃が、怪物の頭部を真っ二つに切り裂いた。

 剣の光が爆発的に広がり、空間全体が眩い光に包まれる。俺は思わず目を閉じた。


「ががっ……っががっがっが……」


 怪物の最後の唸り声が響き、巨体がゆっくりと崩れ落ちる。

 そして、怪物の体は瞬時に消散し、初めから存在していなかったかのように一瞬で消え去った。


 同時に、石柱の光も消え、祭壇も消える。

 おそらくだが、この空間全体が、怪物の存在によって維持されていたのだろう。


「はあ、はあ、はあ……」


 エリスが膝をついた。力を使い果たしてしまったのだ。彼女の美しい顔は汗と疲労で紅潮しており、茶色の髪が額に張り付いている。


「エリス……」


 俺も何とか起き上がって、彼女のもとに近づいた。体中が痛むが、動けないほどではない。


「大丈夫ですか?」


 彼女が俺を心配そうに見つめる。青い瞳には涙が浮かんでおり、その表情は純粋な心配の色に満ちていた。


「ああ、何とか……君こそ、よく頑張った。」

「ボク……ボク、やりました……」


 エリスの瞳に涙が浮かんでいる。今度は、達成感と安堵の涙だった。


「本当にありがとう。君がいなかったら……」

「いえ、ボクこそ……あなたがいたから、最後まで戦えました。」


 俺たちは互いに支え合いながら立ち上がった。


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