第三章•幻の神獣ーー〈ムー〉㊀
一人ーーまたひとりと、静かに〈倉庫〉を後にする。
きつく張りつめていた緊張が、ようやく解け、押し包む静寂のなかーージェラは周りを見回した。
淡い梔子色の髪をしたエンダや、橙色の髪をしたハイリと、目が合ったが、お互いに、話しかけにいくことはなかった。
ミゲはというと、場の解散を告げるやいなや、誰よりも早く、すがたを消していた。
人気がなくなり、一層空虚な倉庫のなかは、夜の底冷えが、身に染みるのだった。
けれども、ジェラは、まるで根が生えたように、その場に立ち尽くしていた。
頭の中が、あまりにいっぱいで……混乱していた……
長く、耐え難い緊張が解けた途端、力が抜けると共に、一挙に疲れが押し寄せてきた。
この世界へやってきてから、幾度となくーー『果たして、これは現実なのだろうか……』ーーと、自問してきた。
そして、今日ーーミゲという男が放った言葉に、蠢いていた不安が、いよいよはっきりと……現実のものへ化していくような……それは生々しい感覚を味わった……
〈大帝国〉ーー〈神人〉ーー〈秘密組織〉ーー〈特殊能力〉ーー〈鉛の屍〉ーー
もう……どんなにあがこうとも……決して……逃れられる気がしなかった……
悪魔からーー目覚めることのできない、恐怖ーー絶望ーー
冷え切ったジェラの身が、ガタガタと震えだす……。
見つめていた、灰色の床へーー自身も履く、見慣れた黒革の長靴が、止まるのだった。
青ざめたジェラの顔が、ゆっくりと上がる……
「震えてる……大丈夫?」
艶やかな赤毛をしたアリーが、心配そうに、見つめていた。
「……大丈夫……じゃないよね……」
アリーがつぶやきーー雪のように白く、澄んだ瞳の際立つ美しい顔に、物悲しげな笑みが、浮かぶのだった。
気まずいような間があくーー
「〈リダ•ベンデ〉……なんだか、変な呪文みたいだよね」
沈黙を破ったアリーの言葉に、ジェラ一瞬、ぽかんとしてしまった。だかすぐに、慌てて頷いた。
アリーは、そんなジェラの反応が可笑しかったように、クスっと笑った。ーー妹を見るような、あたたかな眼差しに、ジェラを見つめる。
「変な言葉だし、すぐに忘れると思ったけど、これが全然忘れないから、不思議だった……まぁ、不思議をあげれば、きりがないんだけどね」
端整な顔に、苦笑が浮かぶ。
「ちなみに、意味は知ってる?」
ジェラは、静かに首を振った。
「〈リダ〉ーーこれは、〈赤いレンガ〉の意味。そして、〈ベンデ〉はーー〈倉庫〉を表す言葉なんだって」
「……赤いレンガの……倉庫……」
ジェラがつぶやくと、アリーは笑みを静め、真剣な表情になる。
「私たちが、なぜだかこの世界へ生まれて、最初に目覚めた場所のことーー目を開けたら、あの男がいた。……ジェラも、そうだよね……?」
ジェラは、強張った表情で、アリーを真っすぐに見つめる……。
深い沈黙が流れーージェラは、頷くのだった……。
見交わす相手から、纏っていた緊張がふっと抜けた。
「……でも、言葉の意味はわかっても、まだまだ……わからないことはたくさんある……」
つぶやいたアリーの声には、心の内にある哀しみが、滲んでいた。
沈んだ間があきーー暗くなってしまった雰囲気に、アリーが突然、自身の髪を掴んだ。
「この長い髪、カツラじゃないからビックリだよね。いまだに自分のものとは思えない」
明るい声に、苦笑をもらし、美しい赤毛の束を、肩の前へ垂らすのだった。
ジェラは同意を表し、大きく頷いた。
「でも、私たちより、男の子たちのほうが大変だよね。みんなあまりに慣れない長さだから、苦労してる」
アリーは言うと、急にくくっと、笑いをこぼした。
ジェラが瞬きをして見つめると、アリーの白い頬に、うっすらと赤みが差す。
「……ごめん、ちょっと思い出しちゃって。ほら、ひとり明らかに男の子って感じじゃない、ごつくて、目立つ金髪をした人、いたでしょ?」
「……ナンバー2の……ビクさん……」
ジェラの小さな声に、アリーは笑顔で頷いた。
「そのビクなんかね、一度本気で切ろうとしたから、慌てて私がとめたの」
ジェラの驚いた顔に、アリーは呆れ半分、可笑しさ半分で、やれやれと、首を振ってみせるのだった。
澄んだ色の瞳が、ジェラの髪を見つめる。
「ジェラは……鳶色なんだね」
「とびいろ……」
自身の髪色について、よく考えてみたことがなかったジェラは、はじめて聞く言葉に、しみじみと、繰り返すのだった……。
「たしか……タカ科の鳥だったかな。猛禽類って、かっこいいよね」
「はい」
ジェラも素直に、声を返した。
笑みを深めた、アリーの瞳が、ジェラの耳元にとまる。
「それ……すてきな〈耳飾り〉だね」
和らいでいたジェラの表情が、さっと強張るのだった。反射的にーー隠すように、〈しずく形の青い耳飾り〉に触れる……。
「ごめん……」
相手の明らかな動揺に、アリーが謝るのだった。
「違うんです……これは……その……」
言おうか、言うまいかーー戸惑い迷ったジェラだったが、目の前にいる相手の、思いやりの滲む、あたたかく純真な眼差しに、自然と先の言葉が続いたーー
「……最初から、耳についていたんです」
はしばみ色の瞳が、大きく見開いた。
「目覚めたときから……?」
「はい……」
ジェラは、透き通る〈青い耳飾り〉を掴み、少しだけ、引っ張ってみせるのだった。
「壊さないかぎり、取りたくても、取れないんです……」
アリーは、ジェラの近くまでくると、大きな瞳に、しげしげと覗きこむ。ーージェラに許可をもらい、そっと触ってみて、小さく声を漏らした。
「すごい……本当だ……」
アリーはジェラから離れても、しばらくじっと、不思議そうに、〈耳飾り〉を見つめていた。
ジェラは、鼓動がーー早くなっていくのを感じた……。掌にーー汗が滲む……。
聞くならば……今しかない……
唇をきゅっと引き結ぶと、ジェラは鼻から深く息を吸う……
そして、目の前にいる相手を、真剣な眼差しに見つめた。
「あの……アリーさんに、お聞きしたいことがあります」
いかにも緊張が滲んだ、硬い声だった。
アリーの細い眉が敏感に動き、緊張が移ったように、目の光ーー纏う気配が色を変えた。
「……私で、わかることだったら」
ジェラは、もう一度深呼吸すると、せわしなく打つ鼓動を落ち着かせ……口を開いた。
「ミゲという人が、私が〈キューア〉という組織の、最後のメンバーだと、そう言っていましたが……アリーさんやビクさん、他の方たちは……その……ずっと前から、ここに……組織に……いたんですか……」
見つめ返す瞳が、ふっと緩んだ。
「そのことなら、答えられるよ」
アリーの声には、安堵が滲んでいた。
「私のことをナンバー1と、聞いたと思うけど、それは最初が、私だったからなの。ナンバー2のビクは、私の次にここへきたから、そうであるようにね。ーーカークやデン、エンダたちもそう。それでも……私もビクも、ずっと長く、こっちの世界にいるわけではないの」
アリーは一度口を閉じると、記憶をたどる間、宙の一点を、見つめるのだった。
そして再び、口を開くーー
「最初の私でも、ジェラが最後に加わった今日から、正確にはわからないけど……たぶん、ふた月前……くらいに、やってきた、というところかな……」
「そう……だったんですね……」
勇気を振り絞り、ひとつの疑問は解けた。ーーだが、その答えがわかるとすぐに、あとからあとから……聞きたいことが、湧き上がってくるのだった。
ジェラが黙したままでいると、今度はアリーのほうから、口を開いた。
「そういえば、ジェラは今まで、どこで寝泊まりしていたの?」
突然の質問に、ジェラの心臓がドキリと打つ。
再び正直に言うべきかーー迷いがうまれたが、やはり、話すことに決めた。
「実は……〈山〉のなかにいて……」
澄んだ瞳が、大きく見開く。
「〈山〉のなか? 野宿ってこと?」
ジェラは慌てて、首を振った。
「違うんです。……いや……ちがくないか……野宿というか……たまたま、大きな岩の割れ目に、ちょうどいい空間……みたいなのを見つけて……。そこはなぜか、夜でもずっと暖かかったので、こっちの世界にいる間は、ほとんどそこで、過ごしていました」
「空き家には、行かなかったの?」
アリーの言葉に、例のゴーストタウンを思い出したジェラは、身の内に走った寒気を振り払うように、大きく頷くのだった。
「あんまり、気持ちのいいところじゃないもんね」
アリーが暗い声に、つぶやいた。
たしかにーーミゲから、どれでもすきな空き家を使っていいと、そう言われていたのだが、どうしてもあの不気味な建物たちのなかへ、一人でいる気になれず、ジェラは結局、〈山〉のなかで過ごしていたのだった。
それにーージェラが寝泊まりしていた、その岩屋の近くには、飲むことのできる、きれいな小川も流れていた。
ジェラが話し終えると、アリーはしばらく黙っていたが、やがて思案顔で、つぶやいた。
「どうして、ジェラだけを別にしたんだろう……」
相手の言う意味がわからず、不安げな目で見つめているジェラに、アリーは慌てて声を継いだーー
「私たちは今まで、あのゴーストタウンの、ずっと奥のほうにある、一番大きな空き家で、寝泊まりしていたの。みんなミゲに、そこを使うように言われてね」
不安を色濃くしたジェラの顔に、戸惑いが浮かぶ。
「でもジェラは、言われなかった……」
アリーの眉根が寄り、再び考え込むように、しばらくの間、口を閉ざすのだった。
「……正式に発表するまでは、私たちに、会わせたくなかった……?」
ジェラも、自分なりに考えを巡らせてみたが、結局ーー胸につかえたしこりは、そのまま残るのだった……。
沈黙が流れーー陰気な雰囲気が包もうとしたときーー突然、アリーがパンっと、手を打った!
ジェラの身がビクリと、相手を見つめる。
「でもとにかく!私たちに、新しい建物が用意されて本当によかった。これでやっと、安心して休めるってね」
アリーは明るく言うと、いたずらっぽい笑みを見せる。
ジェラの固く結ばれていた口元にも、ようやく、小さな笑みが浮かぶのだった。
「そうですね」
アリーは、うんうんと、笑顔で頷く。ーーそして、ゆっくりと、笑みを静めた。
「ジェラーー」
はしばみ色の瞳がーー強くーー褐色の瞳を見つめる。
「これから、いろいろなことがあると思う。私は仲間として、助け合っていきたいと思ってる。なにかあったら、いつでも話して。……私はずっと、こっちの世界にいると思うから」
アリーの顔に、一瞬よぎった暗い影は、すぐに消えーーやわらかな微笑みが浮かぶ。
ジェラは、目鼻の奥が熱くなり、じんわりと視界が滲むのを、瞬きをして、なんとかこらえるのだった。
「……ありがとうございます」
両手を、ぎゅっと握りしめると、大きく息を吸う……
ある決心にーー心臓が、激しく打っていた……
まだ一つ……どうしても知りたいことが、残っていた……
ジェラは、アリーを真っすぐに見つめると、口を開いたーーが……声が出てこなかった……。
自分がーー知りたいという思いだけで、それを果たして……目の前にいる相手へ、言葉にして、聞くべきなのか……
捨てきれぬ迷いが、ジェラから声を奪った。
長い沈黙が、流れていく……
ジェラがもう一度、揺るいだ決意を固め、顔を上げたときーーアリーの声が響いた。
「だいぶ遅くなっちゃったから、私もそろそろ行くね。新しい本拠とやらを、見学してくる」
アリーは明るい声で言うと、最後に笑みを向け、くるりと踵を返した。
ジェラが小さく口を開けたまま、見つめるなかーー背に揺れる艶やかな赤毛と共に、アリーの後ろすがたは、開け放たれた、倉庫にある別の扉から、夜の闇へと消え去った。