第二章•ナンバー10(テン)㊀
ジェラが、例の合言葉を唱えて、《ループ》した世界は、さきほどまでいた世界と打って変わって、どんよりとした、分厚い雲が空を覆っていた。
さらに言えば、さきほどまでいた世界との違いは、この天気だけではない。
満たす大気ーー生きる人々ーーそして、なんといっても、構築された世界全体が、まるで違ったーー
ジェラが今立っている、足の竦むような山の断崖からは、その圧倒的な世界のすがたが、一望できた。
見渡す景色のなかで、まず目に飛び込んでくる、巨大な〈城〉ーー。
他を突き放すようにして、厚い雲に頂を隠し、天を摩すばかりにそびえ立つすがたは、まさに、王者そのものだった。
銀色に輝く鱗を、巨大なからだの隅々にまで纏いーーときおり、雲間から差す微かな光に、研ぎ澄まされた刃のごとく、冷ややかな光沢を放っている。
そして、どこまでも豪奢な〈城〉の周りには、三百六十度ーーまるで、下々が平伏すかのように、おびただしい数の建物たちが、連なっているのだった。
中心にある〈城〉から、東西南北に、四本の白く太い血管が伸びている。その血管と共に、完璧に並んだ建物の列が、見渡すはるか先まで続いていき、それは見事な放射美を作り上げていた。
〈帝都・ズコー〉ーー
ジェラには、眼下に広がる光景が、〈巨大な蜘蛛の巣〉に思えて、ならなかった……。
みぞおちから全身に、ひんやりとした感覚が、広がっていく……。
こうして上から見てみると、帝都のすがたは、中心にいる〈親蜘蛛〉を守るため、緻密に計算された形をしていた。
〈城〉にとっては、周りを囲む街全体が、まさに堅固な城壁ーー。
街に暮らす人々は、おそらく……そのことに気づいていない……。そして……いざという時がきてはじめて……
ジェラは、じわりと汗が滲み、その先の言葉が浮かぶ寸前に、大きく首を振った。
(だめだ……だめだ……)
なんでも物事をすぐに、悪い方へ、悪い方にと考えるのが、抜け出せぬ自分の性であり、うんざりするほどの欠点だった。だから、いつも不安に襲われ……常に怯えているのだ……。嫌気がさすのに、もう慣れてしまい、諦め半分、苛立ち半分ーーそれでもたびたび、己のあまりの弱さに、どうにも張り倒したくもなる。
いつの間にか、浅く速くなっていた息を、ジェラは鼻から深く吸うーー。
暗く沈んだ瞳を、遠くへ向けた。
〈城〉に近ければ近いほど、いかにも立派な屋根たちが顔を連ねーーそれは端へ端へと追いやられるように、惨めな光景へと、様変わっていく……。
この世界も、いかに権力というものを崇拝し、その強大な力をもってまわっているかが、はっきりと表れていた。
《光》と《影》ーーたとえどこへ行こうとも、決して切り離すことのできぬ、二つの存在が、ジェラの目に、まざまざと映るのだった。
「大帝国……〈リグターン〉……」
ジェラは、掠れた声でつぶやくとーー後ろへ、振り返る……。
そこには、今まで眼下に見ていた光景とは一変して、緑美しい〈山〉のすがたが、あるのだった。
鮮やかにしたたり、輝くような精気に満ち溢れた、青々とした木々たちーー。
それは、力をもった人間が、あらゆる技術をもってしても、決してかなうことのない、〈真の美しさ〉というものを、壮大なすがたで、物語っていた。
ここにはちゃんとーー脈々と受け継がれる、〈いのちの息吹〉があるーー。
ジェラの顔が再び、崖のほうへ向く。
もはや人の世界に支配され、その人々がやってくるはるか昔から、この地にいたであろう、〈緑の主〉たちは、遠くーー片隅へと、追いやられていた。
豊かな緑で覆われたそのなかに、点々とーーまるで、虫に喰われたような穴があいているのを、ジェラの瞳は見ていた。ーーまだ小さな穴もあれば、かなり大きく目立つ穴もある。すでに痛ましく、ごっそりと山肌がむき出しになっているところも、いくつかあった。
そのいびつな穴のたちの正体は、すぐにわかった。
ジェラの手が、ぎゅっと、握られる……。
人間がーー山の木々たちを、情け容赦なく、切り倒しているのだ。
どこまでも残忍な、人間という刃は、すでにそのいくつもの尊い存在をーー古の〈緑の主〉たちをーー破壊し、この地から消し去ってしまったことは、見渡す景色のなかに、明らかなことだった。
暗い影を映したジェラの顔が、ゆっくりと、背後の〈山〉を見上げる。
(きっと、この先……)
この〈山〉も、切り倒されーー踏みにじられーー多くの命育む豊かな環境が、跡形もなく、消し去られてしまう日も、そう遠くはないのだろう……。
一度壊してしまえば最後、再びもとのすがたへもどるまで、一体、どれほどの年月がかかることか……。
胸が、締め付けられる苦しさに、ジェラは思わず、目を閉じた……。
ーー人間の欲は、とどまることを知らない
その道が、どういう運命を辿らせるのかーー無力な少女が知っていたとしても、どうすることもできなかった。
本当に……人間という生きものこそ、一番恐ろしい存在なのだ……。
目の前に広がる、〈山〉の景色が、ジェラの目には確かに映っているのだが、見えているようで……見えていない……。
ジェラはまた……いつのまにか……暗く閉ざされた殻の内へ、引き込まれていた……。
ズキンっとーー走った痛みにーーようやく、ジェラの意識が、光のあるもとへともどってくる。
ぼんやりと虚な目で、痛みの先を見つめると、きつく握られた拳が、映るのだった。ーーずっと強い力で、握り続けていたため、爪が、掌に深く食い込んでしまっていた。
ジェラは、そっと拳を開くと、ふぅ……と、長く息を吐きだした。くっきりと残った爪のあとに、うっすらと血が滲んだ。
ジェラはじっと見つめ、もう一度、深いため息をつくのだった。
ゆっくりと顔をあげ、目の前に広がる、幽玄な〈山〉のすがたを見る。
そうして、なにを思うでもなく、しばらくの間眺めていると、少しずつ、心が落ち着いていくのを感じた。
(……そろそろ、行こう……)
ジェラは、心のうちにつぶやくと、止まっていた足を踏み出すーー
青々と生い茂る〈山〉のなかへ、消えていった。