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第四話

 四階に足を踏み入れた瞬間、異様な静寂が俺たちを迎えた。

 これまでの階とは明らかに空気の質が違っている。重苦しく、まるで何かが俺たちを監視しているような気配があった。


 ヘッドライトの明かりが照らし出すフロアは、他の階よりも広く感じられた。天井が高く、廊下の幅も広い。壁面には剥がれかけたクロスが不規則に垂れ下がり、床には埃が厚く積もっている。

 所々に散乱したオフィス用品が、かつてここが普通のオフィスフロアだったことを物語っていた。しかし、その中に混じって、説明のつかない奇妙な物体も転がっている。


「ここは……他の階とは違いますね。」


 エリスが不安そうに呟いた。彼女の剣の光も、なぜか以前より弱くなっているように見える。まるで何かに吸収されているかのようだった。


「ああ。何か嫌な予感がする。」


 俺は周囲を警戒しながら答えた。この階には、これまでとは質の異なる危険が潜んでいる気がしてならない。


 俺たちは慎重に廊下を進んだ。足音は埃に吸収されて、妙にこもった音になる。エリスの甲冑がかすかに鳴る金属音だけが、静寂を破っていた。


 通路の両側には、オフィスの扉が並んでいる。そのほとんどが半開きになっており、中からは湿った空気が流れ出してきていた。俺がヘッドライトで中を覗いてみると、机や椅子が無造作に散らばっているのが見えた。しかし、その配置には何か不自然なものがあった。


「あの部屋……」


 エリスが指差した部屋の中で、机が円形に並べられていた。まるで何かの儀式でも行われたかのような配置だった。その中央には、説明のつかない黒い染みが床に広がっている。


「近づかない方がいいな。」


 俺はエリスの手を引いて、その部屋から離れた。しかし、歩を進めるにつれて、他の部屋も同様に奇怪な配置になっていることが分かった。


 そんな時、通路の向こうから、かすかな音が聞こえてきた。

 最初は風の音かと思った。しかし、よく耳を澄ませると、それは風ではない。何かが動いている音だった。


「何か来ます……」


 エリスが俺の袖を引いた。彼女の表情に緊張が走る。

 音は徐々に大きくなってきた。最初は小さく、遠くからの音だった。しかし、徐々にその音は大きくなり、明らかに俺たちの方向に近づいてきている。


「ブーーーン……」


 それは虫の羽音だった。


 しかし、普通の虫の音ではない。もっと大きく、もっと重々しい音だった。空気を切り裂くような、不快な音響が廊下に反響する。一匹の羽音ではない。複数の羽音が重なり合っているようだった。


「虫……?」


 エリスの声が震えていた。彼女の顔は一瞬で青ざめ、体全体が硬直している。剣を握る手も、わずかに震え始めていた。


「でかい虫の音だな……」


 羽音はどんどん近づいてくる。その音は単調ではなく、複数の羽音が重なり合っているようだった。まるで大群で移動しているかのような、不気味な迫力があった。

 と同時に、床を這う音も聞こえ始めた。カサカサという乾いた音が、羽音に混じって響いてくる。それは無数の足が床を叩く音のようだった。


「来ます……たくさん……」


 エリスの声はもうほとんど聞こえないほど小さくなっていた。


 そして、通路の向こうから現れたのは――。

 巨大な昆虫だった。


 最初に姿を現したのは一匹だけだったが、その大きさに俺は言葉を失った。ゴキブリのような形状をしているが、その大きさは手のひらよりもはるかに大きい。体長は三十センチはあろうかという、常識を超えた大きさだった。

 茶褐色で光沢のある外殻は、ヘッドライトの明かりに照らされて不気味に輝いている。その表面には細かな凹凸があり、まるで古い革のような質感を持っていた。長い触角がゆらゆらと動き、まるで俺たちの存在を探っているかのようだった。


 六本の足は針のように鋭く、先端には鋭利な爪のような突起があった。それがカチカチと音を立てながら床を叩いている。その音は金属的で、コンクリートの床に小さな傷をつけているようだった。


 最も恐ろしいのは、その複眼だった。暗闇の中で赤く光り、まるで血のような色をしている。その眼が俺たちを捉えると、触角をより激しく震わせ始めた。

 全身からは鼻を突くような異臭が立ち上っていた。甘ったるく、どこか腐敗したような匂いが廊下に充満し始める。その匂いを嗅いだだけで、胃の奥がムカムカしてきた。


 そして、それは一匹ではなかった。


 二匹、三匹……次々と通路の奥から現れてくる巨大な虫たち。その数は十匹を超え、やがて数え切れないほどの大群となった。

 通路を埋め尽くすほどの虫たちが、羽音を響かせながら俺たちに向かってくる。羽音が重なり合って、耳をつんざくような騒音となる。その音は単なる不快さを超えて、恐怖そのものを呼び起こすものだった。

 虫たちの中には、地面を這うものもいれば、壁面を這うものもいた。さらに恐ろしいことに、一部の虫は翅を広げて宙に浮いていた。その翅は透明で、血管のような模様が走っている。


「きゃああああ!」


 エリスが悲鳴を上げた。彼女は剣を持つ手を激しく震わせながら、後ずさりしている。あれほど勇敢に怪物と戦った彼女が、完全に動けなくなっていた。

 美しい顔は真っ青になり、青い瞳には恐怖の涙が浮かんでいる。全身がガタガタと震え、まるで幼い子供のように怯えていた。


「だめ……だめです……虫だけは……」


 彼女の声は震えており、今にも気を失いそうだった。騎士としての勇気も、巨大な虫を前にしては通用しないようだった。


 確かに虫は俺も苦手だ。特にこれほど巨大な虫となると、本能的な嫌悪感を覚える。しかし、エリスほどではない。彼女の恐怖は、明らかに俺のそれを上回っていた。

 先頭の虫が俺たちに向かって動き始めた。その動きは予想以上に素早く、六本の足を巧みに使って床を駆けてくる。触角を前方に向け、明らかに俺たちを獲物として認識していた。

 その中の一匹が羽ばたきながら空中に舞い上がった。翅音は他の虫よりもさらに大きく、まるで小型ヘリコプターのようだった。俺たちの頭上を飛び回り、その羽音は耳をつんざくような大音量で響く。


 虫の巨体が作り出す風圧で、エリスの髪が激しく乱れた。彼女は両手で頭を覆い、さらに小さく身を縮めた。

 空中を飛ぶ虫の腹部は膨らんでおり、そこから粘液のような液体が滴り落ちてくる。その液体が床に落ちると、ジュウジュウと音を立てて煙が上がった。強い酸性の液体のようだった。


「エリス!」


 俺は彼女の手を引いて、来た道を戻ろうとした。しかし、振り返ると、そちらからも虫たちが現れていた。俺たちは完全に囲まれてしまった。

 エリスは虫への恐怖で足がすくんでいる。俺が手を引いても、全く動こうとしない。


「だめ……動けません……」


 彼女は涙を浮かべながら、ガタガタと震えていた。美しい顔が恐怖で歪み、全身が恐怖に支配されている。これほど強い恐怖反応を示すエリスを見るのは初めてだった。


 巨大な虫たちがどんどん近づいてくる。床を這う音、羽ばたく音、触角を震わせる音……すべてが恐怖を煽る要素となって、エリスをさらに追い詰めていく。

 その時、最も大きな虫が俺たちの目の前まで迫ってきた。体長は他の虫よりもひと回り大きく、四十センチはありそうだった。その複眼が俺たちを見据え、大きな顎を開閉させている。

 顎の内側には鋭い牙のような突起があり、それで獲物を捕らえるのだろう。その牙からも、先ほどと同じような粘液が滴り落ちていた。床に落ちた粘液からは、白い煙が立ち上っている。


「ブーーーーン!」


 空中の虫が急降下してきた。俺は咄嗟にエリスを庇って身をかがめる。虫の鋭い足が俺の背中をかすめていき、服が裂ける音がした。もし避けるのがもう少し遅れていれば、確実に傷を負っていただろう。

 地上を這う虫たちも、次々と俺たちに迫ってくる。その足音はカチカチと響き、まるで無数の爪が床を引っ掻いているようだった。触角を激しく震わせながら、俺たちの位置を正確に把握しているようだった。

 最前列の虫が、ついに俺の足元まで到達した。その虫は後ろ足で立ち上がり、前足を振り上げている。鋭い爪が俺の足首を狙っていた。


「エリス、君の剣だ!」


 俺は彼女に呼びかけた。このままでは、俺たちは虫の大群に囲まれてしまう。


「剣の光で追い払えるかもしれない!」

「で、でも……怖くて……手が震えて……」


 エリスの手は激しく震えており、剣をまともに構えることもできないようだった。


 しかし、虫たちはもう俺たちの目の前まで迫っていた。逃げる場所もない。このままでは、本当に危険だった。

 俺は意を決して、最も近くにいた虫を蹴飛ばした。虫は数メートル後ろに吹き飛んだが、すぐに起き上がってまた向かってくる。他の虫たちも、俺の行動に刺激されて、より激しく迫ってきた。

 その時、俺たちを取り囲んだ虫たちを見て、エリスの表情が変わった。恐怖に支配されそうになりながらも、その瞳の奥に何かが点った。


「あなたを守らなきゃ……」


 震える手で剣を構えた。それは不安定で、剣先も揺れていたが、確実に剣を抜いていた。

 刀身が光を放ち始める。いつもより弱い光だったが、それでもエリスの美しい顔を照らし、決意の強さを際立たせた。

 光に照らされた虫たちが、わずかに後退した。光を嫌っているようだった。特に先頭にいた大きな虫は、明らかに光から距離を置こうとしていた。


「やった!効いてる!」


 俺は希望を感じた。エリスの剣の光が、これらの化け物にも有効なのだ。


「で、でも……気持ち悪い……です……」


 エリスは剣を構えながらも、虫への恐怖で身動きが取れないようだった。顔は青ざめたままで、呼吸も浅くなっている。

 虫たちは光を警戒しているものの、完全に諦めたわけではない。光の届かない位置で、俺たちの隙を窺っているようだった。

 空中を飛んでいた虫が、エリスの頭上に回り込もうとした。光の死角から攻撃を仕掛けようとしているのだ。


「上だ!」


 俺が叫ぶと、エリスは反射的に剣を上に向けた。光が虫を照らし、虫は苦悶するように身をよじらせて地面に墜落した。


「エリス!絶対大丈夫だ、その剣の光で虫は近づけない!」


 俺が励ます。この状況で彼女を支えられるのは、俺だけだった。


「頑張って!君なら絶対にできる!」

「は、はい!」


 彼女が勇気を振り絞って剣を振い始めた。最初はぎこちない動きだったが、徐々に騎士としての技術が戻ってきた。

 光の軌跡が虫たちを払いのける。虫たちは光に怯えて、次々と通路の奥へ逃げ込んでいく。特に空中を飛んでいた虫は、光に触れると激しく身もだえして、地面に墜落した。そのまま這うようにして、暗闇の中へと消えていく。


 しかし、まだ多くの虫が残っていた。エリスの剣の光だけでは、すべてを追い払うことはできない。

 その時、俺は気づいた。虫たちは光を嫌うが、完全に光を避けているわけではない。光の強さによって、反応が違うのだ。


「エリス、もっと強い光を!」


 俺が叫ぶと、エリスは歯を食いしばって剣に意識を集中した。すると、剣の光がより強くなった。それまでとは比較にならないほど明るい光が、廊下を照らし出す。

 強い光に照らされた虫たちは、まるで火に焼かれたかのように激しく身をよじらせた。そして、次々と逃げ始めた。壁を這って天井に逃げるもの、床の隙間に潜り込むもの、来た道を全速力で戻っていくもの。


 数分間にわたる攻防の末、ついに最後の一匹が姿を消した。

 やがて、羽音も聞こえなくなった。廊下には再び静寂が戻ってきた。


「やりました……」


 エリスがへたり込んだ。恐怖と戦いで力を使い果たしてしまったようだった。剣を持つ手も、まだかすかに震えている。


「よく頑張った。」


 俺は彼女に手を差し伸べた。エリスの額には汗が浮かんでおり、相当な恐怖と戦ったことが窺えた。


「虫が苦手だったんですね。」

「はい……子供の頃から……」


 彼女は恥ずかしそうに頷いた。その表情には幼い頃の記憶が浮かんでいるようだった。


「エルタリアでも、虫は苦手で……特に大きな虫は……昔、森で迷った時に、大きな蜘蛛に襲われて……それ以来……」


 エリスの声は小さくなっていく。きっと、辛い思い出なのだろう。


「でも、君はそれでも剣を抜いた。それは立派な騎士の行動だ。」

「でも、あなたがいてくれたから……」

「君の勇気があったからだ。俺は何もできなかった。」


 俺はエリスを支えて立ち上がらせた。甲冑に包まれた彼女の体は軽く、守ってあげたいという気持ちが強くなる。


「ありがとうございます……」


 彼女は涙を拭いながら微笑んだ。その笑顔には、確かな感謝の気持ちが込められていた。疲労の中にも、安堵の表情が浮かんでいる。

 俺たちは虫たちが逃げた方向とは反対の通路を進むことにした。しかし、しばらく歩いても、五階への階段は見つからなかった。


「おかしいな……階段があるはずなんだが……」


 俺がヘッドライトで周囲を照らしながら呟く。


「あの……」


 エリスが俺の袖を引いた。


「あそこに、何かあります。」


 彼女が指差す方向を見ると、廊下の突き当たりに扉があった。その扉は他の扉とは明らかに違っていた。黒い木材で作られており、表面には複雑な彫刻が施されている。


「あの扉……普通じゃありませんね。」

「ああ。でも、他に行く場所がない。」


 俺たちはその扉に近づいた。扉の彫刻をよく見ると、それは古代文字のようなものだった。意味は分からないが、何か重要なことが書かれているような気がする。

 扉には取っ手がついていたが、それも普通の取っ手ではない。金属製で、まるで蛇のような形をしていた。


「開けてみますか?」


 エリスが不安そうに尋ねる。


「他に選択肢がないからな。」


 俺は扉の取っ手に手をかけた。冷たい金属の感触が手のひらに伝わってきた。


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