第一話
午前二時を回った頃だった。
俺はヘッドライトを額に装着し、郊外にある古い商業ビルの前に立っていた。
目的は廃墟の探索だ。
この目の前にある古い商業ビルは廃墟らしい雰囲気に満ち溢れていた。
五階建てのコンクリート造りの建物――それはもう何年も前から使われずにいる様子。
それが一見すれば理解できた。
外壁には茶色い錆が斑点状に浮き上がり、正面に掲げられた看板の文字も風雨にさらされて判読できないほど色褪せていた。
それでも建物の骨格自体はしっかりしているようで、倒壊の危険性は感じられなかった。
俺の額に装着したLEDヘッドライトは、俺が廃墟探索用に特別に選んだ高性能なものだ。
高輝度で電池の持ちも良く、頭の動きに合わせて自在に照射方向を変えられる。
何より両手が自由に使えるのが最大の利点だった。廃墟探索には欠かせない相棒と言えた。
ヘッドライトの明かりを頼りに建物の周囲を探索する。
というのも、建物の周囲には立入禁止の金網フェンスが張り巡らされていたからだ。
しかし、俺のような廃墟探索者にとって、それはさほど問題ではない。どこかに綻びが必ずあるからだ。
フェンス沿いに歩きながら、俺は周囲を注意深く観察していく。
月明かりが薄っすらと地面を照らし、アスファルトに生えた雑草の合間を縫って進む。やがて思った通りに綻びを発見した。それはフェンスの途切れた場所だった。
そこから敷地内に潜り込んだ。
大学生にもなって、こんな夜中に廃墟探索なんて、と思われるに違いない。
いや、どのように考えても、これは変わった趣味としかいえないだろう。でも俺にとって、静寂に包まれた廃墟を歩くのは、ほかに代えがたい非日常的な刺激を与えてくれるものだった。
そんなことを考えながら、周囲を探索していると、玄関のガラス扉が見えてきた。
そのエントランスへ続く、ガラス扉は既に割れており、簡単に中へ入ることが出来そうだった。
俺は建物の中に侵入した。
ヘッドライトの明るい光が一階のフロアを照らし出す。
かつてはオフィスビルだったようで、受付カウンターらしき設備が見えた。その床には埃が厚く積もり、天井の一部は黒く変色していた。
湿気と長年の放置により、空気には独特のカビ臭い匂いが立ち込めていた。
足音が床に響いた。
このような夜の静寂の中では、自分の息遣いさえ大きく聞こえる。これが廃墟探索の醍醐味の一つだった。
誰もいない空間で、時の流れに取り残されたものたちと静かに対話する。そんな特別な時間を俺は愛していた。
一階のフロアには特に変わったものは見当たらない。
オフィスの机や椅子が無造作に散乱し、壁には先行者たちによる落書きが残されている。
俺のような紳士な探索者ではなく、もっと質の悪い者たちの残置物だろう。
周囲の床に散らばった書類は既にぼろぼろになって、廃墟らしさを現していた。
そのまま、たっぷりと時間をかけて一階を探索した後、俺は階段に向かった。二階、三階と順番に見て回るつもりだった。
階段は鉄製で、踏むたびに金属特有の冷たい音が鳴る。手すりにも錆が浮いているが、まだ十分に使用に耐えそうだった。
一歩一歩慎重に足を運びながら、俺は上の階への期待を膨らませていた。
二階に足を踏み入れた瞬間、ヘッドライトに照らされた光景に驚いた。
床に人が倒れている。
慌てて近寄ると、それは若い女性だった。しかも、信じられないものを身に着けている。
甲冑だった。
中世の騎士が着用するような、本格的な鎧。胸当てや篭手、脛当てまで一式揃っている。
銀色に鈍く光る金属は、まるで本物のようにしか見えない。装飾は控えめだが、細部まで丁寧に作り込まれた機能的なデザインだった。
ヘッドライトの光で詳しく観察すると、甲冑の表面には細かな傷が無数についている。
それがリアリティを感じさせてしまう。まるで本当に実戦で使用されたもののように見えた。
こんな精巧なレプリカを作るには、相当な技術と費用が必要だろう。
こんな格好をした人が、なぜ廃ビルに倒れているのか。
もしかして、コスプレイヤーが撮影でもしていたのかもしれない。
でも、こんな夜中に一人で来るだろうか?それに、撮影機材らしきものは見当たらなかった。スマートフォンはおろか、照明器具も何一つない。明らかに何かがおかしい気がした。
「おい、大丈夫か?」
声をかけながら、そっと肩に手を置く。甲冑越しでも体温が感じられる。呼吸も安定している。外傷も見当たらない。
ただ意識を失っているだけのようだった。
少女はゆっくりと瞼を開いた。
大きな瞳が俺を見上げる。澄んだ青い瞳に、茶色がかった柔らかな髪が肩の辺りでふわりと広がっている。まるで子犬のような愛らしい顔立ちで、年齢は俺と同じくらいだろうか。
整った鼻筋と小さな唇が、幼さと美しさを同時に感じさせる。頬は桃色に染まり、長い睫毛が瞳の大きさを一層際立たせていた。
こんな美しい少女が、なぜこんな場所に?
「あ……あれ?」
彼女は身を起こそうとして、慌てたように辺りを見回した。その動作で甲冑が軽やかな金属音を立てる。
「ここは……どちらでしょうか?」
丁寧な敬語だった。その恰好とは正反対の地位である貴族の令嬢のような口調だった。
ただ、その声変わり前の男の子のような中性的な声質のせいなのか、どこか不思議と親しみやすさも感じられた。
「廃ビルの二階だ。君はなんでこんなところに?」
「廃ビル……? ボクは……えっと……」
彼女は困惑した表情で立ち上がろうとしたが、甲冑の重みでよろけてしまう。俺は慌てて支えた。
「無理するな。まだふらついてる。」
「ありがとうございます。でも、ボクは一体どうして……」
彼女の甲冑は何なんだ。近くで見ると、本当に精巧に作られている。
というか、これはもはや本物じゃないのかと思った。金属の質感、重量感、全てが本格的すぎる。
俺は彼女の青い瞳を見つめながら尋ねた。
「君の名前は?」
「エリス・フォルテです。騎士見習いの……」
そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせた。
慌てたように手で口を押さえる動作が、なんとも可愛らしい。
「騎士見習い?」
「あ、いえ、その……変なことを申し上げてしまって、申し訳ありません……」
エリスと名乗った少女は、恥ずかしそうに俯いた。
茶色の髪が頬にかかり、より一層愛らしく見える。頬の赤みが増して、まるで恥じらう乙女のようだった。
「別に変じゃないよ。それより、君はどうしてここに?」
「それが……よく覚えていないんです。気がついたら、ここに倒れていて……」
エリスは困った表情で小首を傾げた。その動作すら愛らしく、俺は思わず見とれてしまう。
「記憶がないのか?」
「はい……最後に覚えているのは、騎士団の訓練場で剣の稽古をしていたことです。それから先が……」
騎士団? まるでファンタジー小説のような話だ。
でも、彼女の真剣な表情を見ていると、嘘をついているようには思えない。
「君は外国の人? エリス・フォルテって名前も……」
「外国……? ボクはエルタリア王国の出身ですが……」
エルタリア王国。聞いたことのない国名だった。
もしかして、どこかの小さな国の出身なのだろうか。それとも、何かの創作世界の設定を本気で信じ込んでしまっているのか。
俺は彼女の様子を注意深く観察した。
甲冑の質感、彼女の話し方、そして何より真剣な表情。全てが本物のように思えるが、常識的に考えれば理解しがたい状況だった。
しかし、俺がそれ以上質問する前に、異変が起きた。
突然、建物全体が暗くなったのだ。
いや、正確には暗くなったというより、俺のヘッドライトの光が届く範囲が極端に狭まった。
さっきまで壁や天井まで照らせていたのに、今は足元から数メートル先までしか見えない。
まるで深い闇が建物内を包み込んだかのようだった。
「これは……」
エリスの声に恐怖が滲んでいた。
俺も不安になってきた。ヘッドライトは正常に動いている。電池残量も十分にあるはずだ。
それなのに、なぜ周囲に光が届かないのか。
まるで闇が生きているかのように、光を吸い込んでしまっているようだった。
俺は冷静さを保とうと努めながら、エリスに声をかけた。
「とりあえず、ここから出よう。」
俺はエリスの手を取った。甲冑の篭手越しでも、細く温かい手の感触が伝わってくる。彼女の手は小さくて、まるで子供のようだった。
「は、はい……」
エリスは頷いたが、その声は明らかに不安で満ちていた。
二人で階段に向かおうとしたが、すぐに異常に気づいた。階段が見つからない。さっき上がってきたばかりの階段のはずなのに、闇に阻まれて全く分からない。
ヘッドライトを左右に振っても、階段らしきものは見当たらない。それどころか、建物の構造自体が先ほどまでと違うように感じられた。
「おかしいな……確かにここから上がってきたはずなのに。」
俺は壁伝いに歩こうとした。
「あの……」
エリスの不安そうな声が聞こえる。
「なんだ?」
「窓の外を見てください。」
彼女が指差す方向にヘッドライトを向けた。確かに窓があった。しかし、そこから見えるのは――。
完全な闇だった。
街灯も、遠くの建物の明かりも、星も月も、何一つ見えない。まるで建物が異次元に飛ばされてしまったかのような、深い暗黒が窓の向こうに広がっている。
「これは……一体……」
俺はポケットからスマートフォンを取り出した。しかし画面には電波が届いていないアイコン表示が出ている。電波が全く届いていない。
「ボクたち、どうなってしまったんでしょう……」
エリスの声が小さくなっていく。
彼女は両手を胸の前で握りしめ、恐怖で青ざめた表情を浮かべていた。
大きな瞳に涙が滲んでいるのが、ヘッドライトの明かりで分かる。
その時、建物のどこからか、不可解な音が聞こえてきた。
「カサカサ……カサカサ……」
まるで何かが壁を這い回るような音。
複数の小さな何かが、同時に移動しているような、ざわめきを含んだ音だった。その音は徐々に近づいてきている。
「何の音でしょう……」
エリスが俺の腕にしがみついた。甲冑越しでも、彼女の体が小刻みに震えているのが伝わってきた。
音はより鮮明になってきた。
そして、壁の向こうから、天井の向こうから、床の下からも聞こえ始める。
「まずい……」
俺がそう呟いた瞬間、それらが現れた。
壁の角から、天井の隙間から、床の亀裂から。黒い細長いものが次々と這い出してくる。
それは人間の腕ほどの長さがあり、関節のない柔らかい肢体をくねくねと動かしながら移動していた。表面は湿ったような艶があり、触れることを本能的に拒否したくなるような質感が見えた。
一体、二体……いや、もう数え切れない。
無数の細長い黒いものが、まるで生きた縄のように床を這い、壁を這い、天井を這いながら俺たちに向かってくる。
「きゃあああ!」
エリスが小さく悲鳴を上げた。彼女は俺に抱きつくように身を寄せてくる。
甲冑の冷たい金属が俺の体に当たるが、その内側から伝わってくる体温と動揺が生々しく感じられた。
「大丈夫、俺がいる。」
俺はエリスを庇うように前に出て、ヘッドライトを黒い細長いものたちに向けた。
すると、光に照らされた部分のものたちが、まるで火に焼かれるように身をくねらせて後退した。
「光を嫌がってる……」
しかし、俺のヘッドライト一つでは、すべてを照らすことはできない。
光の届かない場所から、新たな黒いものたちが次々と現れてくる。
エリスは俺の後ろで小刻みに体を震わせていた。しかし、彼女はふと何かに気づいたように腰の剣に手をやった。
「この剣……」
彼女が剣を少し鞘から抜くと、刀身が微かに光を放った。月光のような青白い光だった。
「光ってる……」
その光は弱いものの、確実に闇を払っていた。
黒い細長いものたちが、剣の光を避けるように蠢いている。
「エリス、その剣を……」
「は、はい……」
彼女は震える手で剣を抜いた。刀身が放つ光が強くなり、周囲を淡く照らし出す。
黒い細長いものたちが、より激しく身をくねらせて後退していく。
しかし、完全に消え去るわけではない。光の届かない場所で機会を窺っているようだった。
「ボク……ボク、騎士見習いです。」
エリスがか細い声で呟いた。
「でも……怖いです……」
彼女の正直な告白だった。しかし、そう言いながらも剣を手放そうとはしない。
「一人じゃないから、大丈夫だ。」
俺はエリスの肩に手を置いた。
甲冑越しでも、その震えが少し和らいだのが分かった。
「あなたと一緒だから……ボク、頑張ります。」
彼女の声に、かすかな決意が込められていた。
剣の光とヘッドライトの光を合わせて、俺たちは黒い細長いものたちを徐々に押し返していく。光に触れたものたちは、苦悶するように身をよじらせながら壁の隙間や床の亀裂へと逃げ込んでいった。
やがて、最後の一体が天井の暗がりへと消えていく。
静寂が戻った。
「やりました……」
エリスが安堵の息を吐いた。
しかし、その体はまだかすかに震えていた。
「君の剣のおかげだ。」
「ボクの剣が……なぜ光るのか分からないんです……」
彼女は剣を見つめながら呟いた。刀身の光は戦闘が終わると弱くなったが、まだほのかに輝いている。
「でも……」
エリスが俺を見上げた。彼女の頬は恐怖で青ざめていたが、瞳には何か新しいものが宿っていた。
「あなたがいてくれたから……一人だったら、きっと……」
彼女は言葉を切った。しかし、その表情から伝わってくるものがあった。
俺もまた、エリスがいなければあの黒いものたちに襲われていただろう。彼女の剣の光がなければ、ヘッドライトだけでは対処できなかった。
「俺も君がいてくれて助かった。」
「本当ですか?」
「ああ。君は立派に戦ったんだ。」
エリスの表情が少しだけ明るくなった。
「ボク……騎士見習いですから。」
その言葉には、先ほどまでにはなかった確信が込められていた。
「怖いです……でも。」
彼女は剣を鞘に納めながら続けた。
「あなたをお守りします。」
その宣言には、紛れもない騎士としての誇りがあった。
恐怖に支配されそうになりながらも、彼女の内側で何かが変わり始めているのが分かった。
俺の胸の奥で、何かが熱くなった。この美しい少女を守らなければならない。
そんな責任感が湧き上がってきた。
「ありがとう、エリス。」
「いえ……ボクこそ。」
彼女は恥ずかしそうに俯いた。その動作がまた愛らしくて、さっきまでの恐怖が嘘のように感じられた。
しかし、安堵したのも束の間だった。
上の階から、新たな音が聞こえてきたのだ。
「カンカンカン……」
今度は金属音だった。しかも、明らかに人工的なリズムを刻んでいる。まるで誰かが金属をハンマーで叩いているような音。
「この音……」
エリスが身を寄せてくる。甲冑越しでも、彼女の体温が伝わってきた。
「上の階から聞こえますね。」
「ああ、そうだ。」
音は確かに上の階から聞こえてくる。三階か、それとも四階か。定期的に響く金属音は、まるで何かの合図のようだった。
「行ってみましょうか?」
エリスが提案した。恐怖に震えながらも、騎士としての好奇心が勝ったのだろう。
「危険かもしれない。」
「でも、ここにいても状況は変わりません。それに……」
彼女は剣の柄に手を置いた。
「もし何かあっても、ボクが守ります。」
その言葉に嘘はなかった。そこには確固たる意志があった。
俺たちは手を取り合って、音の方向へ向かうことにした。ヘッドライトの光が作り出す小さな明るい円の中で、二人だけの世界が形成されていた。