第五話
扉をゆっくりと開くと、そこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
普通のオフィスの部屋だった。机や椅子、ファイルキャビネットが整然と並んでいる。蛍光灯も点いており、まるで今でも人が働いているかのような空間だった。
しかし、それこそが最も異常なことだった。この廃ビルの中で、なぜこの部屋だけが正常に機能しているのか。
「ここは……普通の部屋ですね。」
エリスが困惑した声で呟いた。彼女も俺と同じく、この部屋の異常さを感じ取っているようだった。
「逆に不気味だな。なぜここだけが……」
俺たちは慎重に部屋に足を踏み入れた。床にはカーペットが敷かれており、足音が吸収される。エリスの甲冑の音も、なぜかこの部屋では鳴らなかった。
部屋の中央には大きなデスクがあり、その上にはパソコンや書類が置かれている。椅子は回転椅子で、まるで誰かが席を立ったばかりのように、わずかに回転していた。
壁には企業のポスターや就職活動関連の資料が貼られている。まるで就職活動中の学生が使っている部屋のようだった。その光景に、俺は嫌な予感を覚えた。
「なんですか、これ。」
エリスはデスクの上のパソコンを指差した。見慣れない道具に興味を示しているようだった。確かに彼女の出身地では、こんな機械は存在しないのだろう。
「パソコンっていう機械だ。でも今は触らない方がいい。」
俺はエリスの手を引いて、デスクから離れた。この部屋には、見た目以上の危険が潜んでいる気がしてならない。
そんな時、部屋の奥から、かすかな音が聞こえてきた。
最初は空調の音かと思った。しかし、よく耳を澄ませると、それは人の話し声だった。複数の人が、何かを話し合っているような音だった。
「誰かいるんでしょうか……」
エリスが不安そうに俺の袖を引く。彼女の青い瞳に不安の色が浮かんでいた。
「わからない。でも、警戒した方がいい。」
音は部屋の奥のパーティションの向こうから聞こえてくる。俺たちはそちらに向かって歩いたが、足音が全く聞こえないのが不気味だった。カーペットが音を吸収しているせいもあるが、それ以上に、この部屋自体が音を殺しているような感覚があった。
パーティションに近づくと、声がより鮮明になった。しかし、その内容は聞き取れない。まるで別の言語で話しているかのようだった。時折、笑い声のようなものも混じっている。
俺は慎重にパーティションの角に近づいた。エリスも俺の後ろに続く。彼女の甲冑がかすかに鳴るはずなのに、この部屋では全く音がしない。
パーティションの角を曲がると、そこには――。
何もなかった。
空っぽのスペースがあるだけで、人の姿は見えない。しかし、声は確実にこの場所から聞こえている。まるで透明な人間が会話をしているかのようだった。
「声は聞こえるのに……誰もいない……」
エリスが青ざめた顔で呟く。彼女の声も震えていた。
その時、俺たちの周囲の空気が急激に変わった。これまでの異常な現象とは明らかに質が違う、より個人的で深刻な何かが満ちている。まるで俺たちの内面を覗き込むような、不快な視線を感じた。
蛍光灯の明かりが微かに暗くなり、代わりに部屋の各所から薄ぼんやりとした光が立ち上り始めた。その光は自然なものではなく、まるで人の形をしているかのようだった。
「ここは……確かに他とは違いますね。」
エリスが不安そうに呟いた。彼女の剣の光も、なぜか以前より弱くなっているように見える。まるで何かに吸収されているかのようだった。
部屋は一見すると普通のオフィスのようだった。しかし、何か言いようのない違和感があった。
それは何かといえば、言葉にするのは難しいが、異様な空間にある正常な空間という異常さ、だろうか。
「エリス、戻ろう。」
「は、はい。」
俺はそのまま来た扉へと戻った。しかし、ドアノブを回しても扉は開かない。
「開かない。」
俺は力を込めてドアノブを回したが、びくともしない。入り口の扉は、いつの間にか閉まっており、完全に封じられていた。
「ええっ。」
エリスも戸惑っている。彼女も扉を押してみたが、やはり開かない。
少なくとも、俺たちがこの部屋から出る、という選択肢はなくなった。前に進むしかないようだった。
そんな時、部屋の奥から、複数の声が聞こえてきた。
「また落ちたのか。何社目なんだよ?」
その声に、俺の血の気が引いた。大学の同級生の声だった。すでに内定を決めている奴の声だ。
しかし、彼がこんな場所にいるはずはない。
「そんな……ここにいるはずがない……」
声のする方向を見ると、パーティションの向こうに人の形がいくつか立っている。
しかし、その姿ははっきりとは見えない。まるで蜃気楼のように、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
「俺はもう三社から内定もらってるんだけどな。お前はまだゼロだろ?危機感持てよ。」
同級生の声が続く。
しかし、その口調には、聞いたことのない鋭さが感じられた。
「俺だって頑張ってる……」
俺は反論しようとしたが、言葉が続かなかった。
心の奥底で、その通りだという思いがあったからだ。
別の声も聞こえてきた。今度は俺の父親の声だった。
「大学に行かせてやったのに、まだ就職先も決まってないのか。」
その父の言葉は、俺の心を深く傷つけた。確かに俺は、まだ内定をもらえずにいる。
俺が振り返ると、エリスの前にも何かが現れていた。
立派な鎧を着た女性の騎士が立っている。その騎士は威厳のある姿勢で、エリスを見下ろしていた。
エリスの表情を見ると、明らかな恐怖に染まっている。しかし、それは虫に対する恐怖とは質の違うものだった。もっと深く、心の奥底から湧き上がる恐怖だった。
「またお前か、エリス・フォルテ。」
その騎士の声は威厳に満ちているが、同時に軽蔑の色も濃い。エリスの小さな体がビクリと震えた。
「師匠……でも、師匠はもう……」
エリスの声が震えている。『師匠』という言葉から、この騎士はエリスが以前に指導を受けていた人物のようだった。
しかし、エリスの反応を見る限り、その人物はもうこの世にいない可能性が高いような感じにみえた。
俺の前では、さらに多くの幻影が現れていた。
「君の大学生活は、一体何だったんだ?…分かるかな。この言葉の意味が、君に。」
大学の教授の声が響く。俺のゼミの担当教授だった。
「学費を払って、結局何も身につけていない。ったく、親が可哀想だな。」
その言葉は容赦なく俺の心を抉った。
確かに俺は、大学で何を学んだのか、明確に答えることができない。
母親の声も聞こえてきた。
「近所の奥さんに『息子さんはもう就職決まった?』って聞かれるたびに、恥ずかしくて仕方ないのよ。」
その母の言葉に、俺の心が締め付けられた。確かに俺は、両親に心配をかけ続けている。
さらに、面接官の声も響いた。
「志望動機が曖昧ですね。本当にうちの会社に入りたいんですか?」
その冷たい声に、俺は身をすくませた。確かに俺は、面接で何度もそう言われてきた。
「お前のような臆病者が騎士を名乗るなど、千年早い。」
エリスの前の騎士の言葉により、彼女の顔がさらに青ざめていく。
俺の前の幻影たちも、攻撃を続けてくる。
「同級生はみんな就職決まってるのに、お前だけ内定がないよな。」
同級生の幻影の言葉が続く。
「もう三年生の後期だぞ。早く就職活動をしなかったからだろ。」
その言葉は、俺の心の奥底にある不安を的確に突いてくる。
確かに俺は、就職活動で出遅れていた。
「ボクは……ボクは頑張ってます……」
エリスの声も震えている。師匠と呼ばれた騎士の幻影の言葉に、彼女も動揺していた。
「頑張っている?笑わせるな。お前が最後に剣を抜いたのはいつだ?本気で民草を守るために戦ったことがあるのか?」
騎士の幻影の言葉は、エリスの心の傷に塩を塗るようだった。
俺たちの前に現れた幻影は、それぞれの心の弱さを執拗に突いてくる。
俺にとっては就職への不安、将来への恐怖、両親への申し訳なさ。エリスにとっては騎士としての自信のなさ、過去の失敗への後悔のようだった。
「大学で何をやってたんだ?遊んでばかりいたんじゃないのか?」
父親の幻影の声が続く。
「学費を無駄にして、結局何も得られなかった。情けない奴だ。」
その父の言葉が俺の胸に突き刺さった。
「君のエントリーシートを見ましたが、特筆すべき経験がありませんね。」
面接官の幻影の言葉は、俺の自信を完全に打ち砕く。
「正直、採用する理由が見つかりません。他にもっと優秀な学生はいくらでもいますから。」
その冷酷な言葉に、俺は何も言い返すことができない。
「お前のような騎士もどきがいるから、騎士団の名誉が汚される。」
師匠の幻影がエリスへ冷酷に言い放つ。
「お前は騎士になる資格などない。さっさと諦めて、田舎で農業でもやっていろ。」
その言葉にエリスの顔がさらに青ざめていた。
彼女の青い瞳に涙が浮かび始めた。
「そんな……ボクは……」
エリスの声は小さくなっていく。
幻影の言葉が、彼女の心を深く傷つけているのが分かった。
幻影たちの攻撃は容赦なく続く。俺たちの心の傷を、的確に抉ってくる。
それは物理的な攻撃よりも辛く、逃れることのできない苦痛だった。
「もう卒業まで一年もないのに、まだ決まってないのか。どこか妥協して決めたらどうだ?」
父親の非難めいた言葉。
「とりあえずどこでもいいから就職してよ。」
母親の幻影の言葉が続いた。
その言葉に、俺の心が折れそうになった。確かに俺は、両親に恥をかかせ続けている。
「私のゼミで一体何を学んだのか、君自身もよく分かっていないんじゃないか?」
教授の幻影も俺を追い詰める。
ふと見ると、エリスの目から涙が流れていた。彼女もまた、師匠と呼ぶ騎士の幻影から激しい攻撃を受けているようだった。
「剣の才能もない、勇気もない、お前に騎士は無理だ。」
騎士の幻影がエリスを追い詰める。
「私がお前を指導したのは時間の無駄だった。お前のような弟子を持った私の恥だ。」
エリスの瞳から涙が流れ落ちた。しかし、それは悲しみだけではなく、悔しさの涙でもあるように見えた。
部屋の空気がより重くなっていく。幻影たちの言葉は、俺たちの心を確実に蝕んでいた。このままでは、本当に心が折れてしまうかもしれない。
俺の頭の中では、面接官の言葉が繰り返されていた。確かに俺は、これといった特技も経験もない。そんな俺を採用してくれる会社なんて、本当にあるのだろうか。
エリスもまた、自分自身への疑いに苛まれているようだった。彼女の表情には、深い自己嫌悪が浮かんでいる。
しかし、そんな時、エリスがゆっくりと口を開いた。
「確かに、ボクは弱い騎士かもしれません。」
彼女の声は震えていたが、その中に何か新しいものが宿っていた。俺は驚いて彼女の方を見た。
「剣の才能もないかもしれません。勇気も足りないかもしれません。」
エリスが続ける。しかし、その声は次第に強くなっていった。
「でも、ボクには守りたいものがあります。」
エリスが俺の方を見た。その瞳には、恐怖と混乱の中にも、強い決意があった。
「この人を守るために、ボクは戦います。たとえ師匠にそれを否定されても。」
その言葉を聞いて、弱気になっていた俺の中にも何かが変わった。エリスの勇気が、俺にも勇気を与えてくれた。
そうだ。俺は一人ではない。守るべき人がいる。そして、その人も俺を守ろうとしてくれている。
「お前たちの言う通りかもしれない。」
俺は幻影たちに向かって言った。
「俺は確かに就職も決まってないし、大学で何を学んだかも明確じゃない。」
幻影たちが歪んだ笑みを浮かべる。しかし、俺はもう恐れていなかった。
「でも、今は…。」
俺の声は、次第に力強くなっていった。
「今は、俺一人じゃない。守るべき人がいる。」
俺はエリスの手を握った。甲冑の篭手越しでも、彼女の温もりが伝わってくる。
「俺たちは一緒に、この状況を乗り越える。お前たちの言葉に負けるつもりはない。」
その瞬間、幻影たちの輪郭がぼやけ始めた。俺たちの意志の強さが、幻影の力を弱めているのだ。
「ボクも……ボクも同じです。」
エリスが剣を構えた。その剣には、再び強い光が宿っていた。
「ボクは弱い騎士かもしれませんが、この人のためなら、どんな敵とでも戦います。たとえそれが師匠の幻影であっても。」
剣の光が再び強くなった。エリスの決意が、剣に力を与えているのだろう。
「師匠が私を否定するなら、それはもう師匠ではありません。本当の師匠なら、私がこの人を守ろうとすることを理解してくれるはずです。」
エリスの言葉に、師匠の幻影が動揺したように見えた。
「お前は私の教えを忘れたのか?」
師匠の幻影が言う。
「いえ、覚えています。『騎士の真の強さは、守るべきものがあるときに発揮される』と教えていただきました。」
エリスの答えに、師匠の幻影の形がより曖昧になった。
「今のボクには、守るべき人がいます。だから、ボクは強くなれるんです。」
その時、俺も改めて幻影たちに向き合った。
「お前たちが俺を批判するのは勝手だ。でも、俺にはもう迷いはない。」
俺の声は確信に満ちていた。
「俺は自分の道を歩く。そして、大切な人を守り抜く。それが俺の選んだ生き方だ。」
面接官の幻影が苦しそうな表情を見せた。
俺とエリスの意志の強さが、幻影たちの力を確実に削いでいた。
幻影たちは徐々に薄くなり、その輪郭も曖昧になっていく。俺たちの心の成長が、幻影という不安の呪縛を打ち破ろうとしていた。
「師匠、ありがとうございました。師匠の教えがあったからこそ、今のボクがあります。でも、ボクはもう師匠を超えて、自分の道を歩きます。」
エリスも師匠の幻影に向かって言った。
その言葉と共に、幻影たちは完全に消失した。まるで最初からそこにいなかったかのように、跡形もなく消え去った。
部屋には再び静寂が戻ってきた。蛍光灯の明かりも元の明るさに戻り、異様な雰囲気も消えていた。
「辛かったですね……」
エリスが俺を見上げて言った。その瞳にはまだ涙の跡があったが、同時に安堵の色も浮かんでいた。
「ああ。でも、君がいてくれたから乗り越えられた。」
「ボクもです。一人だったら、きっと幻影に負けてしまっていました。」
俺たちは互いに支え合いながら、部屋の奥へと向かった。この体験を通じて、俺たちの絆はより強固なものになった気がする。
幻影が消えると同時に、部屋の奥にもう一つの扉が現れていた。
さっきまではそこに壁があったはずなのに、今はしっかりとした扉がある。
「あそこに扉が……」
エリスが指差した。
「さっきまでなかったのに。幻影を倒したから現れたのかもしれない。」
俺たちはその扉に向かった。扉は重厚な木製で、表面には古い文様が刻まれている。
「行きましょう。」
エリスが俺の手を握りしめて言った。
「ああ。もう俺たちには迷いはない。」
扉を開けると、そこには石造りの螺旋階段があった。古い城にあるような、重厚な石の階段だった。階段は上に向かって伸びており、五階へと続いているようだった。
階段を発見した時、建物全体が激しく振動し始めた。上階からの振動が、石の階段にも伝わってくる。
「何だ?」
「上から……何か聞こえます。」
エリスが天井を見上げた。確かに、五階から異様な唸り声のようなものが響いている。しかし、それは人間の声ではない。もっと原始的で、この世のものとは思えない音だった。
「がががっががっががっ……」
その得体も知れない音。その唸り声が建物全体を震わせる。まるで巨大な野獣が苦悶しているかのような音だった。
床が小刻みに震え、天井からは石の欠片がパラパラと落ちてくる。階段の石材も古く、ところどころにひびが入っているのが見えた。
「上の階に……何かいますね。」
「ああ。そうだな。おそらく、そいつを倒さないとここから出られないのだろう。」
俺の推測にエリスも頷く。そして、俺たちはその階段を上り始めた。
石の階段は冷たく、一歩一歩踏みしめるたびに重い音が響いた。階段は螺旋状になっており、どこまで続いているのか分からない。
階段を上るにつれて、唸り声はより鮮明になっていった。それは確実に生き物の声だった。しかし、どんな生き物が、こんな恐ろしい声を出すのだろうか。
壁面には古い石材が使われており、まるで中世の城の中にいるような感覚だった。この階段自体が、この建物の元々の構造ではないのかもしれない。
十分ほど上ったところで、階段が終わりに近づいているのが分かった。上方に扉のようなものが見えてくる。
「もうすぐ五階ですね。」
エリスが言った。しかし、その声には緊張が含まれていた。
「この建物を支配する何かとの、最終的な対決が待っている。」
その予感に、俺たちの心は引き締まった。
しかし、もう俺は一人ではない。エリスという心強い仲間がいる。そして彼女も、俺がいることで勇気を持つことができる。
心の幻影との対峙を乗り越えた俺たちには、もう恐れるものはない。どんな強大な敵が待っていようとも、俺たちは一緒に戦い抜く。
俺たちは手を取り合いながら、最後の段を上り切った。扉の前に立つと、唸り声がより一層大きく聞こえてくる。
この先には何かがある。
その予感をもとに、五階への扉を開いた。