第十章•〈鉛の屍〉㊂
二頭立ての馬車が、ゆっくりと速度を落とし、止まる。
一行は、多くの商店や、豪勢な建物たちが顔を連ねる、〈城〉から伸びた四つの大通りのうち、〈北の大通り〉を進みーー長大な通りを、半分ほどいったところで、進路を東方に曲がり外れ、そこから奥の通りへーー三つほど通りを横切るかたちに、進み入っていくのだった。
その通りは、白石が美しく敷き詰められた〈大通り〉に比べ、半分ほどに道幅が狭くーー(大通りが、横並びに馬車が五台は通れるとして、こちらの通りは、横並びにゆったりと二台、というほど)ーー地面に見える石の色も、落ち着いた、青みを帯びた灰色をしていた。
人の賑わいはなく、ちらほらと商店のすがたも見えたが、閑静な空気にーー気品ある、灰白色の外壁をした、二階建ての住居らしき家々のすがたが多く見られ、いわば高級住宅地ーーといった印象を、メンバーたちに与えるのだった。
御者台にいた中級兵士が、すばやく地面へ降り立つと、座席の横へまわり、階段を引き出して、うやうやしく扉を開ける。
〈キューア〉のメンバーたちは、みな緊張した面持ちに、あたりを見回しながら、馬車を降りていった。
先に馬を降りていたミゲと上級兵士は、少し離れた先で、なにか話していた。
ほどなく、上級兵士がさっと敬礼を見せたかと思うと、ミゲの手から、愛馬であるダルドリットの手綱を、受け取るのだった。
ミゲの顔が、メンバーたちへ向くーー
「ついて来い」
兵士と馬車を残して、〈キューア〉のメンバーを引き連れたミゲは、静かな通りを、向かってきた〈城〉からまた離れるように進んでいくーー
無言のまま、まるで絞首台へと向かうような空気に、一行が重い足を強制的に速められ、威圧的な背について進んでいくと、左手側の先に、一際異彩を放つ、立派な建物が、見えてくるのだった。
長靴を動かしながら、ジェラの目が、思わず釘付けになる……。
通りのなかで、間違いなく一番大きく、華麗な建物は、今までに〈街〉で見てきた、どんな豪華な建物たちともまた違う、一種独特な趣が、あるのだった。
上品に鮮やかな、柿色の外壁ーー高く五階建ての造りに、ジェラたちが乗ってきた馬車と同じ、濡れ羽色をした、目を引くバルコニーが、通りに面した各階を美しく飾っていた。
ジェラの顔が、上へ向く……
最上階には、いかにも贅沢な部屋を思わせる、広く大きなバルコニーの欄干が、一つのみ飾り立てられていた。
ミゲを先頭にしたメンバーたちが、建物の前を通るときーージェラの隣を歩いていたアリーが、小さく囁いた。
「すごいね……」
ジェラが見ると、アリーも同じように、目を大きく開いて、珍しい色合わせの、建物のすがたを眺めていた。
一行が柿色の建物の前を通り過ぎ、このまま通りをさらに奥へ、進んでいくのかと思ったときーー突然、ミゲの背が、角を曲がった。
一瞬、眉をひそめる者も何人かーー〈キューア〉のメンバーたちも、黙々とそのあとに続くーーと……全員の足が、ぴたりと止まった……。
五階建ての立派な建物の角を曲がった先はーー今まできた通りよりも、またさらに細く、馬車が一台通れるほどの、閑散とした小路だった。
並ぶ建物のすがたも、急にまばらになり、見栄えもそうであるが、日当たりが悪く、ところどころ影に沈んでいるせいで、漂う雰囲気も、どことなく陰気であった。
ジェラの心臓が、早鐘を打つ……
視界に映る、薄暗い通りの先ーー真ん中に、明らかな違和感を覚える、人だかりがあった。
怖いもの見たさに集まった、多くの野次馬たちが、しきりに首を伸ばして、なかの様子をのぞき見ている。
色の抜け落ちたような景色にーーミゲの後ろすがたが、生々しく、進んでいくのだった。
「……行くしかねぇだろ」
ビクが低い声に言い、黒い長靴を進めるーー
「だな……」
灰色の髪をしたカークが、つぶやくと、止まっていた足を動かすーー
「行こう」
アリーが静かに言い、蒼白な顔のインナの手をとる。横にいたエンダの手がそっと、震えた仲間の背に添えられた。残るメンバーたちも、それぞれに覚悟を決めて……踏み出していくのだった……。
その身形と髪のすがたに、決して高い身分の者とは言えぬ、多くの野次馬たちが集まっていたのは、丈高い雑草が生い茂り、外壁がいたるところ剥がれ落ち、蔦が蔓延った、空き家と思われる、うらぶれた建物の前だった。
ミゲが、野次馬たちの群がる方へ、近づいていくとーーその前に立ち塞がっていた、二人の中級兵士が、すぐさま気づき、鋭い声と共に、人々を手荒く押しのけて、急ぎ進み出てきた。
中級兵士が、さっと敬礼をみせる。
周りにいた野次馬たちも、途端にしんと静まり返り、誰もが怯えた表情に、突然現れた要人から、できるだけ距離をとるように、俯き戦きながら、通りの奥へ退いた。
ざわめきから一転ーー不気味な静寂が、あたりを満たすのだった。
ミゲの後方に、他のメンバーたちと共に控えていたジェラは、ふと……強張った身に、視線を覚える……
褐色の瞳を、その方へ向けるーーすると、ひとりの人物のすがたが、映るのだった。
灰色のーー色褪せたマントすがたーー
頭巾を目深に下ろした相手は、小路の奥ーー建物の角から、じっとこちらを見据えていた。
相手の手がーー頭巾を、後ろへずらす……面を包んでいた影が薄らぎ、真白な髭が現れた……
空気が変わるーー耳にやわらかな蓋がされ、水中深くにいるようなーー奇妙な心地に包まれるーー二つの瞳が、真っすぐに出会ったーー刹那ーーファンっ……と、鮮やかな瑠璃色の火花が、結ばれた空中に、幻想的に咲き閃いた………
二人は互いに……息をのむ……
ジェラの足が、後ずさる……
それは、恐怖などからではなく……今までに感じたことのない……身体ーー《魂》のーー打ち震えるような共鳴が、旋風のごとく湧き上がり、ざわざわっと……身の内なる森を吹き抜けたからだ……
「おい、どうした」
ジェラの横にいたビクが、小さく声をかける。
「……あっ……いえ……」
ビクの声に、耳のやわらかな蓋が外れたジェラは、離してしまった視線を、もう一度、男のいる方へ向ける……
(あれ……)
今さっきまで、確かにそこにいたはずの、相手のすがたはーー跡形もなく、消え去っていた。
「例のものは」
「はっ! 現在のところ、問題なくございます」
ミゲの声に、中級兵士の一人が答える。
「キンズたちは、引き上げたあとか」
低い声を、さらに落として、冷ややかに放たれた名に、兵士たちの顔色が、さっと青ざめるのだった。
「はい、キンズ様の隊は、すでに見てまわられ、二時間ほど前に、〈城〉のほうへおもどりになられました」
「わかった」
冷たい間が、あいたーー
「我々もこれから、なかを見る」
「承知いたしました」
そろって敬礼を見せた、二人の兵士が、顔を上げた一瞬間ーー後方に控えた、〈キューア〉のメンバーたちを捉える。
まず、ふつうの感覚をもつ人間ならば、気がつくことさえないような、その僅かな目の動きーー心の動きをーーミゲという男は、決して見逃さなかった。
「おまえたちも知っての通り、あちらは、私がこの度招いた客人だ。 この巨大な帝国で、我々の担う、重大な任務の一つである、治安の維持ーーその対処についても、深く共有している」
「はっ!」
言外に含まれた威光にーー中級兵士たちの身が強張り、再び深く、身を下げるのだった。
ミゲは、二人の前へすっと長靴を進めると、前を見据えたまま、静かに手を伸ばすーー
兵士の纏う、黒い衣の後ろの首元へ、小さな黒い巾着を、落とすのだった。
「盤を誤るな」
「はっ!」
二人の兵士は、そのまま深々と、微かに震えた身を下げた。
「……饅頭か、飴玉か」
ジェラの耳にーービクの蔑むようなつぶやきが、聞こえるのだった。
「なにを感じる」
外からの見た目通りに、荒れ果て、もぬけの殻となった空き家のなかを、ミゲの声が響き渡るーー
〈キューア〉のメンバーたちは、誰も……なにも答えなかった……
ただただ目の前にある光景をーー大きく見開かれた瞳に、見つめていた……
木造の空き家は、もとは二階建てだったらしく、その上階部分の床が抜け落ち、残骸の山が部屋の隅に築かれ、空ろな先にのびた階段のすがただけが、かつての面影を残し、ぽつんと侘しく、取り残されていた。窓ガラスは割れずにあるものの、すりガラスのごとく、埃と汚れに厚く覆われ、不気味な蜘蛛の巣の模様に、ヒビが入り飾っていた。
高い屋根にあいた、いくつもの穴から、昼間の陽光が白く差し込みーー薄暗く、埃っぽさとカビ臭さが充満した部屋に、僅かな救いとなって、存在しているのだった。
細い光に照らされた、いたるところ腐った床の上にーー〈鉛の屍〉は、ひっそりと横たわっていた。
そのすがたは、メンバーの誰もが想像していた、見るも恐ろしく……見るも痛ましい……そんなすがたなどではなかった……。
深い眠りについているような、その穏やかな顔はーー自分たちと年近い、若い青年のすがただった。
身に纏っている、質素な衣をのぞいて、あとに見えるすべてがーー〈鉛色〉ーーそのものだった……。
一本一本まで、はっきりとわかる髪の毛は、〈下民〉のすがたに、ごく短く刈られーー眉やまつげーー肌に浮かんだ細かな皺までもーーまるで生身の人間のように、鮮明に見てとれる……。
そして、なにより……〈鉛の屍〉から放たれる、この匂い……
ジェラは、空き家へ足を踏み入れた瞬間ーー鼻から全身へ、粟立つような衝撃が駆け抜けた……!
心の内へーー〈壮麗な柳の木〉ーー〈洞窟のすがた〉が、浮かび上がるーー光、音、風、温度、ふれた感触……すべてが……ありありと……みずみずしく……よみがえるのだった……
それは、絶対に間違えようのない……忘れもしない……ただ一つの匂い……
他のメンバーたちもみな、〈強烈な二つの存在〉に、声なく呆然と立ち尽くしていた。
外にいる野次馬たちのざわめきと、それを制する兵士の声とが、がらんとした部屋のなかに、くぐもって響いていた……
「言葉を忘れたか」
長い沈黙にーー鋭利な声が放たれる。
床にある〈鉛の屍〉を挟んで、メンバーたちと向かい合ったミゲは、一人ひとりの顔を、射貫くように眺めていた。
「たしかに……一度嗅いだら、忘れられないような匂いがします……」
アリーが、なんとか動揺を落ち着けて、静かに答えた。
「この匂いがなにゆえか、その鼻でわかったか」
低い声に、アリーはゆっくりと首を振る。
「わかりません……。ただ……」
「なんだ」
アリーは、鼻から深く息を吸うと、意を決したように、口を開く。
「すごく……すごく濃厚な……土の匂いがします……」
刹那ーーミゲの太い眉根が、ぐっと寄るのだった。
「ナンバー1、これが土の匂いだと、それは真に言っているのか」
響いた声は、背筋をぞっとさせた。
部屋を押し包んだ、不穏な空気にーー〈キューア〉のメンバーたちの瞳が、目の前に立つ、男を見つめる……
(この匂いが……わからないんだ……)
激しい動悸にーージェラは掌に、冷たい汗が滲むのだった……。
この紛れもない事実がーーなにか……大きな意味をもっているような気がして……ならなかった……
ただ……それがなんなのか……どういう意味があるのか……答えが、霧の向こうにあるように、目を凝らし、手を伸ばしても……どうしても……つかめなかった……
アリーが、再び口を開きかけたときーービクの声が通った。
「俺は、アリーが言ってるような匂いは感じない」
ジェラを含め、その場いる全員の目が、〈キューア〉のリーダーへ向けられるーー
「では、どんな匂いがする」
「たまごが腐ったような匂いだ」
ミゲの眼光が、黒い瞳を捕らえるーービクもそらすことなく、真正面に見据えていた。
張り詰めた沈黙が流れーーやがて、鋭い視線が外れる。
「おまえたちには、この匂いを鼻に焼きつけて、近いうち必ず、事の真相を突き止めてもらう」
息詰まる空気がーー僅かに、緩まるのだった……。
ジェラは静かに息を吐き出し、強張った顔を、横へ向けるーー
(あ……)
〈あるもの〉が、目に映るのだった。
蜘蛛の巣が張った、階段の下ーーそれはしなび黒ずんだ、〈植物の葉〉のようなものが、落ちていた。
この荒んだ部屋のなかに落ちていても、目立つことなくーー誰も、不思議に思うことさえないような、それは小さなものであったが、ジェラはなぜか……強く惹きつけられ……視線を離すことができなかった……。
今いる場所から、大股に二歩、三歩ーー横へいった壁につくかたちで、階段はあった。
ジェラは、ためらいながらも、ついに心を決めると、そーっと一歩……階段のほうへ寄る……
「なんだ」
すぐに、鋭い声に捕まるのだった。
ジェラの身が、ビクっと縮み上がる!
それはしごく当たり前の結果であったが、ジェラはどうしても近くで、見てみたかったのだ。
耳の奥でドクドクと音がし……冷たい汗が一挙に吹き出す……
この状況で嘘をついても、ますます悪い方向へ、向かうような気がした……
ジェラは、痺れたような唇を開いた……
「……その……気になるものを……見つけて……」
広い部屋に、威圧的な長靴の音が響くーー
ミゲは階段のもとへ行くと、床に落ちていた、〈しなびた葉〉をつまみ上げる。ーーそれはたくさんの人に踏まれ、平たく擦り切れていた。そして不思議と、なんの匂いも感じられなかった。
「これのことか」
「はい……」
「なんだそれ」
ビクが、眉間に皺を寄せて言う。
「なんかの……〈葉〉みたいだな……」
黒い髪をしたガルが、目を凝らして、つぶやいた。
「このみすぼらしい〈葉〉が、そんなに気になるか」
ジェラは、なんと答えればいいのか分からず……俯くのだった……。
「この粗末な〈葉〉なら、前にも一度、見たことがある」
低い声が響き、ジェラの顔がはっと上がる……
「わざわざ〈花〉がもぎ取られた〈葉〉だけを置いていくとは、下民のものも、なかなかセンスがあるものだと感心した」
「これと同じものが、他の〈鉛の屍〉が見つかった場所でも、落ちていたってことですか?」
アリーが口を開く。
「そうだ」
ミゲは冷淡に、放つのだった。
メンバーたちの瞳が、宙へ垂れた〈葉〉を見つめる………
誰が……一体、何のために……この特殊な場所へーー〈鉛の屍〉の傍へーー〈花のすがたのない葉〉を、置いていくのか……
すべてのことは……繋がっている気がした……
ジェラの褐色の瞳がーー床に静かに横たわる、〈鉛の屍〉ーー青年の顔をーー見つめる………
(あなたの名前は……どうしてそのすがたに……〈秘密の洞窟〉には、なにがあるの……)
そのときーージェラの耳元に下がる、〈しずくの耳飾り〉が、ぽうっと青く光ったのを、誰一人、目にしたものはいなかった。