第四章•〈鷲〉と〈鳶〉㊀
二つの人影が、険しい山道を進んでいた。
東天に陽が昇って間もない、薄い霧が漂う山のなかを、人影は静かに進んでいくーー。
大きなほうの人影が、ときおり、後ろに続く小さな人影を、気にかけるように、振り返るのだった。
「ソルビ、大丈夫か。……少し休むか」
鬱蒼とした木々のなかへーー独特な力強さをもつ、深い声が響き渡った。
直後、頭上の林冠から差した光に、声の主が、浮かび上がる。
そのすがたは、聞こえた声に対して、意外にもーー老齢な男だった。
老人ーーといっても、言葉通りの、いかにも耄碌した、そんなすがたではない。
たしかに、かつてより背は低くなり、僅かに、腰も曲がってはいたが、この男には、それらをすべて打ち消し凌駕するほどの、底知れぬ精気ーーなにかーー言葉に言い表すのが難しい、並外れた気配ーー雰囲気ーーというものが、全身を強く包んでいた。
色褪せた灰色のマントを身に纏い、深々とかぶった頭巾の下には、白髪の丸刈り頭がひそみーー真白な髭が厚く覆ったその顔は、日によく焼けて、いかにも流れた月日を物語る深い皺が、いくつも刻まれているのだった。
懸命に、後をついてきた小さな女の子が、目の前にある、急な斜面に足をとられながらも、首を横に振った。
ソルビは、細く小さな身体で、先ほどから、なかなか登ることのできない、土の斜面と戦っていた。まだ短い手足をつかい、それでも一生懸命に踏ん張りながら登るのだが、少し登ったと思えば、ズルズルとーー再び、すべり落ちていくのだった。
しかし、ソルビは諦めず、泣き言のひとつも言わずに、小さな唇をきゅっと結んで、何度も何度も、挑戦するのだった。
マーロは、しばらくじっと、その様子を見守っていたが、やがてゆっくりと、幼子のほうへ下りていく。ーー手を伸ばし、細い腕をとると、軽々と斜面からすくい上げた。
老人は、ソルビの纏っている、植物の繊維でつくられた、質素な衣についた土汚れを払うと、ぷっくりとした、その白い頬についた汚れも、優しく掌で拭うのだった。
「……ありがとう」
愛らしい笑みを浮かべて、ソルビが老人の顔を見上げる。
マーロは、やわらかに頷いた。
「ソルビ、もう少し歩くが、このまま行けるか」
クリっとした、大きな瞳がーー灰色の目を、真っすぐに見つめる。
「うん。……〈やまのおうち〉に、いくんでしょ?」
マーロは、そうだと、頷いた。
突然吹いた風が、木々の葉を揺らしーー小さな頭に巻かれていた、薄い布をさっとほどくーー
淡い青紫の、やわらかな布のなかから、明るいくるみ色の頭が、現れるのだった。
マーロは、その小さな頭へ、節くれだった手を伸ばすと、驚くほど繊細にーーそれは器用な手つきで、すばやく布を巻きなおし、再びすっぽりと、くるみ色の頭を布で覆った。
「マーロ、ありがとう」
ソルビは、花のような笑みを咲かせ、自身のたった一つの宝物である、頭に巻かれた布を、大切そうに、なでるのだった。
(本当に……二人に、よく似てきたな……)
マーロは、幼子のすがたをーーふっとほころんだ目で、見つめるのだった……。
あの日ーー残された、己のすべてをかけて、必ず守り抜くとーーそう……固く心に誓った、なによりも大切な命ーー
(両親に似て……ソルビも、強い子だ……)
〈生ける神〉が治める、〈リグターン〉では、身分というものが、絶対的なものーー。
身分の低いものたちは、みな決して、〈神〉と〈髪〉ーー同じ音をもつ、神聖さの象徴とされる、〈髪〉を伸ばしてはならなかった。
それは、帝国法〈ジーガ〉のもとに、厳しく取り締まられ、ひとたびでも規律の長さを破れば、どんなに恐ろしい厳罰が待っているかーー誰一人口にしないだけで、知らぬものなどいなかった。
そして、髪の長さは、下の身分になればなるほど、短くなっていきーー〈下民〉と呼ばれる、最下層にあたる人々は、もはや髪など、ほとんど丸刈りであった。
マーロもソルビも、ずっと帝都の街で暮らしているわけではなかったが、ほとんどを〈山〉のなかで過ごしていれば、その身分は、同じようなものだった。
そのためソルビは、生まれてからまだ一度も、母親譲りの、美しいくるみ色の髪のすがたを、しっかりと見たことがない。
ソルビが、二歳の誕生日を迎えたのちーーその小さな頭には、今覆っているのと同じ、淡い青紫の布が、巻かれていた。
幼子を見つめる、マーロの表情にーー暗い影が広がる……。
ソルビは、今まで一度たりとも、髪を切られることに対して、泣いたことはなかった。
それどころか、嫌がったり、わがままを言って、困らすことさえもなく、いつも小さな唇をきゅっと結び、言われたことに、こくりと頷く。ーーまだ幼いながら、多くのことをのみ込んでいる、小さなすがたにーーマーロはこれまで何度も、己の心を、薄いやすりで削がれていくような、そんな思いがした……。
生まれてから次々とーーソルビには、あまりに多くの惨い運命がーー襲いかかった……。
けれども、彼女はーーそれらに負けることなく、光を見失うことなく、一日一日を、一生懸命に生きている……。
目の前のソルビに向けられていた、マーロの意識がーー過ぎ去った、遠い彼方へ……馳せていく…………
今ーーマーロのすぐそばには、ソルビによく似た、若い女性が、にこやかに微笑んでいたーー
『……ロナ……』
マーロは、深い笑みを向け、つぶやく……
ふと、横を見ればーー熱心に巻物を読む、若い男性のすがたが映ったーー
『ソラン……』
名を呼ばれた男性が、顔をあげーーぱっと花咲くような表情を向けるーー
その大きな瞳はーーソルビと同じ、黒く澄んだものだったーー
マーロの耳にーー懐かしい、愛弟子の声が、よみがえってくる……
………『師匠、私はもっと、たくさんの呪術を学び、少しでも、この国にいる、貧しい人々ーー苦しく、恵まれない人々のために、役立てるようになりたいのです』………
『そうか……』と、マーロが頷いてすぐ、後ろから、誰かに呼ばれた気がして、振り返るーー
そこにはーーソランとロナが、二人寄り添って、立っていたーー
まるで、降り注ぐ陽光のようにーー満ち溢れる幸せにーー眩しい笑顔を見せているーー
美しいくるみ色の髪をしたロナが、大きく手招きをしたーー
『ああ』ーーマーロは、笑顔で応えるーー
光に包まれた、二人のもとへーー向かっていったーー
しかしーーすぐに、その顔が曇るーー
みるみるうちに……冷たい不安が広がった……
足がーー思うように前へ、進まないのだ……
マーロは全身をつかい、大粒の汗を浮かばせて、まとわりつく重い水のなかをもがくように、必死に前へ……進んでいく……
『待ってくれ……たのむっ……!』
強張った目が前を見ればーー二人の周りを満たしていた光が、眩しさを増していったーー
マーロは思わず、腕で目を覆うーー
ぱっと光が消えーーマーロが再び、目を向けたときーーそこにはもう、二人のすがたはなかったーー
『そんな……』
乾いた頬をーー一筋のしずくが、伝い落ちる……
そのときーー突然、両手にあたたかなぬくもりを感じたーー
驚いて視線を落とすと、自身の手のなかにーー天使のような、愛くるしい赤子のすがたが、あった……
………『名はぜひ、マーロが決めてください』………
澄んだロナの声にーーマーロがはっと、顔を上げるーーかつての若者の顔から、親の顔となった、二人のすがたが、微笑んでいたーー
マーロは、手のなかにおさまる、あたたかく小さな命を、じっと見つめた……
『……ソルビ(緑の息吹)……』
赤子の名を、口にした刹那ーーマーロの表情が、苦痛に歪む……
『私の……命に代えてでも……ソラン、おまえを……救ってやりたかった……』
マーロは今ーー目の前にある、藁で編んだ寝床を、見つめていた……
ぐったりと横になり、自身の力では、もう起き上がることさえできなくなった、変わり果てた、愛弟子のすがた……
かつてのーー生き生きとした、輝くばかりの黒い瞳は、長く身の内を蝕む、病の苦しみに、光を失ってしまっていた……
それでもーーソランは、自身のさだめを、静かに受け入れていたーー
苦しく、懸命に息をつぎ……傍らにいる、恩師の目を、真っすぐに見据えーー内からふり絞るように、声を出した……
………『……どうか……どうか……ご自身を……責めないでください……私は……私の……運命に……したがう……までです……怖くは……ないのです……ただ……心……残りが……ロナと……ソルビ……を……お願いします……』………
それがーー最後の言葉だったーー
皺の刻まれた乾いた頬にーー光るものが、伝っていく……
(ソラン……すまない……。どこまでも非力な、私を恨め……)
「マーロ……?」
耳へ届いた声にーーマーロの意識が、はっと目の前へ、もどってくる。
声のほうを見れば、ソルビが、いかにも心配そうに、自分を見上げているのだった。
「マーロ……ないてるの?……どこかいたいの?……」
マーロは、節の浮いた指で、さっと涙を拭うと、静かに息を吸った。
(私も……ずいぶん焼きが回ったな……。こんな小さな子に、心配させている……)
口元に、哀しげな微苦笑が浮かぶと、マーロは見上げている、小さな頭に、ぽんと手をおいた。
「さぁ、そろそろ出発しよう」