第二章•ナンバー10 ㊁
空を覆う分厚い雲のせいで、陽が閉ざされ、いつもより時間の感覚が鈍っていた。
いつもは、空の様子から、なんとなく時間というものを考えていたジェラだったが、ずっと同じ曇り空が広がるばかりで、それもよくわからなかった。
今はまだ、昼間なのかーーそれとももう、日暮れが近いのかーー。
薄暗い空が、徐々にその濃さを増していくにつれて、ジェラの不安も、同じように募っていくのだった。
身体を動かしているせいか、それとも、湧いてくる焦りからなのか、汗が吹き出し、こめかみを流れ落ちる。
(……やっぱり、〈山〉のなかだった……)
《ループ》は、例の合言葉さえ唱えれば、いつでもどこでもできるという、利点があったが、代わりに欠点としてーー《ループ》した先の、着地点を選ぶことができない。
ジェラがはじめて、恐れ戦きながら、この《ループ》というものをつかい、こちらの世界へきたときには、巨大な〈城〉を取り囲む、巨大な街のなかへ着いたのだが、なぜかそのあとは、北東に位置する、あの〈山〉のなかへと、着くようになったのだった。
正直にいえば、〈帝都・ズコー〉の、まるで迷路のように思える、どこかへ着くくらいなら、壮観な〈山〉のなかへ着くほうが、ジェラは断然よかったのだが、〈呼び鈴〉が鳴った今の状況では、そうともいえなかったのである。
(考えても仕方ない……とにかく、急ごう……)
ジェラは目指す場所へ向かうため、一気に〈山〉を下っていこうとしたが、しばらくして、ピタリと……その足が止まった。
今にも雨が降り出しそうに、少しでも早く、歩きやすい道をと、考えながら進んでいたつもりだったが、知らず知らずのうちに、かなり山奥へと、入ってきてしまっていた。
そしてーー
(なんだろう……この匂い……)
ジェラは、目を閉じると、ゆっくりと鼻から息を吸うーー
鼻腔にーー今まで嗅いだことのない、〈鮮烈な匂い〉を、感じた……。
まだ……ここからだと、その匂いのある場所へは、少し距離があるということも、なぜか不思議と、ジェラにはわかるのだった。
胸が高鳴り……ざわざわと揺れる……
……行ってみたい……!
強烈な思いが、身を突き抜けた!
大きく開かれたジェラの瞳には、爛爛と光が、宿っていた。
呼び鈴が鳴った今ーー例の場所へ、一刻も早く向かうという、最優先課題があったのだが、それも今やすっかり飛び去り、ジェラはあたかも自分が、猟犬にでもなったかのように、迷わずその匂いを、追っていくのだった。
豊かに生い茂る草木で、鬱蒼とした〈山〉のなかを、ジェラはさらに奥へ奥へと、進んでいくーー。
辺りの緑も、一層と深く濃くーーみな天へ向け、それぞれがのびのびと、枝葉をのばしていた。
平時のジェラであれば、決して近づき通らぬような、獣道そのものの、かなり足場の悪い道を、今のジェラは、はやる気持ちを抑えて、それでも慎重に、進んでいくのだった。
ときどき立ち止まっては、目を閉じて、鼻から深く息を吸い込む。
鼻腔へ届く匂いは、どんどん強くーー来た道が、間違っていなかったことを、増していく鼓動と共に、告げるのだった。
ーー濃厚なまでの、土の匂いーー
それはまるで、たっぷりと雨を含んだ土たちが、一斉に地上へ向け、発散しているようなーー圧倒される迫力ーー夏の夕立のあとの匂いに近いが、またそれともちがうーーそのなかに、刈りたての芝草を思わせる、みずみずしい緑の青臭さと、繊細にあたたかな、芳しい花の香りが、やわらかな風にそよぐように、なんとも心地よく、おだやかに揺れ、溶け合っているーー
……〈大地の匂い〉……!
ジェラの瞳が、ぱっと開いた!
今や溢れだした気持ちに、止まっていた足が駆けていくーー!
なぜこんなにも、激しく惹きつけられるのか……心を強くとらえ、震わされるのか……ジェラはどうしても、知りたかった……
すると、ほどなく、再び足が止まる。
「えっ……」
褐色の瞳が、大きく見開かれるのだった。
目の前にーーそれは、〈緑の壁〉を思わせる、巨大な茂みの壁が、忽然と現れたのだ。
すき間なく、見事なまでに繁茂した葉のすがたが、どっしりと、横一面にそびえ、連なっている。
なにものも寄せつけぬような、静謐にーー荘厳な佇まいは、ジェラがこの世界に見てきた、どれともちがうーーはじめて触れる、不思議な気配に満ち、包まれていた……。
ジェラは、しばらく時が止まったように、その場に立ち尽くしていた。
やがて、ごくりっ……と、唾を飲み下すと、まだ激しく身を打つ心臓の音を聞きながら、決心する……。
(……大丈夫……できる……)
大きく深呼吸すると、目の前に立ちはだかる〈緑の壁〉へーー進んでいった。
厚く生い茂った葉のなかへ、伸ばした両手をグイっと突っ込むと、すき間のない葉のなかを、大きくかき分けるようにして、そこへ身体を入れーーこれを少しずつ繰り返しながら、どうにか前へと、進んでいくーー。できるだけ枝葉を傷つけぬように、ジェラは足下まで気をつけながら、一歩ずつ、一歩ずつーー懸命に進んでいくのだった。
(……あれ……)
緑一色の世界に入り、だいぶ時が経ったように思えたが、どういうわけか、進んでも進んでも、一向に出口が見えない。
〈緑の壁〉は、ジェラが想像していた以上に、かなりの厚さがあるようだった。
冷たい汗と動悸に襲われ、さらに不安に追い打ちをかけたのは、先ほどからまるで……前へ進んでいるはずが、後ろへ、後退しているような……そんな感覚に、陥っていたからだ……。
パニックになりかけたジェラは、一度手を止め、乱れた呼吸を整える……。
「……大丈夫……大丈夫……」
いつもの言霊を唱え、繰り返す……。
そうして、少しずつ気持ちが落ち着いてくると、ひとつ大きく息を吸い……再び緑の世界を、信じて進み出した。
あるときから、ふっと……それを言葉にするならば、急に錘が外れたようにーー突然、身体の感覚が軽くなる。
それと同時に、ジェラはようやく、自分の身が確かに前へ進んでいることを、実感するのだった。
(もうすぐ……きっと……もうすぐだ……)
どこからか、風を感じたーー湧いてきた力に、額に汗を浮かばせたジェラは、大きく葉をかき分けていくーー飛び出した枝が、あちこち頬や捲った腕をひっかいても、もはや気にもしなかった。
力強くかき分けた葉の先にーー待ちに待った瞬間、向こう側の光が、透けて見えてくる。
ジェラは、両手を目一杯に伸ばすと、渾身の力を込めたーー!
「……っや!……」
解放された身が、ぽんっ、と、宙へ放り出されるーー
「いたっ!……」
勢いよくつんのめり、地面へ激突した。
手足をじーんと、痺れるような痛みが走る。下草の上に、四つん這いになったおかげで、頭や胸腹を打つことは免れたが、その代わり、膝と掌をしたたか打ちつけた。
痛みの波が去るの待って、ジェラはゆっくりと立ち上がる。たっぷりついた土たちを、顔をしかめて払うのだった。
そして、周りを見ようと、頭を上げるーー
……っつ……
目に飛び込んできた光景にーージェラは、息をのんだ……
言葉を失い……呆然と立ち尽くす……
目の前にーーまるで絵画のような光景が、広がっていた。
ががとそそり立つ、巨大な〈岩壁〉ーーその下に、一本のーー壮麗な〈しだれ柳〉が、典雅に根をおろしていた。
大地へ滔々と流れ出す、滝のような、そのすがたーー。涼やかな緑の葉が、さらさらと、風に美しくなびいているーー。
大樹の放つ、言いしれぬ崇高さーー対比する、黒々と荒々しい岩壁の迫力にーージェラは、全身を鳥肌がさらった……。
手足を打った痛みさえ忘れ、ただただ、目の前に広がる光景に、見入るのだった……。
どれくらい、時間が経っただろう。
ジェラはようやく、やわらかな緑の絨毯に、固まっていた一歩を踏み出した……。
〈柳の木〉へ向かい、真っすぐに、進んでいくーー。
近づけば近づくほど、ジェラは改めて、精気放つ大樹のすがたに、深く胸を打たれるのだった。
そしてーー静かに止まる。
(あなたのなかを、通らせてください……)
美しい〈主〉を見上げ、心のなかで、祈るように囁いた。
清しい風がーー柳の葉を揺らし……鳶色の髪を揺らした……。
ジェラは、視線をゆっくり下ろし、前を見つめると、背筋を伸ばし、厳かに足を踏み出した。
両手を伸ばして、そっと……葉の流れに触れる……
(やわらかい……)
ジェラのすがたが、そよぐ緑の滝のなかへ、吸い込まれていくのだった……。
辺りが急に、暗くなる。
足下から全身へーーすん……とした、冷たい空気を感じた。
ジェラは周りを、柳の葉の幻想的な世界に包まれながら、自分が今、どこか別の空間へと入ったことが、わかるのだった。
前へ伸ばした手が、突然空をきり、目の前から美しい葉たちが消えた。
ジェラは、開けた薄暗い場所に、ぽつんと立っていた。
(ここは……)
腰にあるベルトの金具につけられた、携帯用の小さなランプをとり、カチっとつける。
刹那ーー褐色の瞳が、ぱっと輝いた。
「やっぱり……〈洞窟〉だ!」
興奮したジェラの声が、ひんやりとした洞窟内にこだました。
巨大な岩壁のなかに、〈秘密の洞窟〉が存在しーーその入口を、壮麗な〈柳の木〉が守っていたのだ。
〈洞窟〉は、小さなものではなく、ジェラが今立っている入口も、天井まではかなりの高さがあった。ーー見上げる天井には、いくつか穴があいていて、そこからうっすらと、淡い光が差し込んでいた。晴れていたならば、きっと今よりもう少し、明るいのだろう。そのおかげで、洞窟内は、まったくの暗闇ではなかった。
ジェラが、明かりのついたランプを先へ向けると、〈洞窟〉の奥は、さらに広々としているようだった。
乾いた喉が、ごくりっ……と、音をたてる。
辿ってきた例の匂いも、間違いなく、この〈洞窟〉の暗がりから、流れ出していた。
(でも……)
眉根を寄せたジェラは、改めて周りを見回した……。
こうしてよくよく見てみても、〈洞窟〉のなかは当たり前に、どこもむき出しの無骨な岩肌が見えるだけで、とくに変わったものがあるわけではなかった。
ジェラは目を閉じると、意識を集中させてーーひんやりとした空気を吸い込む……。
ーー濃厚な〈大地の匂い〉に、今は、もうひとつ……
(この匂い……知っている……)
かなり薄く混ざってしまっていたが、その存在ははっきりと、ジェラに感じられた。
鼻の奥に、ぐんとつくような、独特な匂いーー。なぜか……その匂いは、ジェラの内に懐かしさを、呼び覚ますのだった……。
ジェラは自分でも、ここまで様々なことが意識へ浮かび、流れ込んでくることに、戸惑いを覚えはじめた……。
だが、頭を振ると、〈洞窟〉の奥を見据え、止まっていた足を踏み出した。
入口から、少し進むと、ジェラの瞳が地面を注視するーー。
そこにはーー細い枝が、わずかに落ちているのだった。それはごく自然な光景で、見上げれば、頭上の岩の天井には、今まで見たなかでも、一番大きな穴があいていた。外から見た岩壁の上には、緑のすがたもあったため、そこから風かなにかで、枝たちが落ちてきたのだとすれば、特別不思議なものではなかった。
しかしーージェラには、はっきりとわかっていた。
なにより匂いがーー証明していたのだ。
(焚き火……)
もう、かなり時間は経っているようだったが、確かにこの場所でーー誰かがーー〈焚き火〉をしていた。
焚き火の匂いは、そう簡単に消えるものではない。おぼろげな記憶のどこかで、その染みつくような匂いを、ジェラは覚えていた……。胸が苦しくならないことが救いに、きっとそれは、自分にとって、楽しい思い出だったのだろう……。
ぼんやり浮かび上がってきた、遠い記憶が見えた瞬間ーーずんっと胸に、痛みが突き刺し、慌てて首を振ると、一切を振り払うのだった。
ジェラは暗いため息を吐くと、右手を宙へ差し出し、高い頭上を見上げる。ーー掌を、軽やかな風がなでた。
(間違いない……ここには、風の流れがある……)
外からの空気が届き、洞窟内の空気と交わって、頭上にあいた穴から、立ち上る煙などは、出ていく仕組みになっているのだろう。
〈洞窟〉という、特殊に閉ざされた空間で、安全に火を使うのに、これほど的確な場所を知っているのだとすればーーその人物は、かなりこの〈洞窟〉へ、通い慣れていると言える……。
じっと佇み、そうして様々な考えを巡らせているとーージェラの視線がまた、別のものを捉えるーー
(あっ……)
焚き火の場所から、少し離れた反対側の隅に、〈あるもの〉を、見つけたのだ。
途端、ジェラの脳裏にーー再び、遠い記憶が、よみがえってくるのだった……。
幼い日の自分が、まさに、同じ遊びをやっていた……。細い小枝を使い、地面に絵をかくように、さまざまな形をつくり、遊ぶのだ……。
今ーージェラの見つめる先にあるのものは、三角屋根の家をつくった、その一部だった。
焚き火のほうを見れば、微かな匂いさえ残っていなければ、この場所に人がいたであろうなど、微塵も感じさせぬほど、徹底されていた。ーーそれなのに、こちらは、明らかにここへ人が存在していたことを、まざまざと残している……。
二つはーー真逆に、矛盾していた。
(忘れた……のだろうか……。ここへいたのは、大人と……子ども……?……親子だろうか……)
それともーーもっとたくさんの人たちーー
彼らも、自分と同じように、〈特別な匂い〉を辿って、この〈秘密の洞窟〉へと、たどり着いたのだろうか……。
褐色の瞳がーー〈洞窟〉の奥へーー向けられるーー
ふわーっと……濃厚な匂いを孕んだ、清冷な風が、吹き抜けた……。
耳元で揺れる、〈青い耳飾り〉が、ひとりでにぼうっと光る……。
続く暗がりの先にーー一体、なにが待っているのだろう……。
ジェラの足がーー前へ出る……
ーーケケケケケケケっー!
突如響き渡った鳴き声に、ジェラの身体が飛び上がる!
「……びっくりした……っしまった!」
呆気にとられたのもつかの間、ジェラの内に、忘れていた、重大な事実が閃くーー。
その瞬間、すべてが飛び去りーージェラは一目散に、駆けていくのだった。
今さっきまで見つめていた、〈洞窟〉の奥ーー〈青い秘密〉を、知る由もなく……。