第三話
三階に足を踏み入れた瞬間、俺は息を止めた。
目の前に広がる光景は、悪夢そのものだった。壁という壁から、まるで血管が破れたかのように、赤黒い液体がじわじわと滲み出している。
最初は小さな染みのようだった。しかし、見ているうちに、その染みが次第に大きくなり、やがて液体となって壁を伝い始める。
粘りけのあるその液体は、重力に従いながらも妙にゆっくりと流れ落ちていく。まるで意志を持っているかのように、不規則な軌道を描きながら床へと向かっていた。
やがて床には、いくつもの不気味な水溜りができ上がっていく。
「これは……何なんでしょう……」
エリスの声が、いつもより高い音域で響いた。俺が振り返ると、彼女の美しい顔が青ざめていた。
大きな青い瞳が見開かれ、小さな唇がわずかに開いている。その表情は、純粋な恐怖そのものだった。甲冑に包まれた小さな肩が、小刻みに上下している。
「分からない。でも、近づかない方がいいだろうな。」
俺は努めて冷静に答えたが、内心では不安が膨れ上がっていた。
この赤い液体は、一見すると血のように見える。しかし、血特有の鉄臭い匂いは全くしない。代わりに鼻を突くのは、甘ったるく、どこか腐敗したような異臭だった。
その匂いを嗅いだだけで、胃の奥がむかついた。
俺たちは慎重に、赤い液体を避けながら歩を進めた。エリスは俺の袖を軽く握り、足を運ぶたびに甲冑が軽やかな音を立てる。
恐怖の中でも、彼女の動きには騎士としての品格が失われていない。背筋を伸ばし、頭を上げて前を見据える姿勢は、訓練の賜物だろう。
ただ、時折振り返る彼女の横顔には、明らかな動揺が見て取れた。
しかし、歩けば歩くほど、状況は悪化していく。
液体の量は、時間と共に明らかに増加していた。最初は壁の一部だけだったものが、今では三階フロア全体の壁から滲み出している。
床に流れる赤い液体は、もはや小川のようになっていた。それらが俺たちの足元を脅かし、安全な通路を探すのが困難になってくる。
さらに恐ろしいことに、気がつくと床の各所に、原因不明の腐食跡が広がっていた。
まるで強力な酸がこぼれたかのように、コンクリートが溶けて穴が開いている。その穴は大小様々で、小さなものは拳ほど、大きなものは人が落ちてもおかしくないほどの大きさだった。
俺はヘッドライトを穴の一つに向けてみた。しかし、底は深く、光でも見通すことができない。
「床が……溶けてる……」
俺は愕然とした。こんな現象が自然に起こるはずがない。
一体、この建物で何が起きているのか。
そんな俺の不安を察したかのように、エリスの手にしている剣の光が、より一層強くなっていた。まるで周囲の異常な現象に反応しているかのようだ。
「剣が……暖かくなってきました。」
エリスが剣を見つめながら言った。篭手に包まれた彼女の手には、剣から伝わる温かさが感じられているようだった。
彼女の声には、困惑と共にかすかな安堵も混じっている。この異常な状況の中で、唯一頼りになるものが反応してくれていることに、希望を見出しているのかもしれない。
「この光があるから、何とか歩けるんだ。君の剣に感謝しないと。」
「でも、どうして光るのか、ボクにも分からないんです……」
エリスの表情には、自分でも理解できない力への戸惑いが浮かんでいた。
そんな時、建物のどこからともなく、今まで聞いたことのない不可解な音が聞こえてきた。
「ズルズル……ズルズル……」
何かが床を這いずり回るような音だった。
しかし、不思議なことに、音の発生源を特定することができない。まるで建物全体から発せられているようで、上からも下からも、左右からも聞こえてくる。
俺は立ち止まって、耳を澄ませた。
音は一定のリズムを刻んでいる。まるで巨大な生き物が、ゆっくりと這い回っているかのような規則性があった。
「何の音でしょう……」
エリスが俺の腕にしがみついた。甲冑越しでも、彼女の体が小刻みに動いているのが伝わってくる。
小さな体躯が恐怖で硬直している様子が、俺に保護欲を抱かせる。彼女を守らなければならない、という責任感が胸の奥で熱くなった。
「分からない。でも、ここに長居は無用だ。」
俺たちは急いで四階への階段を探した。
しかし、赤い液体と腐食跡に阻まれて、思うように前進できない。安全な足場を選びながら進むため、歩みは遅々としたものになる。
エリスは慎重に歩いているが、時折足を滑らせそうになる。その度に俺が彼女の手を引いて支える。甲冑を着ているとはいえ、彼女の体は軽く、まるで人形のようだった。
彼女の華奢さが、この異常な状況の中でより一層際立って見える。
そんな時、階段の踊り場で、俺たちはそれと遭遇した。
最初、俺には何が現れたのか理解できなかった。
人間のような輪郭を持ちながら、その実体は曖昧でぼやけている。まるで周囲の環境と同化するかのように、人のような体の輪郭を揺らめきさせながら、ゆっくりとこちらに近づいて来ている。
顔があるべき場所には、ただ深い闇があるだけ。
しかし最も恐ろしいのは、その存在から発せられる圧倒的な悪意だった。言葉では表現できない、純粋な憎悪のようなものが、空気を通して俺の肌に突き刺さってくる。
俺の全身に鳥肌が立った。
「あ、あれ!」
エリスが叫んだ。しかし、彼女は剣を構えることを忘れない。
きっと、彼女の騎士としての本能が、恐怖を上回っているのだろう。茶色の髪が汗で額にへばりつき、それでも青い瞳には決意の炎があった。
動く手で剣を握りしめる姿は、勇敢でありながらも儚げだった。
異形の存在は音もなく俺たちに接近してきた。その動きには生物らしい重量感がなく、この世のものではない何かが無理やり形を保っているかのようだった。
歩いているのか、浮いているのか、判別がつかない。
「やああぁぁ!」
エリスが居合切りを放った。
彼女の剣技は美しく、光る刀身が弧を描いて怪物に向かう。その軌跡は確実で、騎士見習いとしての訓練の成果が窺えた。
しかし、怪物の力は圧倒的だった。
エリスの剣の光も、怪物には大きなダメージを与えることができていない。光が怪物に触れると、わずかに身をよじらせるが、それだけだった。
相手が悪すぎる。
「きゃっ!」
カウンターで、エリスは怪物の触手のような攻撃を受けた。
俺には詳細は見えなかったが、何かがエリスを直撃し、彼女は壁に叩きつけられた。甲冑が金属的な音を立てて壁にぶつかり、エリスの小さな体が衝撃でたわむ。
「エリス!」
俺は彼女のもとに駆け寄った。
甲冑のおかげで致命傷は免れたようだが、それでもダメージを受けているのは明らかだった。彼女の顔は苦痛に歪み、呼吸も荒い。
それでも彼女は剣を手放さず、立ち上がろうとしている。
「大丈夫ですか?」
「はい……まだ戦えます。」
エリスの声には、まだ諦めない強さがあった。
しかし、彼女が立ち上がろうとした時、怪物の触手が再び襲いかかってきた。今度は俺を狙っている。
絶体絶命の瞬間、エリスが俺の前に立ちはだかった。
「させません!」
彼女の剣が触手を受け止めた。
金属と何かが激突する音が響く。しかし、怪物の力は強大で、エリスは押し負けそうになる。
彼女の足が後ろに滑り、体勢が崩れそうになった。
その時だった。
エリスの剣が、今まで見たことのない強烈な光を放ち始めた。
「これは……」
剣に宿る異世界の力が、真に覚醒したように見えた。
光は単なる明るさではない。生命力そのもののような暖かさと強さを持っている。その光に照らされると、俺の心にも勇気が湧いてくる。
エリスの動きも変わった。
今まで見せたことのない、流麗で力強い剣術を披露し始める。これが彼女本来の騎士としての実力なのだろう。
茶色の髪が光の中で舞い踊り、青い瞳が決意に燃えている。甲冑に身を包んだ彼女の姿は、まさに戦う女神のようだった。
「はあああ!」
光る剣が怪物の触手を切り裂いた。
「っずっっずっっ…。」
何か言いようのない低音で、怪物が苦悶の声を上げた。
その声は人間の耳には不快で、聞いているだけで頭痛がしてくる。
しかし、怪物も負けてはいない。残った触手を使って、より激しい攻撃を仕掛けてくる。エリス一人では対応しきれない。
俺は周囲を確認した。荒れ果てたこの部屋で武器になるようなもの――コンクリートの破片があった。
握り小ぶしよりも大きいくらいの大きさのそれ。
その周囲に落ちていたコンクリートの破片を拾った。
俺はそれを投げることにした。
おそらく効果的なダメージは与えられない。しかし、これで一瞬でも怪物の動きを止めることができれば、エリスに反撃の機会を与えられるはずだ。
「エリス!」
俺は怪物に投げてそう言った。
エリスは俺の様子を見ていたようで、彼女は渾身の一撃を放った。
「はぁぁぁ!」
彼女の斬撃が怪物を襲った。
その光る剣が怪物の中央部を貫く。剣の軌跡が光の帯となって残り、美しくも恐ろしい光景だった。
「ぉぉおぉぉおおぉぉ!」
怪物が絶叫した。
しかし、まだ完全に倒されたわけではない。最後の力を振り絞って、俺たちに襲いかかってくる。
エリスは既に力を使い果たしており、次の攻撃を受け止めることができない。
怪物の巨大な腕のようなものが、彼女に向かって振り下ろされる。
俺は迷わずエリスの前に飛び出した。
「危ない!」
怪物の攻撃が俺を直撃した。
全身に激痛が走り、俺は床に倒れ込んだ。意識が遠のきそうになる。
「だめええええ!」
エリスが叫んだ。
その声には、今まで聞いたことのない激情が込められている。彼女の剣の光が、さらに強烈になった。
もはや光というよりも、太陽のような輝きを放っていた。エリスの美しい顔は光に照らされ、神々しいまでの美しさを見せていた。
「あなたを傷つける者は……絶対に許しません!」
エリスが最後の力を振り絞って立ち上がった。
恐怖も痛みも全て乗り越えて、純粋な怒りと守護の意志だけで動いているかのようだった。
光る剣が怪物の頭部を真っ二つに切り裂いた。
「ぉぉぉおおぉぉぉお……」
怪物の最後の唸り声が響き、巨体がゆっくりと崩れ落ちる。
そして、初めから存在していなかったかのように一瞬で消え去った。
「はあ、はあ、はあ……」
エリスが膝をついた。
本当にすべての力を使い果たしてしまったのだ。彼女の美しい顔は汗と疲労で紅潮しており、茶色の髪が額に張り付いている。
「エリス……」
俺も何とか起き上がって、彼女のもとに近づいた。
「大丈夫ですか?」
彼女が俺を心配そうに見つめる。青い瞳には涙が浮かんでおり、その表情は純粋な心配の色に満ちていた。
「ああ、何とか……君こそ、よく頑張った。」
「ボク……ボク、やりました……」
エリスの瞳に涙が浮かんでいる。今度は、達成感と安堵の涙だった。
「本当にありがとう。君がいなかったら……」
「いえ、ボクこそ……あなたがいたから、最後まで戦えました。」
俺たちは互いに支え合いながら立ち上がった。
しかし、安堵したのも束の間だった。
怪物を倒した直後から、建物全体に新たな異変が生じ始めたのだ。
最初に気づいたのは、壁の異変だった。
コンクリートの表面がゆっくりと波打ち始める。まるで水面に波紋が広がるように、壁面が柔らかく変形していく。
やがて、それは蠢きに変わった。
まるで生き物の内臓のように、ぐにゃぐにゃと形を変えながら、新たな空間を作り出していく。床も同様で、足元が不安定になっていく。
踏みしめるたびに、弾力のある感触が足の裏に伝わってくる。
「建物が……変化してる……」
俺は愕然とした。
通路の配置が、目の前で完全に変わってしまった。さっきまで確実にあった道が消失し、代わりに新しい経路が生成されていく。
まるで巨大な生物の体内にいるかのような感覚だった。
天井の高さも変化しており、ある場所では圧迫感を感じるほど低く、別の場所では見上げても見えないほど高くなっている。
「もう、元の建物の面影は全くありませんね……」
エリスが呆然と呟いた。
彼女の青い瞳は疲労と驚愕で大きく見開かれている。さっきまでの戦いで消耗した体に、この新たな異常現象が追い打ちをかけている。
「ああ。もはや別の何かになってしまった。」
俺の言葉が周囲の空間に吸収されていった。
◇
俺たちは変化し続ける建物の中で、四階への道を探し続けた。
しかし、構造が絶えず変化するため、目標地点に到達するのは困難を極めた。
同じ場所を歩いているはずなのに、全く違う部屋に出てしまう現象も頻発している。
空間の法則が完全に破綻していた。
そんな中、俺たちは特に奇怪な部屋に迷い込んだ。
部屋の中央に、巨大な穴が開いていた。
その穴は円形で、直径は優に三メートルはあるだろう。縁は滑らかに削られており、人工的な印象を受ける。
しかし、最も不気味なのは、穴の周囲に刻まれた文様だった。
古代文字のようでもあり、まったく別の何かのようでもある。幾何学的な図形と、有機的な曲線が複雑に絡み合っている。
文様は微かに光っており、まるで脈動しているかのようだった。見ているだけで頭痛がしてくるような、不快な光り方だった。
「この穴……底が見えません。」
エリスがヘッドライトで穴の中を照らしてみた。
しかし、光は闇に吸い込まれるように消えてしまう。彼女の美しい顔に困惑の表情が浮かんでいた。
「深すぎる。まるで地の底まで続いているような……」
俺も穴を覗き込んでみた。
穴の縁に近づくと、下から冷たい風が吹き上げてくる。その風には、説明のつかない悪寒を誘う何かが含まれていた。
エリスの茶色の髪が風に靡き、甲冑が軽やかな音を立てる。
「ここは危険です。早く離れましょう。」
エリスの提案に俺も同意した。
この部屋には、近づいてはいけない何かがある。本能がそう告げていた。
俺たちは急いで部屋を後にした。
しかし、この部屋に入ってきたはずのドアを開いた瞬間、そこは全く別の場所だった。
「これは……」
目の前に広がっていたのは、天井と床が逆転したような奇妙な廊下だった。
「剣の光を頼りに進みましょう。」
エリスが提案した。
確かに、彼女の剣だけが、この狂った空間で唯一信頼できる存在だった。
剣の光が示す方向に向かって、俺たちは歩き続けた。時には天井を歩き、時には壁を伝って移動する。
重力の方向も定まっていない、混沌とした世界だった。
やがて、四階への通路らしき場所に到達した。




