第十章•〈鉛の屍〉㊁
「全員そろったかーー」
広い倉庫のなか、ミゲの声が響き渡るーー
一人、いつもの膝掛け椅子に腰かけ、変わらず向けられた者が竦み上がるような、鋭い眼を光らせた男は、深緑の衣に包まれた長い足を、小刻みに揺り動かしていた。
常ならば、帝国の大君主に関する、一つの例外をのぞいて、まるで感情という存在を、欠いたミゲであったが、今は倉庫にいる誰もが、視線の先に映る男の苛立ちを、敏感に感じ取っていた。
「まだ一人、来ていません」
アリーが、静かに答える。
濃い眉の間に、ぐっと深い皺が寄り、倉庫を満たす空気に、ピリピリとした緊張が走る……。
そのときーーみなの顔が、一斉に振り返るのだった……
「遅いぞ、ナンバー8」
すかさず、矢のごとく、鋭利な声が飛ぶ。
鋭い矢尻に貫かれた、鮮やかな橙色の髪が、びくりと揺れる。
「すみません……」
掠れた声が響き、ハイリは重い扉を急いで閉めると、中央にある集まりへ、走って加わった。
ジェラの隣に立ったハイリは、まだ苦しそうに、胸を大きく上下させ、その横顔には、汗がいくつも流れ落ちていた。
「あの……よかったら……」
ジェラが、腰のポケットから、きれいに折り畳まれた白い布を取り出し、そっと差し出す。
「あ……ありがとう」
ハイリは、それを受け取ると、頬に流れた汗を拭った。そして、はじめて小さな笑みを向け、「これ、借りとくね」ーーと、囁くのだった。
その様子を、少し離れたところから見ていたビクは、ジェラを睨み、心のなかで舌打ちをした。
(あいつ……俺が渡したやつを……)
「全員そろったな」
静まり返った倉庫のなかーー再び、低い声が響くーー
息を詰め、緊張を映したメンバーたちの先に、大きな身がそびえ立つ。
「ついてこい」
放たれた、冷ややかな声にーー若者たちの瞳が揺れるのだった……。
ミゲに率いられ、〈キューア〉のメンバーたちが外へ出ると、みなが一斉に、同じ方向へ目を向けた。
(あれは……なんだろう……)
遠く視線の先から、黒いなにかがーーこちらへと、近づいてくるのだった。
「馬……?」
ジェラの横にいたアリーが、眩しい陽に手をかざして、つぶやいた。
倉庫へ近づくにつれて、立っている地面の振動を感じながらーーまもなく、その正体が、わかるのだった。
「こりゃ、すげぇな……」
〈キューア〉のメンバーたちの、大きく開かれた瞳にーーまるで、芸術品を思わせる、二台の馬車が、輝かしく映っていた。
濡れ羽色の、美しい馬車にはーー目の覚めるような真紅の席が、縦に向かい合って、設けられている。
屋根がないかたちの、艶やかな馬車の側面には、例の紋章ーー〈銀色に輝く、稲妻の花〉が、水面から浮かび上がるように、光輝を放っていた。
そして、それぞれの馬車の前には、2頭ずつーー黒々と艶光り、煌びやかな馬具飾りをつけたすがたの黒馬たちが、並んで繋がれているのだった。
高い御者台にいた、二人の中級兵士が、さっと地面へ降り立つと、すばやくミゲとメンバーたちに敬礼をみせる。
〈ムー〉の建物の前にいた、二人の中級兵士とは、ちがう人物たちだった。
すると、二台の馬車の後ろから、剽悍な黒馬にまたがった、また別の兵士が現れた。
切り揃えられた髪に、黒いマントすがたの中級兵士たちと違い、長い髪を後ろで高く結び、ジェラとビクにとっては、つい最近見たばかりの、純白のマントを身に纏っていた。
上級兵士は、軽やかに地面へ降り立つと、その左胸に手を当てて、同じくミゲとメンバーたちに深く頭を下げる。さっと顔を上げ、口を開くのだった。
「ミゲ様、遅れまして、誠に申し訳ございません」
「いや、こちらも遅れが生じたゆえ、ちょうどよかった。 なにか問題でもあったか」
鋭く放たれた、ミゲの声に、引き締められた上級兵士の顔が、冷たく強張る。
「いえ、問題というほどのことではございません」
「かまわん、報告しろ」
「はっ! こちらへ向かう途中、街の外れにて、飛び出してきた下民の子ども一名と、衝突いたしました。ですが、すぐに確認をし、馬、馬車共に、損傷はございません」
近くで聞いていた、メンバーたちが、瞬間息をのむのと裏腹にーー上級兵士は、微塵も表情を変えず、いたって冷静に、報告するのだった。
「ぶつかったほうはどうなった」
「はい、死んだと思われます。その母親らしき女が、子どもにまとわりつき、警告後も道をあけなかったため、粛清いたしました」
「わかった。馬車の扱いには、以後より注意をもて」
「はっ!」
上級兵士と、後ろに控えた二人の中級兵士とが、声をそろえ、頭を下げた。
〈キューア〉のメンバーたちは、〈粛清〉という言葉が、不気味にこだますなか……内に突き上げてきた感情を、押し殺すのだった……。
五人ずつーー二つに分かれて、豪華な馬車に乗ったメンバーたちは、(高さのある座席へは、格納式の階段が引き出され、現れるのだった)向かっている場所もわからないまま、みな無言で、座席に揺られていた。
その馬車に乗る際、ミゲが、数字で区切ることを命じたため、最後の番号であるジェラは、アリーやビクとは、違う馬車に乗り込むのだった。
メンバーたちが乗る、二台の馬車の前には、上級兵士と、愛馬にまたがった、ミゲのすがたが先導していた。ーー出発前、ミゲが細く小さな笛を取り出し、ピューイ、ピューイ、ピューイ……と、高く吹き鳴らせば、驚いたことに、どこからともなく、目を見張るような見事な〈黒馬〉が、主人のもとへ、駆け現れたのだ。ミゲが、『ダルドリット』と呼んだ、この専用馬は、馬車に繋がれた馬たちや、上級兵士の乗る黒馬とは、一目見ても明らかに、格が違うのだった。
そうして、馬車が走り出してすぐ、ジェラの脳裏へよぎったのは、例のフェンスのことだった。
考えてみればーーダダ王にケガを負わせた、あの棘だらけの高いフェンスを越えなければ、〈倉庫〉へは、たどり着けないはず。
それならばーー馬や馬車は、果たしてどうやって、そこを通り抜けてきたというのか……。隠された抜け道のようなものが、あるのだろうか……。
湧き上がった疑問は、ほどなく、いとも簡単に解かれるのだった。
先頭を行く上級兵士が、再びさっと馬から降り立つと、なにか特別な目印があるわけでもなく、どれも同じすがたに見える高いフェンスの一つに、迷いなく進んで行った。ーー巧みに隠された、小さな鍵穴へ、纏う白の衣の内から取り出した鍵を、差し入れる。
辺りに、錠が解かれる、鈍い音が響き渡りーー上級兵士は、まるで巨大な門扉のように、隣り合う二枚のフェンスを、大きく開け放すのだった。
馬車は今ーー色褪せた過去の町を抜け、色彩ある帝都の街のほうへ、進んでいた。
ジェラは、ハイリ、インナと共に座る、進行方向の席の端から、力強い足取りに引っぱっていく、黒馬のすがたを、見つめていた……。
陽光に飾りが煌めき、風になびいた、漆黒のたてがみの先にはーー前半の番号をもつ、アリーやビクたちの乗った、馬車のすがたが見えていた。
一行が、進む前方に高々とそびえ立つ、〈銀細工の城〉へ向かって、街の外れに差しかかったときーー〈キューア〉のメンバーたちは、それぞれに身を固くして……あたりの景色を眺めるのだった……。
先頭をいく上級兵士が、朗々と声を響かせ、一行の通りを告げていくーー
〈街〉の中心に比べ、見るからに手入れの粗雑な道は、馬車などの通行に支障がないよう、道幅だけは広くとられ、その両側を、いかにも粗末な造りの家々が、圧せられ、押しやられるように、窮屈に並んでいた。
ガタガタと揺れる高い馬車の上から、ジェラが身を乗り出して、下を見た瞬間ーー激しく打つ心臓が、冷たく凍りつくのだった……
広い道のいたるところ、額を地に深くこすりつけた、痩せ細った人々のすがたがあった。
大人も子どももーーみな、短く刈られた頭に、汚れ擦れた衣の身を、小さく竦めていた。
すぐ目の前を、馬や馬車が荒々しく砂ぼこりを巻き上げても、彼らはただじっと、決して面を上げることなく、微動だにせず、それらを浴び続けていた。
ジェラは、過ぎていく光景をーーなにもできず……空虚な瞳に、唇を噛み締め……見つめるのだった……。