第十二章•来る、〈乱満月〉の夜
背後で足音がし、〈月の民〉の首長は、振り返ることなく声を放った。
「到着したか」
沈黙が流れーー洞窟に響いた野太い声に対し、細く強張った声が、答えるのだった。
「……はい」
ドドアは、息子に大きな背を向けたままーー目の前にある、豪華な〈祭壇〉のすがたを、見据えていた。
両脇に、赤々と燃える松明の炎が、洞窟の岩壁に影を躍らせーー独特な神聖さとーー一種の不気味さとを、生みだしていた。
三段式の、豪華な〈祭壇〉には、さまざまな品が、美しく並べられ、捧げられていた。
その一番上ーーひと際高い台の上に、それは特別大きな〈マーン〉のすがたが、供えられていた。
ドドアが、前を向いたまま、背後にいるドマヘ、再び声を放つーー
「間違いなく、〈エレーの儀〉に、ふさわしいものだろうな」
「はい。すべての〈マーン〉から選定し、一番のものを選びました」
ドドアは、黙したまま首肯すると、その視線を、〈祭壇〉に横たえられた、立派な雄の〈マーン〉からーーはるか高い頭上へと、向けた。
壮観な岩の景色にーーぽっかりと、不自然にえぐり取られた、巨大な穴が、あいていた。
ドマの瞳も、同じ先を見つめる……。
パチパチ……と、松明の乾いた音が響くなかーー見つめるうちーードマの心のなかに、炎が木を舐めていくような……赤々とした怒りが、湧き上がってくるのだった……。
父親の顔が振り返りーー怒りの炎は、呪縛が解けたように、すうっと消えていった。
「ドマ、兄弟たちをここへ呼べ」
ドドアと、四人の弟たちは、〈祭壇〉を前にして敷かれた、真っ白なーー円形の毛織物の上に、足を組んで座っていた。
それぞれ間隔をあけ、円の中心にある、〈純白の角笛〉を囲み、向かい合う。五人の兄弟たちはーーみな彫りの深い顔貌に、片耳に貫く骨の耳飾りーー特徴的な鷲鼻をしていた。
その太い首ーー厚い胸板ーー筋骨隆々な身体つきはもちろんのことーー弟たちもまた、〈月の民〉を象徴する、美しい夜空色ーー鮮やかな青藍を帯びた長い髪を、見事なすがたに編み上げていた。
ゾゾヤーーガガラーーゼゼナーージジムーー四人の弟たちは、がっしりとした、広い顎を盛り上げ、ぐっと食いしばった歯に、こめかみにはくっきりと、青筋が浮き出ていた。
激しい憎悪、憤怒の立ち込めたしじまにーー息子のドマが横に控える、〈祭壇〉を背にして座した長兄のドドアが、ゆっくりと口を開いた。
「我が兄弟たちよ、よくぞ集まってくれた」
洞窟の岩岩にこだまし、朗々と響き渡る。
四人の弟たちは、握った両の拳を、組み座る足の前へつき、深く頭を下げて、兄の言葉に応えるのだった。
次兄のゾゾヤが、大きな鷲鼻から息を吸い、口を開くーー
「兄上、我らはみな、覚悟ができております。 この命ーー恐ろしき穢れた〈魔物〉を打ち倒すためーー我ら〈月の民〉の、気高き誇りを取りもどすためーー全身全霊を注ぎ、捧げる所存であります」
ガガラ、ゼゼナ、ジジムの三人もーー底光る眼に、力強く頷いた。
ドドアは、向けられた、兄弟たちの決意の眼差しをーーじっくりと、時をかけて見ていった。
「愛するものたちの血が、酷く流れるやもしれん」
響き渡った、低い声にーー三兄のガガラが答える。
「〈魔物〉を打ち倒した暁には、その勇者の名が、我ら〈シシン族〉のなかに、永久に称え語り継がれていくことでしょう」
ドドアは、ガガラの顔を真っすぐに見据える。ーー再び、兄弟たちの顔を見回した。
そして、静かにーー瞼を閉じる………
荘厳な岩の洞窟をーー深々とした沈黙が、満たすのだった。
ドドアの瞳がーー開かれる………
「〈乱満月〉の夜ーー我らは、〈魔物〉の首を斬り落とす!」
雷鳴のごとく、轟いた声にーー四人の弟たちが、圧巻の遠吠えをあげるのだった!
凄気の満ち満ちた静寂にーードドアの声が継ぐーー
「天は、我らに味方した」
その言葉に、四兄のゼゼナが身を乗り出した。
「では……やはり……」
弟たちの、興奮と緊張が、入り交じった視線の先ーー気魄を湛えた顔が、首肯する。
「今年の〈乱満月〉は、未曾有のはやさに、もうまもなく迎える」
ごくっ……と、屈強な男たちが、そろって生唾を飲み下すのだった……。
横広い額に、大粒の汗を浮かばせた、五兄のジジムが、つぶやくように、口を開く。
「……〈乱満月〉まで、まだ日があるはずのここ数日、〈赤馬〉たちの様子に、落ち着きがなくなっていた……。〈乱満月〉が、もうすぐに迫っているのならば、視覚はおろか、聴覚ーー嗅覚ーーと、すでに〈赤馬〉たちの感覚が、日ごと高まってきているのだ……」
松明が爆ぜ、火の粉が高々と舞い上がる。
ひんやりと、異様に静まり返った洞窟にーードドアの低い声が放たれる。
「我らが、その日にことをしかけようとは、恐らく相手も、見抜いていることだろう。 しかし、〈乱満月〉が、それほどはやくにやってこようとは、我ら〈月の民〉をのぞいて、他に知るものはいない」
「我らは、そこを突く……」
ゾゾヤの、熱のこもった声が、長い余韻をもって、消えていく………
「三日後に、出発する」
響き渡った、ドドアの声にーー四人の弟たちが、大きく頷いた。
「我らを裏切った王は、どうされますか」
怒りに戦慄いた、ゼゼナの声が通る。
刹那ーードドアの纏う気配が、目に見えて、色を変えた……。
「〈魔物〉を打ち倒し、同じ刃で、この国の王の首も斬り落とす」
ぞわりと、肌の粟立つような……凄みのある声だった……。
そのときーー固い岩の上を打つ音に、全員の眼が、同じ先へ向くーー
「なにをしてるっ!」
ドドアの怒号が轟いた!
「申し訳ありません……」
ドマが、血の気のない蒼白な顔で、落とした石の盆を、慌ててひろい上げた。
「〈エレーの儀〉をはじめる。その大役、しかと務めよ!」
放たれた、威厳ある声に、ドマは冷たくなった身を、深く下げるのだった。
重い石の盆を手に、〈祭壇〉の前へ進むと、一度厚みのある盆を床へ置き、二段目の台の中央に置かれた、〈白い小さな壺〉と、〈五つの杯〉ーー(よく見るとこれらは、すべて動物の骨や角で、できていた)ーーを、慎重に四角い盆の上へ、のせるのだった。
ドマは、緊張した面持ちで、まず、ドドアの脇へ片膝をつくと、ひとつの杯を、厳かに、その目の前へ置いた。
そして、片膝をついた姿勢のまま、左手で重い盆をもち支え、決してよろめくことがないよう、身体のバランスを保ちながら、右手にもった白い壺の中身を、真っ白な敷物の上へ置いた、小さな杯へーー一滴もこぼすことなく、注いでいくーー
ドマが白い壺を傾けると、細い口から、真っ赤な液体が、出てくるのだった。
そのすがたはまさにーー〈血〉ーーそのものだった。
一見ぞっとするような光景をーー場にいる全員が、引き締めた表情ひとつ動かさず、厳粛な面持ちで、見つめていた。
そうしてドマが、五つすべての杯に、無事〈血酒〉を注ぎ終えると、辺りに、すぅっとする薬草のような香りと、その匂いだけで酔ってしまいそうな、強烈な酒の香りが、漂うのだった。
ドドアがゆっくりと、〈血酒〉の満たされた、角の杯を手にとる。
それを合図にーーゾゾヤ、ガガラ、ゼゼナ、ジジムの四人も、手を伸ばして、骨の杯をとった。
五人の男たちは、真紅の杯を、頭の高さへかかげると、瞼を閉じた………
「〈神獣〉と〈始祖〉ーー〈ムー〉と〈エレー〉へーー」
ドドアが唱え、瞼が開くーーー
現れた、炯々たる眼に、深く息を吸うーーー
「我らに力をっ!ーー我らに勝利をっ!」
『我らに力をっ!ーー我らに勝利をっ!』
男たちの叫びが、広い洞窟中を打ち震わすと、かかげられていた五つの杯が、一斉にーー飲み干されるのだった。