第十章•〈鉛の屍〉㊃
「本当に、この部屋ですか……」
ジェラの隣にいるアリーが、信じられないという顔で、両開きの豪華な扉を開け放した女中に、聞き返すのだった。
あのあとーーミゲは早々に、場の解散を告げた。
これまで見つかった、〈鉛の屍〉がすべて、消え失せていることから、今回は兵士の他に、〈キューア〉のなかからも二人、空き家の見張りに残すことを、言い放ったのだった。
そして、そのうちの一人は、否応なしに、ミゲがすでに決めていたーー
「はい、間違いございません。 こちらのお部屋で承っております」
その容姿にーーアリーと年が同じか、近いであろう、若い女中が、耳に心地よい声音で、答えるのだった。
アリーとジェラを、〈ラッゾ〉の広々とした、美しい玄関ホールで出迎えたオリは、年若いなかにも、しとやかな品があり、穏やかな話し方からも、滲み出る人のよさを感じさせる、丸顔をした女中だった。
やわらかな黒髪を、鼈甲の簪でうしろに小さくまとめ、まるで着物を思わせる、優美な桔梗色の衣を身に纏っていた。
他の女中たちもみな、同じ着物のようなすがたをしていたが、他の女中たちが、淡い紫の藤色なのに対して、このオリという女中だけが、ただ一人、色味の深い桔梗色の衣を、纏っているのだった。
そのオリの表情が、不安げに曇る……。
「こちらのお部屋では、お気に召されませんでしょうか……」
「ちがいます!そうじゃないんです!」
アリーが慌てて、口を開いた。
隣にいるジェラも、慌てて首を振る。
「その……あまりにも豪華すぎて……」
アリーがつぶやくと、オリは淡く黄味がかった茶の瞳を、パチパチと瞬かせた。
そしてーー小さな笑みが漏れる。
途端、オリがはっと、深く身を下げた。
「大変失礼をいたしました。申し訳ございません」
「そんな、気にしないでください! 本当に大丈夫ですから、顔を上げてください!」
アリーの言葉にも、女中はなおも、震えた身を深く下げ続けるのだった。
「誠に申し訳ございませんでした。……そのような嬉しく、ありがたきお言葉をいただきましたのは、初めてなもので……こちらに仕えます者を代表しまして、厚く、御礼申し上げます」
アリーとジェラは、困惑した顔を見合い、目の前にいる、女中のすがたを、見つめるのだった。
その後、落ち着かぬほど豪勢な部屋へ入った二人は、部屋を受け持つ、女中のオリから改めて、この〈ラッゾ〉という建物について、いろいろなことを聞き知った。
オリから教えてもらった話によればーー〈ラッゾ〉は、〈城〉直属の宿泊館であるという。
帝都の街には、合計四つの〈ラッゾ〉が存在しーーそれらはいずれも、〈城〉から東西南北に伸びた、四本の大通りの近くにあった。
そして、この四つの〈ラッゾ〉は、すべて同じ造りとなっており、唯一違うのは、外観の色味ーー
二人が今いる、〈東のラッゾ〉はーー鮮やかな柿色、〈西のラッゾ〉はーー淡い柿色、〈南のラッゾ〉はーー明るい柿色、〈北のラッゾ〉ーー深い柿色
一階に客室はなく、広い玄関ホールと厨房、奥に住み込みで仕えるものたちの居住スペースがあり、二階から五階部までが、客室となっている。
最上階にあたる五階が、一部屋のみの〈特別室〉となっており、二人はまさに、この部屋へと、案内されたのだった。
「まさか……ここへ泊まるなんてね……」
革張りの大きな肘掛け椅子へ、腰を下ろしたアリーが、広々とした部屋を見回しながら、しみじみとつぶやいた。
革張りの長椅子へ、腰を下ろしたジェラも、同じく豪奢な部屋を見回した……。
〈特別室〉は、部屋の扉の正面ーー東の通りに向けて、外からも見えた広いテラスがあり、両開きのガラス戸を開けて、外に出ることができた。部屋の中央には、いかにも高級なテーブルと革張りの椅子たちがあり、入口から向かって左側に、アーチ形の戸口を通って、高貴な執務卓と長机の置かれた、書斎兼会議室があった。この部屋からも、片開きのガラス戸を開ければ、テラスへ出ることができた。
そして、反対側ーー右側の壁に、数々のお酒の瓶が並べられた美しい棚と、グラスや水の用意された台がありーー今の季節は使われていない、重厚な暖炉のすがたがあった。暖炉の横に、紺色の絨毯の敷かれた床から、奥へ幅広い階段が数段伸びて、左側に広い寝室ーーそこからさらに階段は伸びて、突き当たりに浴室があるのだった。
「誰かさんは、怒るだろうね」
そう言ったアリーの顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
ミゲが、空き家の見張りに残す二人のうち、一人はジェラだと命じたときーー真っ先に手を挙げたのは、ビクだった。
しかし、ミゲは、それを許可しなかった。
不穏な空気が包んだときーーアリーがぱっと、手を挙げたのだ。
ジェラは苦笑いを静めると、深刻な表情に、口を開く。
「アリーさん、すみませんでした……」
はしばみ色の瞳が、驚きを孕んで見つめる。
「どうして謝るの?」
ジェラは暗い瞳を、床へ向けた。
「私が……その……アリーさんを、巻き込んでしまって……」
短い間があきーーアリーの声が響いた。
「それはちがうよ」
ジェラが顔を上げると、胸がじんわりとあたたかくなるような、アリーの微笑みが、映るのだった。
「ジェラはさ、他の人のことを、すごくよく考えてくれるよね。 それは、ジェラの長所であり、短所でもあると思う。 きっと考えすぎちゃって、疲れてしまうこともあるでしょ。 だからはっきりと言うね。 私が今ここにいるのは、私自身が、そうしたかったから。 空き家の見張りに、誰かもう一人残る必要があったーー私は、〈鉛の屍〉というものが、どうしてあれほど土の匂い、緑の匂いがするのかーーなぜ忽然と消え失せるのかーーその真実が、知りたかった。 だから、ここへ残った。 そして、そのおかげで、まさかこんな豪華な部屋に泊まれるとは、誰かさんに恨まれてもしょうがないね」
ジェラの表情は、なおも暗いままだった。
「……でも……これから……どんなことが起こるのか……もしかしたら……危険なことも……」
アリーは、じっと考え込むような表情にーー宙の一点を、見つめていた。
静寂に、アリーの声が通るーー
「不安がないと言えば、うそになる。 危険があるのかもしれないし、ないのかもしれない。 こればかりは、起こってみないとわからないと思う。……だけど、私はね、今日はじめて〈鉛の屍〉を見たとき、あの匂いに触れたとき、そこに想像していた、邪悪さとか……恐ろしい気配とか……そういったものは、まったく感じなかった……。
だからって、もちろん、危険がないことにはならないと思う。 でも、これが正直な気持ち。……ジェラも、そう思わなかった……?」
ジェラは、小さく頷いた……。
アリーは遠くを見つめるように、静かに言葉を継ぐーー
「《魂》に、訴えてくる……強いなにか……太陽と月のような……大きな喜び……深い悲しみ……」
はしばみ色の瞳が、遠くから、目の前にある長テーブルへと移るーー
「ミゲと私たちが感じる匂いに、違いがあることも衝撃的だった。 紛れもない事実は、きっと大きな意味があるんだと思う。 ビクはわざと、『たまごが腐った匂い』なんて、うそを言っていたけど、もしかすると、それも的外れじゃなかったのかもしれない」
深いしじまが満たすーー
澄んだ瞳が、褐色の瞳を見つめたーー
「でもどうしてジェラは、残ることが決まっていたんだろう……」
アリーが口にした言葉は、ジェラ自身も、ずっと考えていたことだった。
「なにか心当たり、ある?」
ジェラは力なく、首を振った。
「そうだよね……。 それにビクだって、一応はリーダーなのに、どうしてダメだったんだろう……。 この部屋へ泊まるのに、男だから? 性格の問題? ミゲと犬猿の仲だから?……」
ジェラは、黙っていたものの、このことに関しては、わかるような気がした。
ビクまでも空き家の見張りに残ってしまえば、〈ムー〉のところへ行くものが、いなくなってしまう。
そのためミゲは、ビクが残ることを許さなかったのだろう。
しかし、このことをアリーに伝えるには、まず〈神獣〉のことを話さなくてはならず、ジェラはそのまま、口を閉ざしているしかなかった。
ジェラの手が、鍵の重みが消えた、左の胸ポケットへ触れる……
明日には……明後日には……またもどれるのだろうか……
見張りに残る、アリーとジェラを除いて、あとのメンバーたちは、とりあえずこれからのことを話し合うため、いったん自分たちの宿舎へと、引き上げることに決めたのだった。
〈鉛の屍〉を残して、空き家からミゲとメンバーたちが出ていくときーービクが、横からすっと、ジェラの腕を掴み引いた。
僅かな時間、二人きりになることができた。
ーー『ジェラ、絶対に無茶はするな。 必ずアリーと一緒に動け。 〈ムー〉のことは俺がちゃんと見とくから、自分の身を守ることを約束しろ』ーー
ビクは真剣な表情に言い、相棒が頷くのを見ると、真鍮の輪についた鍵を、預かるのだった。
「ジェラ、大丈夫?」
ぱっと弾かれたように目を向けると、アリーの心配げな眼差しが、見つめていた。
「左胸が、どうかした……?」
ジェラは慌てて、胸ポケットへ当てていた手を、離すのだった。
「なんでもないです、大丈夫です」
そのときーーチリン、チリン……と、鈴の音が、部屋へ響き渡ったーー
敏感な音に、思わず一瞬間、凍りついた二人だったがーー意識を集中させた耳に、やわらかな声が聞こえてくると、強張りが解けていった。
「オリでございます。 おもてなしの品を、お持ちいたしました」
「すごい……」
ジェラが、ゴクリ……と、唾を飲む。
「ほんとに……」
アリーの喉も、ゴクリ……と、鳴った。
二人の目の前にある、広いテーブルには、いっぱいにーー見るも華やかな品々が、輝くばかりに並んでいた。
美しいガラスのケーキスタンドにのった、色とりどりのケーキたちーーみずみずしく光る、見たこともないような、たくさんのフルーツーー
それらをまるで、ひとつの絵として、完成させるように、眩いばかりに光り輝く銀の食器たちが、あちらこちらに飾られていた。
「お待たせいたしました」
額にうっすらと汗を滲ませたオリが、自身の背丈よりもある、大きな五段式のワゴンの横で、深く一礼する。
アリーの戸惑いを浮かべた目が、ジェラを見てーーそして、手伝いを申し出たが、丁重に断りを述べ、一生懸命に用意をしてくれた、女中の顔へ向けられた。
「その……実は、私たち……〈ポドス〉を……」
すると、オリは、客人の言葉の先を汲み取ったように、やわらかな笑みと共に、口を開くのだった。
「こちらは、〈特別室〉にお泊まりいただきます、お客様のみにお出しする、〈ラッゾ〉自慢の、贅を尽くしたおもてなしでございます。 卑しいお話を、お許しいただけますなら、こちらに滞在中のお代金のほうは、すべて、〈城〉のほうから賜ることになっております」
アリーとジェラは、共に安堵を浮かべたものの、それでも少しの間、互いの顔を見て、テーブルの上の光景を見て、考え迷っていた。ーーだが、やがて、アリーの瞳に変化がうまれる。
「せっかくだから、ありがたくいただこうか……」
「はい……」
ジェラも、頷いた……。
他のメンバーたちには、申し訳ない思いがしたが、オリがここまで、一生懸命に用意をしてくれたのだ。
二人が、まだ圧倒されながらも、テーブル中に並べられた、溢れんばかりの品々を眺めていると、オリがはっと、口を開くのだった。
「すみません、ご説明がまだでございましたね。 どうぞご自由にお手にとりながら、お聞きになってください」
オリは、まるで鏡のように磨かれた、美しい銀のティーポットを手に持つと、二人の座る傍へまわって、それぞれの前に置かれた、繊細な銀のカップへ、ゆっくりと中身を注いだ。ーー立ち上る湯気に、澄んだ琥珀色の表面から、芳しい香りが広がる。
「いい匂い……」
ジェラは深く息を吸い、うっとりとつぶやいた。
見ればアリーも、目を閉じて、深呼吸していた。
「これは、なんていうお茶ですか?」
オリが二つのカップへ注ぎ終えると、アリーが聞く。
「こちらは、〈テレリ〉でございます」
「〈テレリ〉……」
「はい、摘み取った茶の若葉を発酵ーー乾燥させたものへ、さまざまな種類の花びらを、合わせたものになります。 香り高い花々の芳香に、『飲む花束』だと、表現される方もいらっしゃいますし、『まるで花畑にいるようだ』と、お召し上がりになられたみなさまはおっしゃられ、お喜びになられます」
「飲む花束……ピッタリな言葉ですね」
「はい、素敵でございますよね。 ぜひあたたかいうちに、お召し上がりくださいませ」
「じゃあ、いただきます」
アリーとジェラは、手に持ったカップを見つめ、もう一度深く香りを吸い込むと、それぞれ口へ運ぶーー
瞳がーー大きく開かれるのだった……
「すごい……本当にお花畑だ……」
ジェラの顔に、感動の笑みが広がる。頷かれたアリーの顔にも、輝くような光が宿っていた。
「お喜びいただけてよかったです。 お好みでこちらをお入れになりますと、甘みが加わり、より一層華やかな風味を、お楽しみいただけます」
野花のような笑顔をしたオリが、白い陶器の、小さな器の蓋を取るーージェラの目が、なかのものに釘付けになるのだった。
「金平糖……」
豆粒ほどの大きさの、特徴的な小さなイボイボの突起がついた、カラフルに愛らしいすがたーー
「なつかしい……」
アリーも見つめ、つぶやくのだった。
「〈ポルン〉は、こんぺいとう……とも、呼ばれるのですね」
オリが嬉しそうに言う。
「あっ……いや……その……」
ジェラが、なんと言えばよいのか、必死に考えていると、横からアリーが、助け船を出した。
「このきれいなピンク色のものは、なんですか?」
アリーの手が、近くにあった、蓋のされたガラスの器を指差す。
「ピンク……それは、チチ色のことでしょうか……」
あっ、と気づいたアリーが、慌てて顔を縦に振る。
不安が映った女中の顔に、安堵の笑みがもどった。
「そちらの器に入っていますのは、〈ピチアの砂糖漬け〉でございます」
オリは言うと、衣の長い袖をもち、静かに手を伸ばして、繊細なカット模様がほどこされた、ガラスの器の蓋をそっと外すーー
「きれい……」
二人の声が、重なるのだった。
芸術品のような器のなかにはーー淡いピンク色ーーチチ色をした、小さな粒が、まるで宝石のごとく、きらきらと光り詰まっていた。
「でも……〈ピチア〉っていうのは、なんですか?」
アリーが顔を上げて聞くと、女中は「ぜひおひとつ、食べてみてください」と、微笑んで言うのだった。
言われた通り二人は、ガラスの器から、それぞれ〈ピチアの砂糖漬け〉を、一粒ずつ指につまむ。
そして、見交わすと、せーので、口に入れた。
ガリっ、ガリっ……カリ、カリ、カリ……
見た目に想像していたよりも、しっかりとした硬さのあるそれは、歯で噛むと、心地よい音を響かせ、甘さのなかにかすかな苦味を感じーーふわぁーと、口いっぱいに、華やかな香気が広がった。
「〈ピチア〉は、花なんですね」
ジェラが爛々と言うと、オリは笑顔で頷いた。
「はい、さようでございます。 〈ピチア〉は、〈リグターン〉から南にいったお隣の、〈ラッタ国〉で咲くお花でございます。 年に一度だけ、それも、ごく限られた短い期間に、チチ色の、可憐な花を咲かせるそうです。 満開に咲き乱れた〈ピチア〉は、その期間にすべて摘み取られ、多くはこのような〈砂糖漬け〉などにして、その高貴な香りを閉じ込め、長くゆっくりと楽しむのだと、〈街〉の商人から、聞いたことがございます」
「そうなんですね」
オリの話に、アリーは興味深く聞いていたが、ジェラの表情は、強張るのだった。
「南の〈ラッタ国〉……」
ジェラがつぶやき、アリーと女中の視線が向くーー
「〈ラッタ国〉へは、行かれたことがございますか?」
耳へ届いた、オリの声に、ジェラはようやく、二人に見つめられていることに、気がつくのだった。
「あっ……すみません……もう一度いいですか……」
「大丈夫……?」
アリーの真っすぐな瞳が、今のジェラには、気まずい思いがした。
ジェラはそれらを振り払うように、心のなかで首を振り、実際には頷いた。
「私の声が小さく、申し訳ございません。 〈ラッタ国〉へは、行かれたことがございますでしょうかと、お聞きいたしました」
「こちらこそすみません。……少し前に、人に聞いたことがあって……行ったことはないです。 オリさんは、〈ラッタ国〉に、行ったことはありますか……」
「いえ、わたくしもございません。 ですがいつか、行ってみたいなと、そう思っております。 余計な話を、申し訳ございません。 ちょうどこちらに、〈ラッタ国〉で採れます、とても貴重な黄金の実ーー〈メーシュ〉を使いました、〈シュシュレ〉というお菓子がございます」
オリがそろえた指先で示した先には、テーブルに並んだたくさんの品々のなかでも、一番大きな、そして優雅な脚付きの、銀の高皿があるのだった。
まるで鳥の巣を思わせる、見事な飴細工の真ん中にーーそれは丸ではなく四角の、小さな石畳のような菓子が、圧巻なすがたに並んでいた。
一口サイズに、ぴったりと切り揃えられた黄金色の表面が、艶々と照り光っている。
「黄金の実……」
艶やかに高貴な菓子を見つめ、アリーがつぶやいた。
「大変な貴重さゆえに、自国の者たちも、ほとんどが口にしたことはないそうです。 誰もが一度は、味わってみたいと願う、そんな幻の果実でもあります」
オリのやわらかな声が、部屋に響いた。
「よろしければ、〈シュシュレ〉を、お取りいたしましょうか?」
目の前にあった銀の皿を、アリーが手に取る。
「お願いします」