第十一章•〈花〉の秘密と、〈翼をもつ者〉㊁
ソルビは、顔にふわっと《風》があたり、花を摘んでいた手をとめた。
小さなまるい顔に、ぱっと嬉しそうな笑みが咲く。
ソルビは、手に持っていた、明るい黄色の花たちを、大切そうに胸に抱えると、向こうに見える、〈緑の壁〉へーー駆けていくのだった。
そこには、ついさきほどまでなかったはずの穴が、あいていた。
しかし、ソルビは驚いた様子もなく、ちょうどなかから出てきた人物を、満面の笑顔で出迎えた。
「マーロ、おかえりなさい」
荷車と共に現れた、老齢な男の顔に、疲れたような笑みが浮かぶ。
「ああ、ただいま」
男が出てきた背後でーーシュルシュルシュル………と、音がするーーー
蔦のように伸びてきた枝葉たちが、〈緑の壁〉にあいた穴を、塞ぐのだった。
その様子を、興味津々に見つめていたソルビの瞳が、目の前にいる、老人へ向けられる。
「マーロ、みて! こんなにたくさんとれたよ!」
胸に抱えていた、明るい黄色の花束を、幼子は嬉しそうに、差し出してみせた。
「ああ、きれいだ。 今年は〈ポポの花〉がよう咲いとる。ここ数日で、みな一斉に花弁を開かせたんだな」
「か……べん?……」
ソルビが、母親に似た、長いまつげをパチパチさせながら、老人の顔を見上げる。
マーロはすぐに、束の間の物思いから、覚めるのだった。
「これはすまん。おまえさんには、まだ少し難しい言葉だったな。 花弁というのは、その黄色い花びらたちのことだ」
日焼けし、節の浮いた指が、〈ポポの花〉の、細かなたくさんの花びらたちに触れる。
「あぁ! はなびら!」
ソルビは黒い瞳を輝かせ、手のなかにある、黄色の花たちを見つめた。
「〈ポポの花〉が、好きか」
「うん!」
春の陽だまりのような笑顔に、見つめる灰色の瞳には、物悲しげな光が、映っていた。
マーロが荷車を引き、進み出すーー
ソルビもその横を、一緒について歩くのだった。
二人が進む、緑のやわらかな草地には、まるで太陽の妖精たちが、楽しげに集うように、まるく愛らしい〈ポポの花〉たちが、あちらこちらに、咲き乱れていた。
そうして、二人がーー壮麗な〈柳の木〉のそばまでやってくると、マーロの足が、ゆっくりと止まる。
引いてきた荷車の持ち手が上がり、布の覆った重みのある後ろ部分が、地面へ着き傾くと、老人は幼子の横へまわり、静かに片膝を折って、その顔を真っすぐに見つめた。
「ソルビ、私はこれから、〈洞窟〉のなかで、いつもの少し危ない仕事をしなくちゃならない。 私が呼びに出てくるまで、外で待っていてくれるか」
低く真剣な声に、緊張を映したまるい顔が、こくんと頷く。
「わかった……」
ソルビは、あの不思議な《風》が吹いてくると、マーロがいつもとはちがうように、〈緑の壁〉から現れることーーそして、引き連れた荷車と共に、しばらくの間、ひとり〈洞窟〉のなかへ閉じこもってしまうことをーーもうすでに何度も経験して、わかっていた。
ソルビは、手にもっていた〈ポポの花〉を、老人へ差し出す。
「これ……マーロにあげる」
皺の刻まれた乾いた手が、明るい花束を受け取る。
「ありがとう。 大切に、使わせてもらうよ」
小さな頭が頷き、見つめる大きな黒い瞳に、不安の色が映る。
「マーロ、きをつけてね……」
老人の顔が、深く頷かれると、まるい瞳から、不安の影が消えていった。
ソルビはくるりと向きを変え、駆けていくーー
そして、振り返りーー笑顔で手を振る。
立ち上がったマーロの手が、振り返すのだった。
白い蝶たちの舞う、緑と黄色の絨毯の上を、駆け去っていく小さな後ろすがたを、暗い灰色の瞳が見つめ、再び荷車へもどっていった。
ジェラは、〈緑の壁〉のなかを進んでいたーー
あれからしばらくは、ただ呆然と、その場に立ち尽くすばかりだったが、だんだんと気持ちが落ち着いてくると、徐々に……決意も固まってきた。
ここで……逃げ出すわけにはいかない……。
なにの根拠もなかったが、マントの老人が、危険な敵であるとは、どうしても思えなかった。
それでも、正直……ジェラは怖かった。
なぜなら、相手は……〈ふつうの人間〉では、ないのだ……。
これまでに見てきたことを思うと、痺れたような肌の上を、冷たい鳥肌が立たずにはいられなかった。
だがーーとうとう……黒い長靴が踏み出された。
ジェラは、先ほど見た、アーチ形の入口が現れたところから、〈緑の壁〉に入っていった。
しかし、そこはーーやはりびっしりと、すき間なく、枝葉が生い茂っているのだった。
ジェラは前回の経験を生かしーー乱れようとする心を静め、四方八方を包み込む、みっしりとした緑のなかを、大きく手を伸ばし、かき分け進んでいった。
はじめて〈壁〉のなかを通ったときとはちがい、今度は後ろへもどされていく感覚もなく、しっかりと前へ、進めているようだった。
懸命に、歩一歩と進んでいきーーようやく、見覚えのある光が、見えてきた。
汗の滲んだ、身の内の鼓動が速くなる。
大きく息を吸い込むとーー大きく手を伸ばし、グイっと、力強く、葉をかき分けた!ーーー
「……いっ……」
ジェラの身体が、ぽんっと宙へ、放り出される。
ただ今回は、最後がわかっていただけに、ぎりぎりのところで、なんとか地面へ転ばずに、立ったまま、踏み止まることができたのだった。
ジェラの口から、ふぅーっと、長く息が吐き出される。
刹那ーー人の気配を感じて、強張る顔がはっと、横へ向けられた……
「あっ……」
ジェラの身体とーー相手の身体もーー互いにピタっと、固まった……。
見開かれた、ジェラの視線の先にーー可愛らしい、小さな女の子が、立っていた。
途端、ジェラの脳裏へーー〈洞窟〉のなかで見つけた、あの枝遊びの光景が、浮かび上がるのだった。
(この子だったんだ……)
小さな頭に、淡い青紫色の、美しい布を巻いた女の子は、手にしていた黄色の花のすがたと同じに、まんまると、その大きな瞳を開いていた。
固まる二人の周りに、白い蝶たちが、ヒラヒラと長閑に、舞っていた。
急に動いては、女の子を怖がらせてしまうと思い、ジェラはできるだけゆっくりと、膝を折り、静かに女の子のいるほうへ向き直ると、そっと口を開くのだった。
「こんにちは……」
囁くように、ジェラが言うと、それでも女の子は、一瞬ビクっと、細く小さな身体を縮ませた。
「それ……きれいなお花だね」
ジェラが指差すと、女の子は、黒いまんまるの瞳で、手に持っていた黄色の花を見た。
「〈ポポのはな〉……」
ぱっちりと開いた目で、再びジェラを見つめ、つぶやくように言う。
「〈ポポの花〉っていうの?」
女の子が、こくりと頷く……。
互いに見つめ合ったまま、無言の時が流れるーー
名前を聞いてみようか……ジェラが迷っていると、女の子が一歩ずつ、近づいてくるのだった。
小さな顔に、まだ不安の色を浮かべながらも、女の子の手が、そっと差し出される。
その手にはーー一本の、〈ポポの花〉があった。
「……私に、くれるの……?」
「うん……」
ジェラは、驚かせないよう、ゆっくりと、愛らしい黄色の花を受け取った。
「ありがとう」
ジェラが微笑みお礼を言うと、女の子は初めて、小さな笑みを見せるのだった。
ジェラは、目の前にいる女の子が、じっと、自分の髪を見つめていることに、気がついた。
褐色の瞳が、女の子の頭に巻かれている、美しい色の布にとまる。
ドクっ……と、苦しく心臓が打った……。
浅く速くなった呼吸を、深くゆっくりと吸い……胸に湧いた暗い影を、静めるのだった。
ジェラは、後ろで高く結んだ髪を掴むと、肩の前に垂らす。
「鳶色って、いうんだって」
「とびいろ?……」
「うん、空を飛ぶ、大きな鳥さんの色」
女の子の表情が、ぱあーっと輝いた。
「とりさんすき!」
「私も好き!」
二人の顔に、笑顔が浮かぶ。
「きれい……」
つぶやいた女の子が、なにか言いたげに下を向き、あ、と気づいたジェラが、静かに口を開く。
「もしよかったら、触ってもいいからね」
女の子の顔が、ぱっと見るのだった。
「ほんとうに……?」
「もちろん」
ジェラが笑顔で頷く。
女の子の小さな手が、おずおずと、鳶色の長い髪に触れる……
黒い瞳が、爛々と輝いた。
「すごい……やわらかい……」
女の子は、まるで特別なものにでも触れるように、小さな掌で、そっと優しく、艶やかな髪をなでるのだった。
ジェラは、その様子をーーぎゅっと唇を噛み締めて、見つめていた……。そして、ひとつ息を吸うと、口を開く。
「あなたのお名前は?」
髪に触れていた小さな手が、ぱっと離れるのだった。
「私はジェラっていうの」
ジェラが慌てて、言うのだった。
女の子の黒い瞳が、揺れ動き……薄い唇が、かすかに動いた……が、なかなか声は、出てこなかった。
それでもジェラが、じっと待っているとーーやがて……細い声が聞こえる………
「……ソ……」
そのときーー別の声が名を告げたーー
「ソルビ!」
二人が驚いて、同時に顔を向けると、壮麗な〈柳の木〉の前に、灰色のマントを纏った、あの老人のすがたが、こちらを強く見据えていた。
「マーロ! おきゃくさんだよ!」
ソルビが嬉しそうな声を上げ、老人のいるほうへ、わっと駆け出していく!
吹いてきた風が、柳の葉を揺らしーージェラの耳元に下がる、〈青いしずくの耳飾り〉を、揺らしたーーー
ジェラと男の瞳がーー再び、真っすぐに結ばれるのだった………
白い髭に覆われた、男の口からーー震えるように、声が漏れる……
「〈ナリアの目〉……」
離れたところにいるジェラにも、不思議と……その言葉が、はっきりと聞こえた。