第八章•〈城〉㊂
(す……ごい……)
扉を入ってすぐーーそこは、見上げる高い吹き抜けになった、巨大なホールだった。
五階までーー美しい層となって見える、各階には、せわしなく行き来する、多くの兵士たちのすがたがあった。
その兵士たちのなかに交じって、何人かーーミゲと同じように、高貴な衣を身に纏い、目につくひと際長い髪を、いかにも仰々しく結わえたすがたの人物たちが、ジェラのドキリっとした視線の先に、映るのだった。
大きく開かれた瞳がーー吸い込まれるように、はるか高い天井を見上げる……。
巨大なホールの頂には、五段はあろうかという、これまた豪奢なシャンデリアが、眩いばかりに煌々と、華を咲かせていた。
ジェラは、この圧倒される景色がーー外から見た、あの〈銀細工の城〉にとって、まだほんの一部なのだと思うと……ぐらりとめまいがし、背筋をひんやりとしたものが、なでるのだった。
前を行く下級兵士は、入口から真っすぐに伸びた、真紅の絨毯の上を進んでいくーー
鮮やかな絨毯が導く先ーー豪華絢爛なホールの、まさに主役といえる、濡れ羽色の石でできた、美麗な〈大階段〉が、待ち受けていた。
(あの階段を……上るのかな……)
まるで大きな舞台のようなすがたに、狼狽えたジェラが、心の内でつぶやいたときーー向こうから、二人のすがたに気づいた兵士が、こちらへと向かってくるのだった。
すらりと背の高い兵士は、白の衣を纏い、長い髪を後ろで高く結んでいた。
(上級兵士だ……)
ジェラは全身が、強張るのだった……。
足を止めた二人の前に、上級兵士がやってくると、下級兵士はさっと脇へ退き、すぐさま敬礼をみせた。
上級兵士の纏う白い衣にはーーその両肩に、〈稲妻の花の紋章〉が、銀色にきらきらと輝いていた。
ジェラはこれで、〈リグターン〉の三階級にわかれた兵士のすがたを、すべて目にしたのだった。ーー(ちなみに、下級兵士は、どの階級の兵士もみな腰に携えた、剣の鞘に、例の〈紋章〉があるだけだった。恐らくは、中級兵士から、纏う兵衣に、崇高な〈紋章〉が、授けられるのだろう)
上級兵士は、向かい合うジェラへ向けて、敬礼をみせると、口を開いた。
「コセ、こちらのお方は」
「はい、このたびミゲ様がお招きになられました、〈使節団御一行〉の、おひとり様であらせられます。 本日は、ミゲ様へのご用件で、〈城〉へ参られました」
上級兵士は、コセと呼ばれた、下級兵士の報告を聞き終えると、短い間をあけて、油断なく光る瞳を、目の前にいるジェラへと向けた。
実際には、相手に失礼にならないよう、短い沈黙ではあったがーージェラは、心臓が早鐘に打ち……さすがになにも読み取れぬ面の裏に、訝しさが浮かんだのではないかと、不安に襲われるのだった。
「さようでございましたか。 それでは、これから先は、このキマルが、責任をもってご案内させていただきます」
「えっ……あ……はい……。……お願い、します……」
突然のことに、ジェラが戸惑いながらも答えると、横にいた下級兵士は、二人に向けて、深々と頭を下げ、すばやく自分の持ち場へと、もどっていくのだった。
(あっ……お礼が……)
ジェラは、走り去っていく下級兵士の後ろすがたを、不安と後悔の滲む目に、見つめた……。
案内役が代わったのち、ジェラはやはりあの〈大階段〉を上りーー(終始そわそわとしていた)ーー一階からずいぶんと高いところへある、いかにも特別な、二階へと進むのだった。
その二階を占める広さは、これまたジェラの想像をはるかに越えるもので、数え切れぬほどの扉ーー複雑に入り組んだ廊下が、まるで迷路のごとく思われた。
ジェラは進んでいくうち、改めて、それがたとえ上級兵士であろうが、無事に案内をしてくれる人物を見つけられたことに、心から安堵するのだった。
キマルという名の、上級兵士のあとに続いて、今進んでいる廊下はーーこれまでよりずっと広く、ずっと奥へと伸びていた。
そして、廊下のいたるところ、どこかへと続く階段が見られ、ジェラは、このやたらに多い階段の存在が、この稀に見る複雑なまでの〈城〉の構造を支え、繋げているのではないかと、目にするたび、そう思うのだった。
途中で出会った兵士たちは、みな忙しそうななか、ジェラたちのすがたに気がつくと、わざわざその足を止めて、敬礼をみせた。
そうして二人が、果てしないようにも思える、長い廊下のずっと奥に見えた、突き当たりへ向けて、足を進めているとーーおもむろに、上級兵士が口を開いた。
「ミゲ様は本日、未明にご到着されました、隣国からの賓客様を、ご対応なさっております」
ジェラの足がーーピタリと止まる……。
前を行く上級兵士も、すぐに気づき、足を止めて、振り返るのだった。
「……やっぱり、今日はやめておきます……」
蒼白となって言うジェラに、上級兵士は落ち着き払った声で、すぐさま言葉を継いだ。
「いえ、それには及びません。 ミゲ様はいつも、そういった場合には、お客様にお待ちいただくよう、わたくしどもに指示されております。 もし、お時間がかかるようでしたら、改めてその旨と、お詫びのほうを、お伝えさせていただきます。 これからご案内させていただきますのは、ミゲ様がおられます、〈迎賓室•銀華の間〉のお隣ーー〈鈴の間〉でございます。 そちらのお部屋で、どうぞお休みになりながら、お待ちください」
ジェラは、しばらくの間黙していた。……やがて、ぎゅっと結ばれていた白い唇が、静かに解かれる……
「……その……でしたら……もうここで大丈夫です」
目の前にいる兵士の面に、はじめて、困惑の色が見られるのだった。
「ですが……」
ジェラは、決心が揺るがぬよう、すばやく声を返す。
「ここまで案内をしていただいて、もう迷う心配はなくなりましたし、それに……今日は、こちらが急にやってきたので、少しその部屋で待ってみて、やはり時間がかかるようでしたら、日を改めます」
上級兵士は、少しの間、黙考していたが、これ以上言えば、相手への失礼にあたると思ったのだろう、気持ちを切り替えるように、ひとつ息を吸った。
「かしこまりました。 では、私はこちらで失礼いたします。 もしなにか、お困りごと、ご入り用がございましたら、なんなりと、〈城〉におります兵士たちに、お申しつけください」
「ありがとうございます……」
ジェラが礼を口にすると、上級兵士は美しい敬礼をみせ、さっそうとした足取りに、進んできた長い廊下を、引き返していった。
(ここだ……)
ジェラの瞳にーー濡れ羽色の荘厳な扉が、映っていた。
重厚なつくりの、両開きの扉には、その真ん中にーー銀色の、大きな〈稲妻の花の紋章〉が、これでもかと光り輝いている。
長く続いた廊下は、ようやくここで、行き止まりを迎えるかと思っていたが、実際には、この〈迎賓室〉ーー〈銀華の間〉に隠れるかたちで、突き当たりの左奥に、上へと続く、例の階段が存在しているのだった。
ジェラははじめ、上級兵士に言われた通りに、〈銀華の間〉から離れた手前にある、〈鈴の間〉へ入ろうとしたのだが、手垢一つない、磨かれた取っ手を一度掴んだだけで、結局なかへは入らず、そのまま〈迎賓室〉の扉の前にーー今こうして、立ち尽くしていた……。
まさか、今日という日に限って、隣国から、賓客が見えようとはーーそれも、ジェラより早く、夜明け前にやってきたというのならば、よほどの事情があるはずーーこちらも重大な使命を帯びてやってきたのだが、総合的に考えて、運に見放されたとしか、思えなかった。
上級兵士に言った通り、ジェラは長く待つことはせず、苦労してここまでたどり着いたのだが、今まさに……諦める拳を、固めようとしていた……。
ジェラの脳裏にーービクの顔と、〈ムー〉のすがたが浮かび……暗いため息が漏れる。
広く長い廊下の、一番奥ということもあり、ときおり遠くから、兵士たちの声や足音が聞こえてくる他は、あたりはひっそりと、静まり返っていた。
要人がいる場に、見張りの兵士がいないことは、意外であったが、耳を澄ませてみても、当たり前に、部屋のなかの声や物音は、聞こえなかった。
ジェラはそのうち、あまりの静かさに、本当に部屋のなかに、人はいるのだろうか……と、疑いが湧いてくるのだった……。
(耳を……つけてみようかな……)
鼓動が、激しく身を打つーージェラはさっと、あたりを見回した……。
やはり兵士のすがたはない。
ジェラは、深く息を吸い込むと、水に潜るように止め……片方の耳を、濡れ羽色の扉へ、そっとくっつけた……
(あっ……)
褐色の瞳が、大きく見開くーー
(声が聞こえる……)
厚い扉に阻まれ、低くくぐもり、なにを話しているかまではわからなかったが、たしかに、声域の違う、二人の人物の声が、意識を集中させた耳に届くのだった。
(あれ……)
ジェラの眉が寄る……
(どうしてだろう……)
なぜか……聞こえてくる声が、どんどん大きく……はっきりとしてきているように、思われたのだ……
(……この音……長靴の音だ……っつ!……まさかっ!……)
扉につけられていた身が、弾かれたように飛び退る!
次の瞬間ーー煌めく〈稲妻の花〉が、真っ二つに割れ開かれたーー(恐らく、何度割れようとも、復活を繰り返す、不滅の意なのだろう)ーー
「私は諦めません。兄上にはいずれ必ず、お会いします」
静まり返っていた廊下にーー怒りを押し殺した声が、響き渡る。
ジェラはというとーーもはや隠れる暇もなく、扉から離れた少し先ーー広い廊下の隅に、息を殺して……縮こまるのが、やっとだった……。
廊下に現れたミゲの後ろに、その声の人物が続いて現れるーージェラの青ざめた視線がーー反射的にーーそちらへ向けられた……
(……〈獣〉の匂い……)
鼻腔へ届いた、強烈な匂いにーージェラは一瞬間……万事休すといった、今の状況を忘れるのだった……
だがーーそれはすぐに、慄く現実へと、引きもどされる。
最も恐れていた刃が、ジェラの身を突き刺したのだ。
ミゲの、かつてないほど鋭利な眼がーー睨み据える。
走った痛みに、血が流れ出したかのように、息が止まり……血の気が引き……全身が凍りつく……。
ミゲの後ろにいた男が、廊下に満ち生じた異変に気づき、前へ進み出ようとしたーー刹那、すかさず、低い声が制するのだった。
「ダダ様、お連れさまの分も、お部屋を用意してございます。本日はどうぞ、そちらでお休みください。今はこれ以上、なにを言われようと、事の進展はございません」
ミゲは冷然と言い放つあいだも、視線の先に刺し捕らえた、憐れな獲物のすがたを、一時も放すことはなかった。
「では、私はこれで失礼いたします」
ミゲは、一方的に締めくくると、すばやく長靴を進めた。
悪夢にこだますような……恐ろしい足音はーー真っすぐに、ジェラへ迫っていく……
あまりの恐怖に、痺れたような顔を上げていられず、半ば祈るように……床へと伏せた……
悪夢であってほしい……たとえ夢だとしても、今すぐこの場から、全力で駆けて逃げ出したかった……だが、身体が……金縛りにあったように……まったく動かなかった……
そのため、ミゲの後ろに残された人物が、力強い眼差しにーーこちらをじっと見つめていることも、今のジェラには、知る由もなかった。
ミゲは、ジェラの目の前までやってくると、まるで離れたところにいる男から、そのすがたを遮るように、大きな身体で、立ちはだかるのだった。
「なぜ〈城〉へきた」
冷ややかな声がーージェラの身に、鳥肌を走らせる……。
ジェラは喉が固まって、うまく声が出なかったが、なんとか、細い声を振り絞るのだった。
「……〈ムー〉の……ことです……」
顔を床へ伏せたまま、震えた声に言う。
ミゲは、その言葉を聞くと、一層声を低めるのだった。
「〈ムー〉がどうした」
「……食べものも水も……口にしません……」
ジェラの掠れた声が消え……不気味な間があく……
「はるばる〈城〉まできて、それを私に、伝えにきたのか」
ジェラは、なんと答えればいいのかわからず……そのまま耐え忍ぶように、床を見つめていた……。
すると、すぐに、再び低い声が通る。
「私に救いを求めてきたのなら、残念だが、無駄骨だ。なぜなら、あれについて我々が知っていることは、ほとんど皆無に等しいからだ」
呪縛を解かれた顔が、さっと上がる……
「で、ですが……このままだと……」
その先がーーどうしても、言えなかった……。
ミゲは、鋭い眼光を突き刺したまま続ける。
「報告は受け取る。だが、私からは以上だ。これまで通り、ナンバー2と共に、与えられた任務を遂行しろ」
その声ははっきりと、終わりを告げていた。
「……はい」
ジェラは暗く俯いたまま、消え入るような声で、答えるのだった。
はじめからーー期待こそ、してはいなかったものの……ここまで懸命にやってきた分、その結果が、無残なまでに崩れ落ちると、ジェラは大きな音と共に、一気に心が折れてしまったような気がした……。
ならば……一刻も早く、ここを出ようと、俯いていた顔を、前へ向けるーーと……ミゲの広い肩越しに、一人の人物のすがたが、映るのだった……
(立派な〈毛皮〉……)
その人物はーーさきほどミゲと共に、〈銀華の間〉から出てきた、男だった。
なぜかまだ、その場に残ったまま、こちらをじっと、見据えていたーー
ほんのわずかな時ーー二つの視線が、一直線に交わる………
ジェラの前に立つミゲが、それを見逃すはずもなく、すぐに背後を見やると、二人の間を、すばやく断ち切るのだった。
ジェラは突然肩を掴まれ、ビクっと縮み上がる!ーー気づいた時には、身体がくるりと反転し、もときた廊下の先へ、向けられていた。
背後に、無言の圧ーー鋭い監視を受けながら、一度も振り返ることを許されず、ジェラは再びーー〈大階段〉のもとへと、もどってくるのだった。
濡れ羽色の階段を下りようとしたときーーミゲが、静かに口を開く。
「今後はなにかあっても、〈城〉へは来るな。 〈呼び鈴〉が鳴るか、私が現れるまで待つんだ。 他の者にも、伝えておけ」
「はい……」
ジェラは小さく頭を下げると、ほとんど逃げ出すように、階段を下りていった。
鳶色の髪が、視界から完全に消え去るまでーー高い階段の上からの監視は、続いていた。