第二章•ナンバー10 ㊂
ジェラが〈山〉を下りたときには、すでに辺りが暗くなっていた。
下山し一息つく間もなく、大急ぎで向かった先ーーそれは、〈城〉から遠く離れた北西にひっそりと存在する、荒涼とした町だった。
〈城〉の周りを取り囲む、華やかな街のすがたとは、まるで表裏を成した、そのすがたーー。
点々とーー朽ち果てた、過去の亡霊ーー廃墟が存在するだけの、いわばゴーストタウン、そのものだった。
ジェラが向かったのは、町のさらに奥ーー広大な〈空き地〉ーー
夜の帳が下ろされ、今にもなにかが出てきそうな、不気味な気配に包まれたなか、ジェラは手元のランプの、小さな明かりだけを頼りに進んでいく。ーー必死に、隙あらば折れてしまいそうな、震えた心を繋ぎ止め、すべてをのみ込むような、闇夜の世界を、ひたすら進み続けるのだった。
やがて、目の前にーー〈空き地〉の入口が見えてくる。
ジェラの心臓が、激しく打った……
冥冥たる闇のなかにそびえ立つ、忌まわしいすがたは、ぞっとするような存在を放っていた。
まさしく、殺伐とした景色にふさわしい、鉄条網ーーあらゆるものを引き裂くような、鋭い有刺鉄線が、ギラギラと冷ややかに光り、風雨に錆びた鉄のフェンスを飾っていた。人の身の丈を優に超え、天を突き刺すさまに直立した巨人たちは、暗闇に息を潜め、はるか先まで、ずらりと連なっているのだった。
ジェラは、禍々しい鉄の関所の前で、立ち止まる……。
小さなすがたを、嘲笑うかのように見下ろす相手を、強張った瞳で見つめた……。
口の中にわいた生唾を飲み下し、頬を伝った汗を拭うと、呼吸を整える……。
大きく息を吸い……突然、手に持っていたランプを投げ飛ばした!ーー漆黒の闇に、高く舞ったランプは、光の弧を描き、見事に鋭い棘たちを飛び越えていくーー高く隔てられたフェンスの向こうーー地面の土の上に、ぼとっと、落ちた。
ランプの明かりが消え、一瞬間無音の闇がのみ込むーーそして、安堵の息の先ーー再び煌々と、光を放つのだった。
ジェラは、無事に明かりを送り届けると、今立つ場所から後方へーー目の前に圧する巨人から、十分距離をとるように、下がっていった。
足を止めると、背に垂れた、長い髪の束を掴み、それを細くねじり上げ、頭の結び目に、ぐるぐると巻きつける。ーー鳶色の髪が、団子状に、おさまるのだった。
冷え冷えと、不気味に浮かび上がった、相手を見据えーー集中力を高めるように……深い呼吸を繰り返す……
息が、ピタっと止まった刹那ーージェラの身体が、弓矢のごとく放たれた!
ビュンビュン風を切りーー立ちはだかるフェンスへ向け、一直線に突進するーーぶつかるっ!……という手前、華奢な身体が、ふわりと浮くと、高い空中で軽やかに一回転しーーそのまま流れるように、地面へ着地した。
たった今起きた出来事を、他に見た者がいれば、とても信じられず……己の目がどうかしてしまったのだと、恐ろしくなったことだろう。
鮮やかな身のこなしーーそれは……〈ふつうの人間〉には、まず真似できぬような……異様な光景であった。
「あそこだ……」
ジェラの背筋に、寒気が走る……。
目指していた場所はーー湿った闇の世界に、ぬっと現れた。
建物の周りに灯る、ガス灯の光が、なんとも妖しげに、巨大なシルエットを照らしているーー
どこか古風なーー〈赤いレンガ造り〉ーー
その建物は、〈倉庫〉であったーー
ジェラの目の前にはーーどっしりとした、両開きの大きな鉄扉があった。
ここまで、もう幾度となく、心が折れてしまいそうになっていたが、今ーーこの厳めしい扉を前にしてみて、いよいよそれは、音を立てて現実のものへなろうとしていた。
身体がーー本能的に、扉から離れようとする……。
ジェラは間違いなく、ここを目指してきたはずだったが、いざたどり着いてみれば、今すぐこの場から、逃げ出したくて、泣き出しそうになるのだった。
今日一番の動悸が襲いーー立っている足下も、力がしっかりと入らず、膝が震えていた……。
(……ここまで来たんだから……)
どうにか気持ちを奮い立たせ、言い聞かせるように、自分を励ましたが、すでに何度も、伸ばした冷たい手が、力なく落ちていた。
だが、とうとうーー震えた手が、大きな扉の片側ーー取っ手の輪を掴むーー氷のような冷たさに、全身の肌が粟立つのだった……。
ジェラは思わず離しそうになった手に、力を込めると、重い鉄扉を、引き開けるーー
••••••グゥゥゥ••••••
静寂に、大きな音を響かせてーー〈倉庫〉の入口が、開くのだった……
ジェラの身をーーひんやりとした冷気が包み、背後へ抜けていくーー
こもった、独特な埃っぽい匂いが、人の匂いと共に、鼻をついた。
高い天井ーー壁には、明かりが灯っているものの、がらんとした倉庫は薄暗くーー遠く中央に見えた人影が、うっすらと伝わってくるだけだった。
なにか言わなくては……と、乾ききった唇を湿らしたときーー
「早くこちらへ来い」
太く低いーー冷ややかな男の声が、響き渡った。
ジェラは、震えた両手をぎゅっと握ると……後退ろうとした足を、歯を食いしばり、前へと踏み出した……
人影の集まる中央へーーだだ広い倉庫のなかを、恐る恐る……進んでいく……
(……1……2……3……4……5……6……7……8……9……)
自分を加えて、10人ーーそして、あの男もーー
心臓の音が、けたたましく打ち響くなか……ジェラは、だんだんと見えてきた人影を、数えていくのだった……。
そしてまもなく、落雷に打たれたような衝撃が、身を貫く……!
全身からーー血の気が引いた……
途端、おぞましい不安が襲いかかる。
なぜなら……
その場にいる全員がーー自分と同じ年ほどの、若者たちであったからだ……
今、一斉にジェラへと向けられた視線の持ち主たちは、ジェラが着ているのと同じ、〈オリーブ色のつなぎ服〉を、身につけていた。
そしてーージェラの目に、さらなる衝撃をもって映ったのは、彼らの髪ーー
その場にいる、自分を含めた全員がーー男も女も、みな腰ほどまで届く、長い髪をしているのだった。
〈赤〉や〈金〉ーー〈紫〉にーー〈灰色〉や〈黒〉ーー〈橙〉までーー
それぞれが、目を引く美しい髪色に、その長い髪を、後ろで高く結んでいた。
ジェラのすがたが、中央にある集まりへと、静かに加わる。
「やっとお出ましか」
すかさず、鋼のような男の声が飛ぶ。どこまでも冷淡な口調が、余計に耐え難い威圧さを、高めていた。
「私をここまで待たせるやつは、相当な度胸に、なかなかいるものではない」
ジェラの痺れた身が、竦み上がる。
変わらず一定の音調ーーまるで感情のない声に、ジェラは恐ろしく、顔を上げることができなかった。
多くの視線が、身に突き刺さるように、感じられた……。
「遅れてきたうえに、床を眺めているつもりか」
響いた低い声に、微かな苛立ちが滲む。
青ざめたジェラの顔が、怖々と……前を向く……
視線の先にーー忘れもしない、男の顔が、射貫いていた。
集まる若者たちの奥ーー一人、この場に似合わぬ、豪華な膝掛け椅子に腰かけた、男のすがたーー
まるで墨で染めたような漆黒の長髪を、一分の隙もない風貌通りに、後ろで完璧に束ね上げている。
髪と同じ、黒々とした髭で飾られた、強毅な顔には、太く形のよい眉の下、冷徹鋭利な眼が光っていた。
一度見れば、嫌でも忘れられぬような、威圧的な顔ーー
あのーー決定的な日に待ち構えていた、ミゲという名の、男だった。
ミゲは真っすぐに、ジェラを見据えていた。
そして、肘掛け椅子から立ち上がる。
深い緑の、いかにも高貴な衣を纏った大きな身体が、そびえるように、立ちはだかるのだった。
「おまえたちの、最後の仲間だ。 記念すべき、ナンバー10ーー名は、ジェラ」
ミゲの声が、朗々と響き渡るーー
若者たちの目が、一層強くーー華奢な少女のすがたを、捉えるのだった。
ジェラは心臓が、苦しいほどに打つ……。
捕えられた獲物のような……逃げ場のない、恐怖……
広い倉庫のなかに、太い声が継ぐーー
「このときをもって、〈キューア〉は完成した」
支配した沈黙にーー不気味な余韻が、残るのだった……。
(……〈キューア〉……)
ジェラは、前にも一度、その言葉を聞いた覚えがあった。ーーあれはたしか……初めてこの場所で、目覚めたとき……そのときも、目の前にいたミゲという男が、同じ言葉を、口にしていた……。
「それなら、そろそろ教えてもらおうか。 おれたちが、あんたらの奴隷となって、やらされることを」
記憶を巡らせていたジェラの目が、ぱっと向くーー
視線の先にーー輝く金髪をした、いかにも気の強そうな青年が、映るのだった。
集まる若者たちのなかで、一際体格のよい青年が、一番年上の者のように見えた。
金色の髪をした青年は、倉庫の柱に寄りかかり、厚い胸の前で腕を組み、挑みかかるような態度で、男のすがたを睨んでいた。
冷え冷えとした沈黙にーー不穏な緊張が、走るのだった……
ミゲは変わらず、表情のない顔で、青年のすがたを見据えていた。
そのままーーぞっとするような時が流れたーー
やがてーー張っていた糸が緩むように、ミゲの視線が離れ、髭に飾られた口が開くーー
「いいだろう。 だが、その前にーー」
鋭い目が突然、ジェラを捕らえた。
「ナンバー10、新入りのおまえに、組織のメンバーを紹介してやろう」
「はい……」
油断していたジェラはビクリとし、掠れた声でなんとか、答えるのだった。
男の眼光が、若者たちへ向けられるーー
「ナンバー1のアリー。 女のなかでは、ナンバー1がリーダーだ」
すらりとした長身の、艶やかな赤毛の美しい女性が、やわらかな表情で会釈する。
ジェラも慌てて、小さく頭を下げた。
「ナンバー2のビク」
先ほど啖呵を切った、金髪すがたの青年は、ジェラのほうへ見向きもせず、相変わらず胸の前できつく腕組みをしたまま、苛立たしげに、片足を動かしていた。
「ナンバー2が、〈キューア〉全体のリーダーだ」
ミゲは淡々と、続けるのだったーー
「ナンバー3のカーク」
「ナンバー4のデン」
「ナンバー5のエンダ」
「ナンバー6のフルロ」
「ナンバー7のガル」
「ナンバー8のハイリ」
「ナンバー9のインナ」ーー
流れるように、あっという間の紹介が終わる。
ジェラはというと、番号に名前ーーそのすがたなど、ついていくのに、精一杯だった。
まだ互いに、明らかな気まずさを感じながらも、それぞれ自分の番がやってくると、新しく加わったジェラのために、小さく手をあげてみせるなど、ささやかな気遣いをみせてくれた。
ジェラは、一番最後に紹介された、明るい栗色の髪をした、インナのすがたをちらっと見る。ーーその容姿から、もしかすると、自分と年が一緒なのではないかと、ジェラは複雑な思いが、胸に湧くのだった……。
「本題に入る」
響き渡った、ミゲの一言にーー倉庫にいる全員が、息を殺して、身構えた……
「我らが、偉大なる大帝国〈リグターン〉ーーその頂点に君臨されたし、神人テーダ様が、この〈キューア〉をおつくりになられた。 大変な僥倖、栄誉に与り、〈帝国秘密組織〉に選ばれし者たちの、初陣を飾る、任務とはーー」
ミゲは、いかにも意味深長な間をあけて、視界に映る、若者たちのすがたを眺めたーー
誰もが今ーーピクリとも動かぬ表情で、瞬きもせず、男の言葉を聞いていた……。
炯眼が、底光るーー
「おまえたちに、〈ある真相〉を、突き止めてもらう」
ひんやりとしたしじまがーー倉庫のなかを満たした……
強張り、立ち尽くすメンバーたちのなかで、突然ーー一人が動いた。
「〈真相〉?……なんだよそれ」
響いた声にはありありと、反抗が現れていた。
一斉にーー目が向けられる。
またしても、あのビクという青年が、ミゲのいるほうへ、大股に近づいていくのだった。
ジェラは、胸が早鐘に打ち……嫌な予感に襲われる……
「だいたい、そのテーダってやつは……」
勢いよく放たれた声がーー途中で消える……と同時に、倉庫にいる全員が、言葉通りに凍りついた……
みな、ほんの一瞬の出来事に、はじめはなにが起きたかわからず、まるで時が止まったように……息をのんで……立ち竦んだ……
静まり返った倉庫のなかーービクの荒い息遣いだけが、大きく聞こえていた……。
メンバーたちの目の前ーーミゲに対峙した、ビクの喉元には、冷たく光る、鋭い切先が、突きつけられていた。……あと、ほんの数センチもいけば、間違いなく、真っ赤な血潮が、見えていたことだろう。
だが、青年の喉元はきれいに、向けられた刃先は、触れる触れないのまさに絶技に、ピタリと、止まっていた。
突然の、本物の剣のすがたに、みな衝撃と……戦慄が……走るのだった。
ミゲはというと、変わらず冷静に、落ち着き払っていた。ーーしかし、纏う気配には、先ほどまでとは明らかにちがう、背筋をぞくりとさせるものがあった。
ジェラは、生まれてはじめて……〈殺気〉というものを知り……触れたような気がした……。
抑揚のない声が、響き渡るーー
「おまえごときに、そのような発言は許されん。〈神〉への冒涜は、帝国において、最も重き大罪だ。ーー人間を、いくら殺すことよりもな。 犯したものは、どうなるかーーもはや、死などという、そんな生易しいものなど待ってはいない。 そのことを、よく肝に銘じておけ」
低音に発せられる、言葉の一つ一つにーー身震いするほどの、圧倒的な凄みがあった……。
鋭い刃先が、すっと引かれる。
額に、びっしりと玉汗が浮いたビクは、足がもつれるように、後ずさるのだった。ーー激しい怒りに、ギラギラと光る憎悪の目で、男を睨み据える。だが、さすがにもう、食いしばった口を開こうとはしなかった。
鋭利な眼が、倉庫にいる他の者たちへ向くーー
「おまえたちも、よく覚えておけ。 愚かな真似をして、みすみす生かされた役を潰すな」
心臓の音が、鼓膜に打ち響き……圧迫するような沈黙にーー誰一人として……微かな声すら……でなかった……。
〈キューア〉のメンバーたちは今ーーこの世界ーーこの帝国で生きていくための、恐ろしき掟を、刻まれたのだ。
〈リグターン〉では、〈テーダ〉と呼ばれた人物こそ、まさにあの〈城〉のすがたのように、絶対的な存在である、ということーー
感情を表に出さず、それは不気味なまでに、冷静沈着を映したような男が、青年の放った一言に、あそこまでしたということが、その意味のすべてを……物語っていた……。
ーー〈神〉ーー
生ける〈神〉が存在しーーすべてを、支配する世界ーー
ジェラは、ぐらりとめまいがした……。深深とした寒気が、みぞおちからはい上がる……。
まさか……本当に……自分が今……そんな恐ろしい世界へ……いるのだろうか……
(……自分……)
ドロっと、しこりを残した言葉にーージェラの意識が、痺れたように固まる。
とーー長い沈黙を、唸るような声が破った。
「こんなわけのわからねぇ世界で、おれたちに、一体なにができるっていうんだ」
ジェラがはっと見ると、ビクのすがたが、男をはたと睨んでいた。
倉庫のなかに再び、不穏な空気が満たす……
ミゲは肘掛け椅子へもどると、腰を下ろした。
「組織の人間として、感覚が鈍いのは致命的だ」
鋭い目がーー艶やかな赤毛をした、アリーを捕らえる。
アリーは、刺すような眼差しを、そらすことなく受けていた。
息苦しいような間が、あくのだった……
「〈嗅覚〉……ですよね」
澄んだ声のなかに、強い芯を感じさせる、アリーの声が響くーー
(……〈嗅覚〉……?)
ジェラを含め、他のメンバーたちの鼓動が、はっきりと耳に、聞こえるようだった……。
ジェラは何度も……その言葉を、身の内に繰り返す……
すると、突然ーー脳裏へ、閃光が走った!ーー
(……っだから……)
〈山〉のなかで出会った、鮮烈な〈大地の匂い〉がーーみずみずしく、よみがえる……
呆然としたジェラの耳に、冷ややかな声が通るーー
「〈特殊な能力〉まで与えられ、そこらへんの人間と同じようでは、まるで価値がない」
「ですかーー」
はしばみ色の瞳が、真っすぐに、ミゲを見つめる。
「わたしたちに、その〈嗅覚〉という能力を与えて、なにをしろというのかは、わかりません。それが〈真相〉を突き止めるということに、どう関わっているのかも」
ミゲの目つきが変わった。ーー倉庫にいる誰もが、そのことに気づくのだった……。
「これから言うことは、事の〈核〉にあたることだ。
話すのは一度きりーーよく聞いておけ」
張りつめた空気に、ゴクリっ……と、生唾をのむ音が響いた……。
ミゲの低い声が、口火を切るーー
「現在〈リグターン〉では、解決に至らぬ、〈ある問題〉が生じている。そのことに、テーダ様も、大変懸念を示されておいでだ。さらなる発展を遂げる途上である我が帝国は、今まさに、今後の繁栄を担うであろう、〈一大プロジェクト〉も、水面下で進められている。なんとしても早期に、この問題に決着をつけたい」
ミゲは一度、言葉を切る。ーー短い間をあけて、再び声を継ぐーー
「帝国を取り巻く、あらゆる障害を排除するのが、私の務めーーだが、不可解で、厄介な相手となると、手をわずらわされることになる」
「回りくどく話してねぇで、さっさと言ったらどうだ」
ビクの苛立った声が飛ぶ。
場の空気が、一瞬凍りついたが、ミゲは構う様子なく、一際長い時をつくったーー
「その相手とはーー〈連続怪奇殺人〉だ」
「殺人っ……」
ジェラが咄嗟に、口を押さえる。逃げるように顔を、床へ伏せた。
あまりの衝撃に、心の声が、漏れ出てしまったのだった。
鋭利な視線が、血の気の失せたジェラの身に、容赦なく突き刺さる……。
「殺人と聞いて、すでに怖気づいているものもいるらしいが、先ほども言った通り、事はそう単純なものではない。 滴る血の一滴さえなければ、酷い傷あとも、凶器すらもないわけだ。 なぜなら、死体がーー〈鉛〉だからな」
最後の台詞がーー不気味なこだまに……響き渡る……
(……〈鉛〉の……〈屍〉……)
ぐわわーん……と、耳鳴りがした。再び襲っためまいに、ジェラは身体がふらつき、慌てて足を踏ん張るのだった。
「それは……よく意味が……わからないのですが……」
重い沈黙を破ったのは、アリーだった。ーーその声は、微かに震えていた。
「我々もだ。 ただの屍なら、今までにいくらでも見てきた。 だが、〈鉛の屍〉はーー私にとっても、この帝国にとっても、過去に例がない、奇怪な事象だといえる」
「連続……ということは、その……〈鉛の屍〉は、一体ではないのですね……」
さきほどよりも、少し冷静さを取りもどした、アリーの声が響いた。
「ここにいる人数分は、あっただろうな」
瞬間、ジェラのなかに引っかかったものを、ビクがすぐさま口にした。
「なんで過去形なんだ」
息を詰めた、メンバーたちの見つめる先ーーミゲの目が光る。
「〈鉛の屍〉は、忽然とすがたを消す」
ジェラは、いよいよ……気が遠くなりそうだった……。
身体は震えるほど寒いのに、こめかみを汗が伝った。
するとそのとき、視界の端の人影が、ぐらっと揺れたーージェラが考える間もなく、咄嗟に手を伸ばすと、相手の重みが腕にのった。その氷のように冷たい手に、肌の上を、思わず鳥肌が走るのだった。
見れば、栗色の髪をしたインナが、唇まで真っ青に、苦しそうに息をしていた。
ジェラが驚き口を開きかけた瞬間、インナははっと、気がついたように、身を離すのだった。
ジェラは伸ばしたままの手を下ろす……胸のなかに、暗く、悲しみに似た感情が、差すのだった……。
ミゲの口から語られる、恐ろしい話に、じっと耐えているのは、自分一人ではないのだ……。この場にいる誰もが、底知れぬ不安と、必死に闘っている……。
ジェラはぎゅっと……拳を握った。
「……冗談じゃねぇ」
吐き捨てるように、ビクが言い放つ。
「〈鉛の屍〉だかなんだか、そんなふざけたものが、勝手に消える? あんたはさっき、ここにいる人数分はあったとか言ってたが、だったら、十体、いや十一体もの屍が、全部消えたっていうのか」
ミゲは、顔色ひとつ変えずに、青年を見据えていた。
「そうだ。 見つかって数日のうち、消え失せる」
「そ……」
「それは、厳重に保管をしていて、ですか?」
ビクの声を遮って、アリーが言った。
ミゲの太い眉が、わずかに、動くのだった。
「大いなる穢れを、なぜ特別に保管などする必要がある。見つかった場所へ、見張りの兵士を置くまでだ」
「ですが……」
「これまでに、不審なものを見たという報告は、一切ない」
ビクが、鼻を鳴らした。
「裏切り者が、いるのかもな」
ドキリとしたーーみなをよそに、肘掛け椅子に深く腰かけたミゲは、無反応に、先を続けた。
「見つかった〈鉛の屍〉は、すべてが、身元すらもわからぬもの。ーー下民のなかでも、最下層にあたる、卑しいものたちだ」
身体の芯まで凍てつくような、沈黙が張り詰める……
「……腐ってやがる」
つぶやいたビクの顔を、アリーの瞳がさっと見た。
三度立ち込めた、不穏な空気にーーアリーがすばやく口を開いた。
「あくまでも、一連の出来事が殺人だと、そう思われているのですね」
「殺人以外に、なにがある」
冷ややかな声には、有無を言わさぬ力があった。
「我々は、気狂いをおこしたどこかの下民が、同じ階級の者をさらって、なにかの人体実験にでも使っているのだと、考えている」
「犯人がいたとして、下民であるとは限らねぇだろ」
ビクの声を、ミゲはまるで聞こえていないように、声を継ぐーー
「おそらくはーーその者が作り出した、〈毒薬〉かなにかだろう」
(……〈毒〉……)
人間を、〈鉛〉に変えてしまう〈毒〉がーーこの世界には、本当にあるのだろうか……
感覚が麻痺し……もう、たとえどんなことでも、あり得るように思えて、ならなかった……
「私たちに、犯人を探せと……」
アリーの緊張した声が、深閑とした倉庫に響くーー
「〈鉛の屍〉は、特徴の一つとして、異様な匂いを放っていた」
大きな舌打ちがーーメンバーたちの耳に聞こえる。
「ふざけんな」
見れば、怒りに肩を震わせたビクが、豪華な椅子に腰かけたミゲヘ、向かい合うーー
「おれたちに欲しくもなく勝手につけられた〈嗅覚〉は、あんたらの犬となって、こき使われるためか」
二人はーー刺し通すようにーー睨み合ったーー
やがてーーミゲの眼が、すっと離れる。
大きな身体が、椅子から立ち上がり、青年を残して、前へ出る。
「我々は、そう遠くないうち、新たな〈鉛の屍〉が現れると考えている。 いずれおまえたちにも、その目と鼻で、見てもらうことになるだろう。
それまでは、自由にいてかまわん。 この世界へいるもよしーー向こう側の、〈古巣〉へとーーもどるのもよし」
ミゲは、〈古巣〉という部分をーーわずかに声音を変えて、強調してみせるのだった。
〈古巣〉ーーそれは、ここにいる若者たちの、〈もといた世界〉のことーー
合言葉を、『マーク……』ーーとだけ唱えれば、身体がするりと、〈輪〉を通り越えていくーー
ミゲは、若者たちの視線の先ーー惹きつけるように、纏う衣の懐へーーその手をすべりこませた。
ゆっくりと引き出された手のなかに、銀色に煌めく紐が、見えるのだった。
細い紐の先にあるものをーー長い指に持つーー
うっとりするようなーー美しいガラスでできた、〈小さな呼び鈴〉ーー
10人の若者たちは、息を凝らし……〈呼び鈴〉を見つめた……
••••••リーン••••••
倉庫のなかにーー涼やかな音がーー響き渡るーー
「再び音が鳴ったとき、ここへ集まれ。ーー遅れは許さん」
ミゲの目が、ジェラを刺すーー
ジェラは心臓が、ドグンっ……と打った……。
「それと、もう一つーー組織の、本拠を用意した。こちらにいる間は、その建物を使うように。 東の森のなかだ」
ミゲは言い終えると、じっくりと見渡すように、若者たちのすがたを眺めるーー
「本日は、以上だ」