第十二話
ホームに足を着けると、コンクリートの硬い感触が靴底に伝わってくる。
夜気は思ったより穏やかで、肌を刺すような冷たさは感じない。
空を見上げると、厚い雲が晴れ始めているのが分かった。さっきまでは完全な暗闇だったが、雲の切れ間から淡い月の光が差し込んでいる。
周囲を見回すと、駅は低い山々に囲まれた谷間にあることが分かった。月の光が草原をほのかに照らし、風に揺れる草木の様子が見えた。
しかし、動物や人の気配は全く感じられない。まったくの無音だった。いや、音がないことが聞こえていた。
「本当に何もありませんね。」
エリスが俺の隣で周囲を見渡しながら呟いた。彼女の声は小さく、夜の静寂に吸い込まれていく。
「この風景……ボクは、エルタリア王国の辺境の村を思い出します。」
エリスが懐かしそうに呟いた。
「辺境の村?」
「はい。騎士団の任務で、魔物の討伐に向かったことがあります。小さな村で、周りを山に囲まれていて……こんな静かな夜でした。」
エリスの話に、俺は彼女の故郷での生活を想像した。きっと、こんな田舎の風景は彼女にとって馴染み深いものなのだろう。
「でも、あの時は魔物がいました。ここは……本当に何もいませんね。」
雲が動いたのか、月の光が少しずつ強くなり、駅舎の輪郭がはっきりと見えてきた。
駅舎に近づいてみると、その簡素な造りがより明確になった。木造の小さな建物で、屋根は古い瓦が載っている。外壁のペンキは剥げかけており、長年の風雨にさらされた跡があった。
それでも、建物自体はしっかりしており、まだまだ使える状態のようだった。
入口を確認すると、扉が設置されていない。ただの開口部があるだけで、誰でも自由に出入りできる構造だった。
「へー。すごいですね。」
エリスが建物の構造に興味を示した。
「エルタリア王国の建物は、もっと厚い扉がついていました。盗賊や魔物の侵入を防ぐためです。」
「ああ、ここは田舎の無人駅だしな…。」
そんな説明をしていると、エリスは周囲をきょろきょろと見まわしていた。
俺も駅舎内を覗き込んでみると、待合室らしき空間が見えた。
そこは差し込む月の光だけが部屋の中を照らしていた。
「むむむ、あの券を売るような機械がありませんね。」
エリスが駅舎内を覗き込んで言った。
彼女は電車に乗る時に使った券売機のことを思い出しているようだった。
確かに、改札機も券売機も見当たらない。
エリスが知っている現代の設備は、俺の家の周辺、そして、今日体験したショッピングモールや駅での物だけだ。
その彼女が見ても、ここには近代的な設備が一切ないように見えるようだ。
月の光だけでは心ともないので、俺は電気のスイッチを探した。
そして、手探りでそれを見つけた。
「電気をつけるぞ。」
俺はそう言って、スイッチを押した。
すると、以外にも電気が付いた。古い蛍光灯が駅舎内でついた。
ハム音が周囲に響き渡りながら、周囲を白く照らし出した。
「おおっ!」
エリスが声を上げる。
「完全な無人駅だな。」
俺は駅の構造を見渡した。確かに古びてはいるが、田舎のローカル線なら珍しくない光景でもある。
待合室には古い長椅子がひとつ置かれているが、表面には埃が厚く積もっている。誰かが座った形跡は、ここ数か月はなさそうだった。
壁に貼られた観光ポスターは色褪せており、文字も判読できないほど退色していた。何が書かれていたのか、全く分からない状態だ。
そして、時刻表の掲示板があるが、そこは完全に空白になっている。電車の運行情報は何も表示されていない。まるで、この駅には電車が来ないかのようだった。
まあ、この状況自体が異常なのだから、常識で考えても仕方がないのかもしれない。
もはや、意味のあるようなものはないように見えた。
あるとすれば、駅の向こうから外に出ることだけだろうか。
しかし、その駅舎からの出口にあるのは漆黒の闇だった。
その闇は駅周辺を覆っているかのようで、すべての光を吸収しているかのように見えた。
この白い蛍光灯の明かりは駅舎とその周辺のホーム。そして、月の光は駅と線路沿いのみを照らしている。
そこから一歩でも先に出ると、光が無くなっていく。
そして、それから遠くにある草原と山々が見える。
つまり、ホームと外の境界であるフェンスの先にはまるで生き物かのような深い闇が逃がさないかのように待ち構えているのだ。
「ここから先には進みたくないな。」
俺は呟く。
エリスもじっと駅舎の出口を見た。
「そ、そうですね。この闇は…。」
エリスもそう言ってから続けた。
「あ、ケイイチさん。あの、先ほどの場所にあった魔道具の場所に行きましょう。」
「魔道具?」
「ええ、あの、緑のやつと、アイテムが買えるもの?ですか。」
そのエリスの独特の表現に俺は公衆電話と自動販売機のことを言っているのだ、と理解した。
「分かった、以降。」
俺たちは駅舎の出口で待ち構えるようにある闇から背を向けて、ホームへと戻ることにした。
そのまま、駅舎から出て、ホームの端まで歩いていく。
「あ!これ……使えそうです。」
エリスが何かを発見したようだった。彼女はホームで立ち止まり、足元を見つめていた。
彼女が指差した先には、錆びた鉄パイプが転がっていた。長さは一メートル程度で、おそらく工事現場から流れ着いたような代物だ。
表面には錆が浮いているが、まだ十分な強度がありそうだった。
エリスは鉄パイプを手に取って、重心を確認するように振ってみた。
「騎士の訓練で、様々な武器を扱いました。剣だけでなく、槍や棍棒の扱い方も学んでいます。これなら、剣の代わりになるかもしれません。」
彼女の動作には迷いがない。騎士見習いとしての経験が、新しい武器への適応を可能にしているようだった。
「時には、武器を選ぶ余裕がない時もありました。折れた剣の柄で戦ったり、拾った石を投げつけたり……」
エリスは実戦経験を語りながら、鉄パイプの扱いに慣れていく。
「これなら、十分戦えます。重さも長さも、片手剣に近いです。」
鉄パイプを数回振ってみて、彼女は満足したような表情を見せた。
「でも、剣のような切れ味はありませんから、打撃武器として使うことになりますね。」
「あの時だって、立派に戦ったんだ。大丈夫さ。」
俺の言葉に、エリスは少し自信を取り戻したようだった。
その時、遠くから太鼓を叩くような低い音が断続的に聞こえ始めた。
「何の音でしょう……」
エリスが鉄パイプを握りしめながら言った。低く重い音が断続的に鳴り、時折笛のような高い音が重なる。
音は祭囃子に似ているが、リズムや音程が、どこか調子外れな印象を与える。
「お祭りの音ですか?ここにもそんなものがあるんですね。」
エリスが首を傾げた。
「えっと、エルタリア王国にも、お祭りがありました。でも、もっと賑やかで楽しい音でした。でも、この音は……なんだか不気味です。」
「そうだな。こんな夜中にお祭りをやるのも変だし……」
俺は音の方向を特定しようと耳を澄ませたが、山々にこだまして正確な位置が掴めない。あちこちから聞こえてくるような錯覚さえ覚える。
「音がどこから聞こえているのか分からないですね。」
エリスも同じように困惑している。
「山に反射して、方向が分からなくなってるのかもしれない。」
「でも、確実にどこかから聞こえています。誰かがいる証拠ですね。」
エリスの指摘は的確だった。人がいない場所で、こんな音が鳴るはずはない。
「音が大きくなっていませんか。」
エリスの指摘通り、最初に聞こえた時よりも音量が増している。しかし、リズムは相変わらず不規則だった。
「近づいてきているのか、それとも音量が上がっているのか……」
「どちらにしても、警戒した方が良さそうですね。」
エリスは鉄パイプを構えながら言った。騎士としての本能が、危険を察知しているのかもしれない。
さらにホームを歩いていくと、そこには駅舎の壁面に設置された古い公衆電話と、飲料の自動販売機があった。
公衆電話は緑色の受話器が特徴的で、駅舎の外壁にしっかりと取り付けられていた。
透明なプラスチック製のカバーが電話機全体を覆っており、風雨から保護しているようだった。
「ケイイチさん、これは何の魔道具でしょうか?気になっていたんです!」
エリスが緑の公衆電話を不思議そうに見つめていた。
「電話だよ。遠くの人と会話ができるんだ。特にこれは、外に設置されている電話でお金を入れたらだれでも会話ができるんだ。」
「へー。テレパシーの魔法は、結構高位の魔法なんですけれどね…。むむむ…。」
エリスは何か遠くと会話ができる魔道具としてしか認識できないようだった。
それに、公衆電話の概念まで説明するのは難しい。なんていえばいいのだろうか?
けれど、そこで真剣な様子で考えているエリスの邪魔をするのもよくない気がした。
俺は、試しに受話器を取ってみた。
すると、意外にも何かの音が聞こえた。しかし、それは普通の電話の音ではない。
雑音に混じって、遠くの話し声のようなものが聞こえた。
複数の人が同時に話しているような、重なり合った声だった。内容は全く判別できないが、確実に人の声のようだった。
「もしもし?」
俺は試しに話しかけてみた。
すると、話し声が一瞬止んだ。
静寂が数秒続いた後、再び複数の声が聞こえ始めた。しかし、今度はより鮮明に聞こえる。
その声は、明らかに俺に向けて話しかけているようだった。しかし、言葉が理解できない。まるで外国語のようでもあり、全く知らない言語のようでもある。
時折、笑い声のようなものも混じるが、その笑い声は妙に空虚で、背筋が寒くなるような不気味さがあった。
「ケイイチさん、どなたかとお話ししているんですか?」
エリスが俺の隣で心配そうに尋ねた。
「分からない。声は聞こえるんだが、何を言っているのか全く分からない。」
俺は受話器を耳に当てたまま答えた。
声はどんどん大きくなり、複数の人が同時に話している状態から、一人の声が際立って聞こえるようになった。その声は男性のもののようだが、妙に高い音域で話している。
そして、その声がはっきりと俺の名前を呼んだような気がした。
「……ケイイチ……」
俺は受話器を持つ手が硬直した。確かに俺の名前を呼んだように聞こえた。
そして、そのまま複数の声が一斉に笑い始めた。
その笑い声は徐々に大きくなり、受話器から溢れ出すほどの音量になった。
俺は慌てて受話器を電話機に戻した。
しかし、受話器を置いてもそのスピーカーから笑い声は続いていた。まるで見えない人たちが俺を取り囲んで笑っているかのようだった。
「ケイイチさん!」
エリスが慌てて俺の腕を掴んだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。でも、この電話は普通じゃない。」
俺は急いで公衆電話から離れた。距離を置くと、笑い声は聞こえなくなった。
「何か聞こえていたんですか?」
「変な声が聞こえた。俺の名前を呼んでいるような……」
エリスの表情に心配の色が浮かんだ。
「やはり、普通ではない場所なんですね。」
俺は頷いて、自動販売機を確認した。商品の表示を見ると、俺でも見慣れない銘柄ばかりが並んでいる。
値段も現在より明らかに安く設定されており、昔の価格のようだった。硬貨の投入口は錆びており、ボタンも押せない状態になっている。
この自動販売機も、長い間使われていないことは明らかだった。
「これは……」
エリスが自動販売機を見て続けた。
「あっ!これ。お金を入れるとアイテムが出てくる機械仕掛けの宝箱ですね!」
エリスはこれまでのことから自動販売機を独特な表現で言い換えた。
「そうだな。でも、これは壊れてるみたいだ。」
「そうですか。確かに、なんか色がぼやけているというか。」
そんなことをエリスと話しているあいだにも、遠くから太鼓の音は相変わらず続いており、笛の音も時折混じっていた。
音は前方から聞こえているようだが、こだまによって音がどこから聞こえてきているのか不明瞭に思えた。
俺は改めて周囲を見回した。
駅を取り囲む山々の向こうは深い闇に包まれており、何も見通すことができない。山とその近くにある草原だけが見える。
そこには、月の光はあるものの、駅の周囲にある闇がすべてをこの付近一帯の全てを覆い隠していた。
そこに何があるのか、足を踏み外す危険がないのか、全く分からない状況だった。
「ケイイチさん、この鉄の道の先を見てください。」
エリスが線路の方向を指差した。
確かに、線路沿いは周囲よりもやや明るく見える。月の光がレールの金属面に反射して、微かな道筋を作り出していた。
周囲の闇のない個所を通っていくとすれば、この線路沿いしかない。
「もし、ここから先に進むなら、この道を進んだほうがいいかもしれません。」
エリスの指摘は的確だった。
どんなに古くても、この線路は目的地へと続いている。
「そうだな。それに、この駅で電車を待っていても、いつ来るのか分からない。」
俺は駅の時刻表を思い出して、続けた。
「進んだ方がいいかもしれない。」
俺はそう呟いた。それにエリスも同意するように頷いた。
俺たちは駅のホームから線路へと降りることにした。