第十一話
俺は意識をゆっくりと取り戻した。
最初に感じたのは、頭を何かに預けているという感覚だった。柔らかく、ほのかに甘い香りがする。どうやら電車の中で居眠りをしてしまい、エリスの肩に寄りかかってしまっているようだった。
電車の揺れが心地よく、まどろみの中で俺は安らぎを感じていた。買い物で疲れていたのか、それとも平穏な日常に安心していたのか。エリスの温もりが伝わってきて、このまま眠り続けていたい気持ちになる。
しかし、何かが違う。
電車の揺れ方が、さっきまでとは微妙に異なっていた。現代の電車特有の滑らかな走行音ではなく、もっと重々しく、金属同士がこすれ合うような音が混じっている。
レールを叩く音も、なぜか昔懐かしい響きがしていた。
慌てて頭を上げようとして、違和感に気がついた。
電車の内装が、さっきまでとは全く違っていた。
俺たちが乗った電車は、確か現代的な内装だったはずだ。つり革やステンレスの手すり、プラスチック製の座席に化学繊維の生地、LEDの蛍光灯。どこにでもあるような通勤電車だった。
しかし、今俺の目に映る光景は全く別のものだった。
床は木製の板張りで、長年の使用で擦り減った跡が無数についている。板と板の継ぎ目には小さな隙間があり、そこから下の機械音がかすかに漏れ聞こえてくる。
座席も布製で、茶色に退色した古いモケット生地が使われていた。座面や背もたれの端は摩耗しており、中の詰め物が少し出ている箇所もある。手触りは柔らかいが、どこか古めかしい感触だった。
その席の配置も微妙に異なっていた。さっきまでは横並びの長いシートだったが、今は向かい合わせのボックス席になっていた。
天井を見上げると、白い蛍光灯ではなく、オレンジがかった暖色系の照明が点いていた。その光は温かみがあるものの、どこか古い映画で見たような郷愁を誘う色合いだった。
車両の前方を見ると、運転席が見えた。これまで俺たちが乗っていた電車とは違い、この電車は一両編成のようだった。
そして、前には運転席があり、そこは仕切りではなく、低いパーティションで区切られているだけだった。
まるで昔の地方電車のような雰囲気だった。俺も詳しくはないが、昭和の時代に使われていたような古い車両に似ていた。
「あれ……?」
隣でエリスも目を覚ましたようだった。彼女はきょろきょろと周囲を見回している。
エリスの青い瞳には困惑の色が浮かんでいた。茶色い髪が少し寝癖でハネており、まだ完全に目覚めていない様子だった。
「ケイイチさん……この車両は……」
エリスの声には困惑がにじんでいた。彼女も明らかに状況の変化に気づいている。
先ほどまで乗っていた現代の電車しか知らない彼女にとって、この古い内装は理解できないことだろう。
なにせ、ショッピングモールから乗った時の車両とは、明らかに時代が違って見える。
「おかしいな……さっきまでと車両が違う。」
俺は周囲を見回しながら呟いた。
「車両が……違うんですか?」
エリスが首を傾げた。
「電車って、途中で車両が変わることもあるんですか?」
彼女の質問に、俺は言葉に詰まった。もちろん、通常の電車では、そんなことは起こりえない。
けれど、今の状態はまさしくそれだった。
「いや……普通はそんなことないんだ。」
俺は慌ててスマートフォンを取り出した。画面を見ると、電波のアイコンは圏外であることを示していた。
俺は画面を何度かタップしてみたが、状況は改善されない。
電源を切って入れ直してみても、同じように電波を掴むことはできなかった。
「その魔道具、調子が悪いんですか?」
エリスがスマートフォンを心配そうに見つめて言った。
彼女なりに現代の機械について理解を示そうとしているが、やはり魔法の道具として認識しているようだった。
「……まあ、そんなところかな。」
俺は苦笑いしながら答えた。
確かに、エリスにとってスマートフォンは魔法の道具以外の何物でもないだろう。
「でも、なぜ急に調子が悪くなったんでしょう?」
「分からない……しかし、こんな状況だしな。」
エリスの素朴な疑問に、俺は答えに困った。
「ケイイチさん、車内を見てください。」
エリスの指摘で、俺は改めて車内を見回した。
乗客が一人もいなかった。
さっきまでは、それなりに人が乗っていたはずだった。
午後の電車としては普通の光景だった。サラリーマンや学生、買い物帰りの主婦など、俺たちも含めて十数人の乗客がいた。
しかし今は、俺とエリスを除いて誰もいない。完全に空っぽの車内だった。
「みなさん、どこに行かれたんでしょう?」
エリスが不安そうに呟いた。彼女の声は小さく、車内に響く電車の走行音に吸い込まれていく。
「分からない……」
俺は記憶を辿ろうとした。しかし、眠ってしまっていたため、途中駅での停車について覚えていない。
「ボク、眠る前まではみなさんがいらしたのを覚えています。」
「そうだな。そもそも…。」
そう、俺たちが乗っている電車すら違うのだ。
そして、エリスを改めてみて、気が付いた。
「エリス、君の買った服は?」
エリスは慌てて周囲を見回した。膝の上にも、足元にも、座席の横にも、購入した服の袋は見当たらない。
「ああ、あれ……袋が……」
エリスの表情に困惑が浮かんだ。
「確かに持っていたはずなのに……どこに行ったんでしょう?」
「そういえば……」
つられて俺も慌ててポケットの中に入れていた財布や家の鍵を確認する。
しかし、それらもなくなっていた。
「これは……一体……」
俺は立ち上がって、車内を歩いてみた。
よくよく車両も確認したが、どう見ても乗客の姿はない。
そもそも、運転席に運転士の姿すらなかった。ワンマン電車特有の構造で、運転席は車両の先頭に設置されている。
しかし、そこには誰もいない。それなのに、電車は確実に動いている。
「運転士がいない……」
俺は愕然とした。どんな田舎の電車でも、必ず運転士は乗務しているはずだ。
無人で動く電車など、あり得ないだろう。
しかし、電車は確かに動いていた。
窓の外を見ると、景色が流れているのが分かった。
その景色は真っ暗で完全な暗闇が広がっていた。
「ケイイチさん、外が……」
エリスが窓を指差して言った。彼女の声に緊張が走っていた。
漆黒の闇が電車の外を支配している。
街の明かりも、車のヘッドライトも、街灯も何一つ見えない。まるで電車が深い闇の中を走っているかのようだった。
俺たちが乗った時は、まだ昼だった。
しかし今は、窓ガラスに映る車内の照明以外、何も見えない。
「こんなに暗いなんて……いつの間に夜になったんでしょうか?」
エリスが窓に顔を近づけて外を見つめた。
「でも、明かりが全く見えないのは変だ。どんなに田舎でも、何らかしらの明かりくらいはあるはずなんだが……」
俺も窓の外を見つめたが、本当に何も見えない。
月も星も見えず、ただ深い闇だけが広がっている。
「雲が厚くて月も見えないんでしょうか?」
エリスが不安そうに推測した。
「そうかもしれないが……それにしても不自然だ。」
電車の走行音も、さっきまでとは違っていた。現代の電車特有の滑らかな走行音ではなく、もっと重々しく機械的な音だった。
車輪がレールを叩く音も、一定のリズムを刻んでいるが、どこか郷愁を誘う響きがある。本当に昔の電車に乗っていることが実感できた。
電車は相変わらず暗闇の中を走り続けていた。
窓の外には何も見えず、時折電車が揺れると、電車特有のきしみ音が響く。
運転席からは、相変わらず人の気配がしない。計器類の明かりは点いているが、運転士の姿がないために不安になった。
「ケイイチさん……」
エリスが不安そうに俺を見上げた。彼女の青い瞳には明らかな動揺がある。
「今のボクには剣が……ありません。」
エリスは腰のあたりを手で確認していた。
確かに、エリスは俺のアパートで現代の服に着替える際、甲冑と一緒に剣も外していた。
まさかこんな状況になるとは思わなかったからだ。
「もし、何か危険なことが起きたら……ボク、あなたを守れません。」
エリスの声には自責の念が込められていた。
騎士としての誇りが、武器を持たない状況を受け入れ難くしているのだろう。
「大丈夫だよ、エリス。今は平和な電車の中だ。」
俺は彼女を安心させようとした。
ただ、そうは言いつつも、この異常な状況では、俺自身も不安を隠しきれていないかもしれない。
「でも、この状況は普通ではありません。あの出来事のように……」
エリスの指摘に、俺の心の中で警戒心が高まった。
確かに、あの廃墟での超常現象と似た不可解さがある。
「そう言われてみれば……」
俺は車内を改めて見回した。
古い内装、消えた乗客、消えた買い物袋、暗闇の外……どれも現実的ではない変化だった。
その時、電車は徐々に速度を落とし始めた。
ゆっくりとした減速で、停車駅が近いことを示していた。
「どこかに停まるようですね。」
エリスが安堵の息を吐いた。
「ああ。とりあえず、外の状況を確認できるかもしれない。」
やがて、前方に駅の明かりが見えてきた。
小さな駅のようだった。暖色系の照明が、周囲の暗闇の中で温かく光っている。
電車がホームに向かって減速を開始していた。
ブレーキ音が金切り声を上げ、特有の振動が車内に伝わってきた。
俺は窓から外の様子を確認した。ホームには誰もいない。
駅舎は木造の小さな建物で、いかにも地方の無人駅という佇まいだった。
駅名標が見えた。文字が書かれているが、俺には馴染みのない地名だった。
「『きさらぎ駅』……知らない駅だ。」
俺にはまったく聞き覚えのない駅名だった。この路線にそんな駅があっただろうか。
「きさらぎ……」
エリスも首をかしげている。
「ここも駅なんですか?」
エリスの言葉で、俺は彼女の立場を思い出した。
確かに異世界から来た彼女が、先ほどまでの都心に近い駅を見た後だと、この田舎らしい駅と同一には見えないのかもしれない。
「駅は駅なんだが……」
俺は記憶を辿ろうとした。しかし、どう考えてもこんな駅を通った覚えがない。
電車のドアが自動で開いた。
俺たちは席を立たなかった。この異常な状況で、安易に外に出るのは危険に思えた。
ホームは古いコンクリート製で、所々にひびが入っていて、そこから雑草が生えているのが見えた。
その田舎らしいホームの上には自動販売機と、緑の公衆電話、そして、ベンチが一つだけ置かれていた。
駅舎の待合室らしき部分の窓から見える駅舎内は真っ暗で、その中がよく見えない。
「誰もいませんね……」
エリスが外の様子を観察しながら言った。
「ああ。完全に無人駅のようだ。」
電車は停車したまま、扉を開けて待っている。
しかし、車内アナウンスもなければ、駅員の姿も見えない。
「どうしましょうか、ケイイチさん。」
エリスが俺に判断を委ねた。彼女の声には緊張が混じっている。
「とりあえず、様子を見よう。でも、何かおかしいことが起きているのは確かだ。」
俺はそう答えたが、内心では強い不安を感じていた。この状況は明らかに異常だった。
しばらく待ったが、電車は動く気配を見せない。このまま車内に留まっていても、状況が改善される見込みはなさそうだった。
駅の構造を詳しく観察してみると、確かに田舎の無人駅としては特別珍しくない光景でもある。ただ、俺たちがどうやってここに来たのかが分からない。
「エリス、君はどう思う?」
俺は彼女の意見を求めた。騎士見習いとしての彼女の直感は、しばしば的確だった。
「ケイイチさんと初めて会った場所での出来事と似ています。現実ではあり得ないことが起きている気がします。」
エリスの表情は真剣だった。
「でも、前回のように、きっと乗り越えられると思います。」
彼女の言葉に、俺は少し勇気をもらった。確かに、あの廃墟でも俺たちは協力して困難を乗り越えた。
「そうだな。」
「はい。それに……」
エリスは自分の膝の上を見つめた。購入した服の袋があったはずの場所を。
「今日、ケイイチさんと一緒に過ごした時間は、本当に幸せでした。買った服はなくなってしまったけれど、ケイイチさんと一緒なら…。」
彼女の純粋な言葉に、俺の心が温かくなった。
「ありがとう、エリス。俺も同じ気持ちだ。」
俺たちは手を握り合った。エリスの手は少し冷たくなっていたが、その温もりは確かにそこにあった。
「一度外に出てみよう。でも、何かあったらすぐに電車に戻ろう。」
「分かりました。ボクも、ケイイチさんから離れないようにします。」
俺たちは電車から降りることにした。