第十一章•〈花〉の秘密と、〈翼をもつ者〉㊀
ジェラは〈夢〉を見ていた………
瑠璃色の美しい水のなかを、自分が立つように眠っている………
苦しくもなければ……すべての重みから解放され……そこには、自分の《魂》だけが、〈核〉として存在していた………
ふいに、〈声〉がきこえてきた………
それはなんともいえず、心地よい……〈光の声〉………
••••••目覚めなさい••••••〈鷲〉のそばへ••••••
(……〈鷲〉……)
閉じていた瞼が、ゆっくり開くーー見渡す限り青く澄んだ、そのはるか先からーーなにか眩しく光るものが、水中を滑るように、近づいてくるのだった………
ぼんやりとした視界に、眺めていると、それは〈輝く光を纏った、大きな鳥のすがた〉だったーーー
立派な翼が、力強く羽ばたくたびーー瑠璃色の世界に、きらきらと、弾けるような光の粒が泡立つ………
こちらへ真っすぐに近づいてくる、〈勇壮なすがた〉を見つめながら、ジェラは驚きもせず……また、恐れもしなかった………
重みが解き放たれた右手を、そっと前へ、差し出す………
ジェラの目が、ぱっと開くーー
(……夢……か……)
一瞬間、自分どこにいるのかわからなかったが、仄暗い視界に、ぼんやりと、なめらかな白の天蓋のすがたが映り、記憶がもとの位置へ、収まるのだった。
(あれは……なんだったんだろう……)
それにーーあの〈声〉ーーー
ジェラはゆっくりと、身を起こす。
まだ夢の感覚が鮮明に残り、身体の重さに静かな驚きを受ける。
顔を横へ向けると、隣のベッドでぐっすり眠る、アリーのすがたが映るのだった。
眠気はすっかり去り、疲れのほうも随分と良くなっていた。
ジェラは音を立てないよう、床に揃えてあった長靴を履くと、ベッドを離れーーバルコニーへ向かった。
自分でも、なぜそうしたのかはわからない。
外の空気を、吸おうとしていたのかもしれない。ーーただ、このとき……ジェラは気づいていなかったが、耳元に下がる、〈しずくの耳飾り〉が、再びぽうっと、青い光を宿していた……。
明かりはつけず、薄暗い部屋のなかをそろそろと進み、バルコニーへ出るガラス戸を開け、広い外へ出る。
夜明け前の青い闇が、ひんやりと身を包んだ。
ジェラは深く息を吸うと、長く吐き出す。
神聖な静寂のなか、黒く艶やかな欄干のもとへ、進んでいった。
まだ眠りについた、〈街〉の景色にーー常夜灯の銀色の光が、幻想的に咲き乱れていた。
ジェラは、濡れ羽色の欄干に手を置いたまま、その光景を眺めていた……。
褐色の瞳が、空き家のあるほうへ、向けられる。
(〈鉛の屍〉は、まだ無事だろうか……)
空き家の見張りに立つ、二人の中級兵士も、何事もなく、無事でいるだろうか………
刹那ーージェラの脳裏へ、威圧的な顔が睨み、浮かび上がるのだった。
穏やかに打っていた心臓が、せわしくなり、ジェラは慌てて振り払うように、首を振った。
ーーと、そのとき……耳に、かすかな物音が聞こえた。
ピタリと息を凝らし、耳をすませたジェラは、音の聞こえてきた方へ、広いバルコニーを静かに移動するーー
冷たい欄干を握り、下の通りへ、目を向けた……
(あっ……)
青い闇のなかーー褐色の瞳が、大きく見開いた………
ドクっ、ドクっ、ドクっ…………
心臓がーーまるで太鼓のように、全身を打ち響いていた……。
ジェラは今ーー身を隠した茂みのすき間から、息を殺して、視線の先を見つめていた。
陽はすでに空高く昇り、鬱蒼と、豊かに生い茂った木々たちの葉むらから、深い緑の世界に、白く美しい木漏れ日を踊らせていた。
ジェラの鼻が、大きく膨らむ……
鼻腔いっぱいにーーあの鮮烈な匂いーー濃厚なまでの〈大地の匂い〉が、満ちるのだった………
ジェラは、〈ラッゾ〉のバルコニーから、夜明け前の薄青い通りのなかに、見覚えのある、マントすがたの人影を見た。
前に、そのすがたをどこで見たのかーージェラはすぐに思い出した。
深々と頭巾をかぶった人物は、うしろに空の荷車を引き、空き家のある方へ向かっていく。
ジェラは急いで部屋のなかへ入ると、まだ寝室のベッドでぐっすり眠っている、アリーを起こさず、そのまま一人で、部屋を飛び出したのだった。
〈ラッゾ〉を出て、建物の角を曲がってからのことは、強烈な記憶にーー焼き付いている。
マントすがたの人物は、迷うことなく、見張りに立った二人の中級兵士のもとへ、近づいていった。
招かれざる客ーー異変に気づいた兵士たちが、腰にある剣へ手をかけ、制止するよう求めたが、マントの人物は、構わず進み続けた。
二人の中級兵士が、ついに剣を抜き放ち、鋭い声で最後の通告をしても、荷車を引いた相手は、やはり、まったくその足を止めようとはしなかった。
このままでは……と、物陰に身を潜めていたジェラが、思わず凍りつくなかーーそれは突然、極めて奇怪な出来事が起こった……。
離れたところから見ていたジェラには、一瞬間、なにが起きたのか、よくわからなかった。
くたびれた、マントすがたの人物が、足を止めたーーと、思った刹那、剣を構えた二人の兵士の顔が、たちまちガクンっ……と、胸へ落ちたのだ。
そのすがたはまるで……上から吊るされていた糸が、見えない刃で、ぷっつりと切られたかのようだった……。
二人の兵士は、その場に突っ立ったまま、頭だけが、重く不気味に垂れていた。
マントの人物は、何事もなかったように、再び荷車を引いていく。
すると……前に立ち塞がっていた兵士のすがたが、おぞましく頭を垂らしたまま、道をあけるように、両脇へと退いた。
マントの人物と、空の荷車が空き家のなかへ消えるとーー顔を落とした、操り人形のごとく二人の兵士は、もとの位置へもどり、手にあった剣を、もとの鞘へ収めるのだった。
強張る褐色の瞳が、視線の先に映る人物から、その目の前に広がる光景へと移る……
ここまで、懸命に跡をつけてきて、たどり着いた場所こそーージェラに、さらなる衝撃を与えたのだった。
そのすがたは、決して見間違えようのないもの……
(……〈緑の壁〉……)
心の内で、つぶやく……。
あの〈秘密の洞窟〉へと通ずるーーまぎれもない、入口ーーー
不思議な厚い壁を抜ければ、忘れもしない……絵画のような世界が、広がっている……。
ジェラの視線が再びーー〈緑の壁〉の前に立つ、色褪せた灰色のマントすがたの人物へ、とまるのだった。
こちらに背を向けた相手の後ろには、ここまで引いてきた、いかにも年季の入った、荷車のすがたが見えた。
その荷車には、乗せられた〈なかのもの〉を覆い隠すように、灰色の大きな布が、しっかりとかけられていた。
(……っ!……)
ジェラの息が、ピタリと止まる……。
のぞいていた茂みのすき間から、さっと目を離すのだった。
相手がーーすばやく振り返ったのだ。
口から飛び出さんばかりに激しく打つ、心臓に手を当て、ジェラは静かに呼吸を整える……。
そして……再び、恐る恐る……目をもどした……
(……あっ……)
褐色の瞳が見開くーー
視線の先にーー大きな頭巾を払い落とした、真っ白な頭が、光り映っていた。
すると……静まり返ったあたりに、突如不思議な《風》が、湧き起こる………
それは、老齢な男の周りから、まるで張り詰めた水面に広がる波紋の如く、幾重にもなって生まれ、輪を描き……広がっていく…………
静かだった木々たちが、みな一斉に、ざわざわと揺れはじめるのだった。
ジェラが、息をのむ……!
〈緑の壁〉に、驚くべき変化がーー隙間なく、みっしりと生い茂っていた枝葉のなかに、大きな荷車が通れるほどの、アーチ形をした、緑のトンネルのような入口が、現れたのだ!
真白な頭をした男のすがたが、荷車と共に、トンネルのなかへと、吸い込まれていった………
シャルシュルシュル…………
蔦のように伸びてきた枝葉たちが、またもとのすがたに、穴を塞いでいくのだった。
緑のトンネルが消えたのちーージェラはようやく、隠れていた茂みから立ち上がり出る。
呆然と……その場に立ち尽くしたまま……青々と生い茂る、巨大に摩訶不思議な〈緑の壁〉を、じっと見つめた………