第十章•〈鉛の屍〉㊄
アリーとジェラは、心の内で、他のメンバーたちに申し訳なさを感じつつ、それでも、〈ラッゾ〉のおもてなしを、ひととき堪能したのだった。
これから待ち受けている不安を、束の間忘れることができたほど、すべてが、素晴らしいものだった。
なかでも二人が、決して忘れることはないだろうと思ったのは、やはり、あの幻の果実ーー〈メーシュ〉を使った、〈シュシュレ〉というお菓子だった。
一口噛めば、サクっ……ジュワっ……何層にも重なった、極薄い生地の食感ーーなかに詰まった、〈メーシュ〉の蜜煮の香しく濃厚な甘さーーたっぷりとしみ込んだ、シロップの存在ーー。
それはまさに、この上もない、夢見心地の味だった。
オリが、大きなワゴンと共に、部屋を出ていったあとーー再び広々としたテーブルを前に、ジェラはそわそわと落ち着きがなかった。
座っている足の上においた手を、握ったり……開いたり……せわしなく動かしていた。
部屋の奥にある浴室を、見に行っていたアリーのすがたがもどってくると、ジェラはぱっと立ち上がる。
「アリーさん、私……ちょっと、オリさんのところへ行ってきます。……聞き忘れたことがあって……」
ジェラの様子に、アリーは訝しげな目で見つめていたが、その顔に微笑が浮かび、ゆっくりと頷いた。
「うん、わかった」
ジェラは心の内でほっと息を吐き、一人部屋を出た。
扉の外はーー天井の高い、広いホールのような空間になっていた。
ジェラが今出てきた、〈特別室〉の豪華な扉の前には、部屋へくるときにも上ってきた、玄関ホールからつながる、大階段のすがたがありーー風格ある階段を中央に、挟むようなかたちで、反対側の階段のおわりの先に、女中のすがたはあった。
オリは、半月形の弧を描いたカウンターのなかで、なにか手元にあるものを、一心に見つめていた。
よほど集中しているのか、ジェラが部屋を出て、近づいて行っても、女中はまったく気がつかなかった。
ジェラは、邪魔をしては申し訳ないと、しばらくは近くで、そのまま立ち止まっていたが、それでも相手が、一向に気づく気配がないとわかると、ためらいつつも、さらにゆっくりと、近づいていった……
ジェラの目に、オリの手元にあるものが映るーー
「え……」
ジェラは無意識のうち、声が漏れ出ていた……
オリの顔が、はっと上がる。
「大変失礼をいたしました。……どうかなされましたか?」
女中は、努めて平静を装いながら、手元にあった羊皮紙の束を、慌ててカウンターの下へしまった。
まるい顔はにこやかに微笑んでいたがーー隠しようがなく、青ざめていた。
ジェラは、激しい動悸に、自身を落ち着かせるように、深く息を吸う……。そして、口を開いた。
「オリさん……さっきのもの……」
女中の顔からーー笑みが消えた。代わり、面の裏にあった、悲しみの色が広がる……。
「はい……この近くの空き家で見つかった、〈鉛の屍〉です……」
微かに震えた声で言うと、カウンターの下から、一度はしまった、羊皮紙の束を取り出す。
ジェラの瞳にーー黒い鉛筆のようなもので丁寧に描かれた、〈鉛の屍〉のすがたが、映るのだった。
それは、あの空き家のなかで見た、青年のすがたーーそのものだった。
「他のも……全部……」
ジェラの強張った声に、オリが頷く……。
黄味を帯びた茶の瞳が揺れ動く……
「不謹慎であるということは、重々承知いたしております。……ですが、なにとぞ、お見逃しいただきますよう、お願い申し上げます……」
震えた身が深く下げられる。ジェラは慌てて、口を開いた。
「オリさん、顔を上げてください。誰にも言うつもりはありません。それに、オリさんを責める意味で、言ったのではないんです」
長い沈黙が流れーー震えた身が、恐る恐る……上がるのだった……。
ジェラは緊張した眼差しに、真っすぐ、相手の怯えた瞳を見つめた。
「一つ、聞いてもいいですか……」
「はい……」
心臓が再び、早鐘を打ち……ジェラはゆっくりと息を吸う……
「今までどうやって、〈鉛の屍〉を描き続けてきたんですか。 〈鉛の屍〉が見つかれば、すぐに〈城〉の人たちがきてしまいますよね。 それに、他の人たちの目も……」
オリは、少しの間、黙していた。
やがて、口を開いたときーーその瞳から揺れは消え、強い決意を感じさせる光が、宿っていた。
「〈鉛の屍〉が見つかるのは、いつも、〈街〉の人々が動き出す、陽が昇りまもない朝方でした。 そして、見つかる間隔というのも、ほとんど同じほどです。 私は、それらのことを合わせまして、そろそろというときに、夜明け前から〈街〉に出て、空き家を重点的に探していました。……不思議なもので、いつも最後には、必ずそのもとへたどり着けるのです。 そうして、〈鉛の屍〉を描き終えたあと、人が来る前に、その場を去ります。 ですが、これだけは誓って申し上げます。 私はその際なにかに触れたり、動かしたり、その場から持ち去るということは、小石一つにいたりましても、一切いたしておりません。 ただ近くで静かに、〈鉛の屍〉のすがたを、描くだけでございます」
「花を手向けたりは……」
オリは首を振る。
ジェラの肩から、力が抜けるのだった。
「話してくださって、ありがとうございます」
女中は深く、身を下げた。
オリの言葉にーー嘘偽りはないと、ジェラは思えた。
女中がゆっくりと顔を上げ、瞳からこぼれ落ちた涙を、手でさっと拭う。そこで、ふと……なにかを思い出したように、目の前にいる、相手を見つめた。
「ジェラ様、なにかご入用が……」
ジェラはその瞬間、はっと思い出すのだった。
「あっ……すみません。 実は……その……オリさんに、お聞きしたいことがあって……」
動揺の名残に、少し疲れたような色が見えたが、それでも女中のまるい顔には、再びやわからな微笑みが浮かんでいた。
「なんなりと、おっしゃってください」
「その……気を悪く……しないでください……」
「はい、大丈夫でございますよ」
ジェラは、ごくっ……と、唾を飲み込む。
「ネズミは、でますか……」
オリの目が、まるく見開き、パチパチと瞬くーー
「……ネズミで、ございますか?」
「はい……」
相手の真剣な眼差しに、あたたかさを孕んだ、真剣な目が見つめ返す。
「そちらのほうは、ご安心いただいて、大丈夫でございます。 〈ズコー〉は大きな〈街〉でございますので、〈ネズミ〉などの生きものもいないとは言えませんが、この〈ラッゾ〉では、定期的に駆除を専門とした者たちに依頼し、徹底的に努めております。 ですが、万が一ということもございましょうから、もしなにか、気になることがございましたら、部屋の〈呼び鈴〉をお使いいただき、すぐにわたくしをお呼びくださいませ」
オリの言葉に、ジェラはほっと、詰めていた息を吐き出した。
「ありがとうございます」
そのときーー背後で、扉の開く音がした。
ジェラが振り返ると、アリーの顔がのぞくのだった。
それから二人はーー〈ラッゾ〉名物の、〈マーン〉の乳を贅沢に使った、〈ミルク風呂〉に入り、夜に向けて、仮眠をとった後ーー部屋のバルコニーから見える空の色が、深い墨色に染まった頃、いよいよ本来の任務に、動き出した。
空き家の見張りをするにあたって、ミゲからはとくに指示はなく、言われたことといえば、この〈ラッゾ〉へ向かうことーー夜から朝まで、〈鉛の屍〉の近くにいるように、ということだけであった。
アリーとジェラが、具体的にどういうかたちで、夜通しの見張りにつくか、いろいろと話し合っている最中、部屋の鈴が鳴り、赤い盆を手にしたオリが、二人に届け物だと、現れた。
オリが持ってきた盆の上には、黒いマントが二つ、きっちりと畳まれたすがたに、のせられていた。
女中は送り主について、なにも口にしなかったが、二人はそのマントが誰から届きーーそして、なんのために送られたのか、すぐに意味を悟るのだった。
アリーの提案で、空き家のなかの見張りへは、一人ずつ、交代でつくことにした。ーー(ビクには、一人で動くなということを言われたが、外には兵士もいることだろうし、ジェラは反対しなかった)ーー
一人が見張りついているとき、〈ラッゾ〉へ残ったもう一人は、部屋で休息をとる。ーーそうして、二時間経ったのち、部屋で休んでいたほうが、空き家へ向かい、なかにいるほうと交代する。
そうすれば、〈鉛の屍〉の傍を離れず、また時間も正確に、さらに、万一なにかあった場合にも、少しは余力があり、頭も働かせる状態に、対処することができる。
オリには、部屋に軽食を用意しておいてもらうこと、そしてあらかじめ、今夜は何度も出入りがあるが、気にしないでほしいと伝えると、職業上、そういったことには慣れているのか、女中は一切理由を聞かず、快く了承してくれた。
最初は自分が行くと言い出したアリーを、今度ばかりは、ジェラが首を縦に振らず、どうにか説得をし、その結果まずはジェラが、先陣を切ることとなった。
そうして、届けられた黒いマントを身に纏ったジェラは、アリーの不安を隠しきれぬ顔に見送られーー(玄関ホールまで行こうとしたアリーを、部屋の扉のところがいいと、ジェラがお願いした)ーー自分も極度の緊張を隠しきれぬ顔に、ついに〈ラッゾ〉を出発した。
外へ出るとーーひんやりとした夜気が包んだ。
大通りのほうから、風にのって、かすかなざわめきが聞こえてくる。〈ラッゾ〉のある通りは、例の幻想的な銀色のランプが灯る他ーー人のすがたはなく、ひっそりと静まり返っていた。
青白いジェラの顔が、墨色の夜空を見上げれば、唯一の救いに、小さな星々が美しく瞬いていた。
そっと背中を押されるように、ジェラは深呼吸する……今にものみ込まれてしまいそうな不安を静め、そしてーー長靴を踏み出した……。
建物の角を曲がったジェラは、二度目に足が止まり、鳥肌が走る……。
陽があるうちとは違い、深い闇へ沈んだ通りのすがたは、どんな心をもへし折ってしまうほど、それは不気味極まるものだった。
人気のなさはもちろんのこと、軒先に吊るされた、銀色のランプのすがたも、数えるほどーー。
凍りついたように固まったまま、動かなくなった足を、どうにかこうにか、必死で地面から引き剥がすのだった……。
暗い通りの真ん中ーー二人の兵士が立つ、空き家の入口には、昼間には見られなかった、仮設の常夜灯のすがたが、明かりを灯していた。
一歩近づくごとに……長靴が重くなり……冷たい動悸に、嫌な汗が滲む……
見張りに立つ兵士は、中級兵士であったが、昼に見た、ミゲから〈巾着〉を落とされた二人とは、また違う人物のようだった。
ジェラの鼓動が、速くなる……
マントの頭巾をかぶり、いかにも怪しげな自分が今、夜陰のなかに現れたところで、果たしてすんなりと、空き家のなかへ入れてもらえるのだろうか……
昼間に行ったときは、なによりあのミゲと、〈キューア〉のメンバーたちもいた。
でも、今は……たった一人……
この状況でジェラにできることといえば、〈城〉に行ったときのように、すでに話が通っていることを、祈るしかなかった。
不安に押しつぶされそうになりながら、それでも懸命に進んでいったジェラだったが、〈空き家〉の近くまできたとき、その祈りが通じたのか、入口に立っていた二人の兵士が、さっと敬礼をしてみせた。
がちがちになった身体から、僅かに、力が抜けるのだった……。
ここで歩みを止めてしまえば、動けなくなるーージェラは大きく息を吸い……乾いた唇をぎゅっと噛み締めると……そのまま空き家のなかへ、入っていくのだった……
…………ガチャ…………
扉が開く、小さな音で、うとうとしていたジェラの目が、ぱっと覚めるーー。
部屋のなかは薄暗くーー(寝室には、通りに向いた丸窓が一つあったが、ぴったりとはまる、専用の覆いを下ろしていた)ーージェラが今横になっていた、大きな天蓋付きのベッドの脇のランプが、淡い光を灯していた。
ジェラが重い身体を起こし、寝室の壁にある、数字の代わり宝石があしらわれた時計を見れば、アリーと交代する時間を、とっくに過ぎていた。
ジェラは慌てて、床にそろえていた長靴を履くと、傍に置いていた黒いマントを掴み取る。ふらふらしながらも、足下に気をつけて、急いで寝室のアーチ形の戸口を出るのだった。
広い部屋の中央にある、革張りの椅子たちと壁の暖炉の間には、横長い棚が置かれ、その上に据えられた、見事な生け花と共に、どっしりとした大きなガラスランプが、薄暗い部屋に柔らかな灯りを宿していた。
革張りの椅子の傍に、ぼんやりと人影が見えた。
「……ごめん、起こしちゃったね」
ジェラが机の上にあった、別のランプをつけると、黒いマントを手に持った、アリーのすがたが映るのだった。
「アリーさん、すみません……すぐに行きます……」
ジェラが謝り急いで、黒いマントを纏おうとすると、アリーの声が通った。
「ジェラ、一旦見張りを切り上げて、少し休まない」
驚きに見つめた、アリーの顔は、青白いなかに、疲労が色濃く滲んでいた。
「もうすぐ夜明けだし、今のところ異常はない。 それに、〈鉛の屍〉が消えるのは、今日とは限らないでしょ……」
静寂に響いた、静かな声に、ジェラは疲れも合わさり、束の間ぼうっとしてしまった。今の頭には、威圧的な顔も、浮かんではこなかった。……少しして、ゆっくりと頷く……。
「そうですね……」
長い時間、気を張り詰めているせいか、見張りを交代して、部屋へもどってきても、神経が高ぶったまま、なかなか思うように、身体を休めることができなかった。疲れは確実にたまっていき、ベッドで横になれば、うとうとはするのだが、眠りに落ちようという瞬間、空き家で見張りについているほうの身を案じ、襲う不安に目が覚めてしまう。
結局二人とも、ここまで、ほとんど休めずにきていた。
見張りの初日を経験しーー想像以上に、気力と体力を消耗することーー次からこのやり方は、考え直す必要があった。
「一か八か休んで、朝になったら、またいい方法を考えよう」
「はい……」
今の二人には、たとえ課せられた任務に背いてでも、一時互いに安心して、心身を休めることが先決であった。
アリーとジェラは、黒いマントを椅子の背へかけると、共に引きずるような足取りで、寝室へ向かっていくのだった。
「……ジェラ、まだ起きてる……?」
アリーの囁きが、真っ暗な部屋に溶け消える。
ジェラは、閉じていた瞼を開け……天蓋のある闇を見つめた。
「……はい、起きてます……」
隣のベッドにいるアリーが、身動ぎする音がした。
「せっかく休もうとしたのに、ごめんね……」
ジェラは、仰向けになっていた身体を、アリーのいるベッドのほうへ、向けるのだった。
「大丈夫です」
ジェラの小さな声が消えると、深海のようなしじまが、満たしたーー
「ジェラ、昨日オリさんに、なにか聞きに行っていたでしょ」
互いの顔は見えずとも、ジェラは動揺が伝わらないように、慎重に声を出す。
「はい……」
アリーの息を吸う音が、静寂に聞こえる。
「それって、もしかして……〈ネズミ〉と、なにか関係がある?」
横になっているジェラの心臓が、大きく打つのだった……。
すると、すぐに、再びアリーの声が通った。
「もう隠さなくても大丈夫。 それにね、怒っているわけではないの。……ビクから、聞いたんだよね?」
ジェラは、答えに迷ったが……沈黙の後、口を開く。
「……はい……すみません……」
「謝らないで。 謝らなくちゃいけないのは、私のほうだから。 大変なときに、いろいろと気を使わせてしまって、本当にごめんなさい」
「そんなこと……」
ジェラの頭が、枕から浮き上がるーーそして、ゆっくりと……もどるのだった。
「謝らないでください……」
アリーのいるベッドから、クスっと、小さな笑い声が聞こえる。
「……ごめん、私たちってなんだか、謝ってばかりだなと思って。 少しは誰かさんを、見習わなきゃね」
ジェラの顔にも、小さな苦笑が浮かぶ。
心にひたひたと湧いた寂寥は、今も〈ムー〉と一緒にいるであろう、ビクのすがたが、不思議と包み込んでくれた。
二人は互いに、相手へ向けていた身体を、天蓋へ向けるーー
アリーが静かに、口を開いた。
「ビクから聞いた通り……私はね、〈ネズミ〉がだめなんだ。 それは見た目がどうとか、そういうことではなくて、どうしても……だめなの……。 まだ言葉だけなら、なんとか大丈夫なんだけど……実際に目に入ると、途端に息ができなくなる……。 パニックになって……すごく苦しくなって……身体が冷たくなって……目の前が、真っ暗になる……。……実はね、空き家の見張りについているときも、〈鉛の屍〉のことよりも、そのことで、ずっと心臓がバクバクしてた……前にも一度、倒れて迷惑をかけてしまっているから……」
アリーの声が消えてもーージェラはーーなにも……言葉を返せなかった……
なにか……一言でも……声をかけようとしたが……震えるような思いに……口からは空しく、無音の空気が漏れるだけだった……。
深い闇と共に、深い沈黙が押し包むーーアリーの声が続けたーー
「私はね、小さい頃から、夢があった。 それは、将来人を助ける、医学の道に進むこと」
「医学……」
「うん。 たった一度きりの人生をかけて、なにかをするなら、たくさんの人の役に立つことをやりたいと思った。……綺麗事だけど、母親を早くに、病気で亡くしたことも、あるのだと思う。 最終的に私は、医者ではなくて、医薬品ーー病気の治療に役立てられる、薬の研究のほうの道へ、進むことにしたんだ」
「薬……すごいですね……」
ジェラは、しみじみとつぶやいた。
重い間があくーー
「私は、未来へ向けた、新薬の開発に携わりたくて、必死に勉強をして……目指していた大学の、有名な研究室に、入ることができたの……」
暗闇のなかに、声が消えていくとーー長く静寂が、満たすのだった。
ジェラはじっと耳を澄ませ……じっと闇を見つめていた……
「……昔から、動物が大好きだった……」
聞こえた声はーー細い糸のように、たよりなく震えていた。
「母や兄妹がいない寂しさも、大好きな動物たちが、癒してくれた。……医学の道と、獣医とで、すごく悩んだこともあった。 動物が好きなくせに、ペットショップや動物園に行くと、いつも嬉しいより先に、胸がぎゅっと苦しくなって、泣いて父を困らせたことも、よく覚えている……。 本当に、変な子どもだよね。 難しい子っていうか……他の子と同じように、ただ好きな動物を見て、かわいいなって、そう思えばいいのに……。 自分には、それができなかった……。 狭い檻や水槽に入れられて、見せものに、売り物にされている生きものや動物たちを見ると……捕まえられて……かぞくと引き離されて……本来生まれた場所からも遠く隔てられて……そこに、自分たち人間の残酷さを、まざまざと、突きつけられるように見てしまう……。 人を助けたいと言っておきながら、矛盾しているよね……」
ジェラの開かれた瞳が、アリーのいる、横の闇を見つめる……無意識のうち、手が上掛けを強く握っていた……
ジェラもーー同じだったーー
これが……自分たち人間だったら……
〈命〉に、値段がつけられるーー自由はなく、完全なる支配ーーそのなかには、商品となる子をただ産むだけに、一度きりの生を使われるものもいるーー
見栄えのするものだけが選ばれ、劣るものは、容赦なく弾かれていくーーそうして、ずっと売れ残ったものたちは、そのあと一体……どこへ……消えていくのだろう……
たとえ並んでいた場からは消えても、そのものたちの存在はーー〈命〉はーー人生はーー消えず、まだまだずっと、続いていくのだ……
〈命〉がまるで、使い捨ての〈物〉同然に、扱われる世界……
身の危険がなく、手厚く管理され、なにの苦労もせず、いつも食べ物をもらえることは、真の幸せなのだろうか……
そこに生きていることの喜びは、あるのだろうか……自分にとっての本当の世界を知らず……似せたつくりもののなかで、なにを思うことなく……ただただ流れていく時を過ごし……死ぬまで同じ空間に、息を繰り返していく……
考えただけでーーぞっとした……
ジェラは、浅く速くなった呼吸を、深くゆっくりと吸う……
「アリーさんは、その研究室で……〈ネズミ〉を……」
「……うん。 新しい薬をつくるのに、動物実験は、必要不可欠……犠牲に変わりはないけれど、そこにはちゃんとした目的、大きな意味がある……戦争の兵器開発に使われるような、そんな無意味で残虐なこととは、訳が違う……それはもちろん、わかっていた……わかっていたけど……私には……だめだった……。 それでもはじめは、努力が水の泡にならないように、必死でやってた……。 そのうち慣れる……そのうち自分も、他の人たちと同じように、なにも考えず……なにも思わず……できるようになるって……そう言い聞かせてた……。 だけど……ある日ね……とうとう心が、壊れてしまった。 その日のことは、今でもはっきり覚えてる。 いつものように、注射器をもって、目の前にいる〈ネズミ〉と向き合ったとき……突然、声が聞こえたの……はっきりと……恐ろしい叫び声…… ……『やめて……』……『やめて……』って………
怖くなった……血の気が引いて……身体が震えて……スローモーションのように、注射器が落ちた……そのあと、気を失った……」
暗闇にーーアリーの顔は見えなかったが、はしばみ色の瞳から、静かに涙が流れ続け、枕を濡らすのを、ジェラは心の目ーー〈魂〉の目にーー見つめていた……
「私は……」
ジェラの目尻を、涙が伝う……
「アリーさんに出会えて、よかったです」
たとえ、相手にかける言葉が見つからなくとも……この言葉だけは……強く確かな思いだけは……どうしても今、心から伝えたいと思った。
鼻をすする音が、深い水底のような部屋に聞こえる。
「ありがとう。 私もジェラに出会えて、よかった」