第八章•〈城〉㊁
ジェラは〈城〉へと続く、高貴な〈石橋〉を進んでいたーー
途中、何度も後ろを振り返り、少しでも勇気づけられるすがたを探したが、結局は無駄だった。
〈石橋〉のうえには、他に人影はなく、この長い橋を渡り、巨大な〈銀細工の城〉へと向かうのは、どうやら自分一人のようだった。
すんっとした、早朝の冷たい空気のなかーー進むごとに重く感じられる足に力を込めて、一歩ずつ前へ、鈍く引きずるような歩みを進めていく……。
そうして、ようやく、橋の中央へさしかかろうとしたときーー突然、ジェラの身体が、勢いよく欄干へ吸い寄せられたーー!
目に飛び込んできた光景に、思わず身をのりだして、息をのむ……
「すごい……」
〈城〉へと続く、高い〈石橋〉の下にはーー壮麗な〈水堀〉があったのだ。
中央にそびえる巨大な〈城〉を、帝都の街同様ーーぐるりと取り囲むようにして、〈水堀〉は円状に存在していた。
ジェラがなにより目を奪われたのは、その満満と湛えられた、澄んだ深い水のなかーーそれは見るも鮮やかに彩られた、まこと美しい色彩たちのすがただった。
色とりどりの、艶やかな無数の〈鯉〉たちが、何万匹ーーいや、何十万匹といった、圧巻の光景に、見渡す限りに泳いでいた。
赤ーー白ーー黒ーーの他、群を抜いて光り輝く銀色とーー金色に輝くものまでーー
そして、その半分が、それらの色が合わさった、美しいまだら模様の〈鯉〉たちだった。
ジェラはしばらくの間、時を忘れて……竦むような橋の上から、〈水堀〉のなかを優雅に泳ぐ、〈鯉〉たちのすがたを、眺めていた……。
やがてーージェラの手が、静かに欄干を離れる。
その顔が再び、前へと向けられた……。
ジェラは、深く息を吸い込むと、止まっていた足を、踏み出していくのだった……
ジェラの視線の先にはーーあの〈緋色の大扉〉が、立ちはだかっていた。
こうして近くに来てみると、遠くからでも十分に伝わった、鮮烈な扉の放つ、堂々たる威風が、さらにその力を確かなものに、この稀にみる〈城〉の入口を、見事に務め果たしていた。
強張った瞳がーー〈ダリア〉と名のつく扉の、ちょうど真上に頂いた、〈冠のようなあるもの〉へと、強くとまる……
その瞬間、脳裏へーー光が走るのだった。
(この〈模様〉……間違いない……)
視線の先に映る〈模様〉は、周りの壁から、巧みに浮かび上がるようにして彫られた、円のなかにあったーー
ジグザグとした、いくつもの鋭い稲妻がーーまるで、大輪の花を咲かすように、中心から閃いているーーー
渡ってきた橋の欄干や、街中で見たガラスランプにもあったこの〈模様〉は、〈ムー〉の建物の前にいた、中級兵士の黒い衣についていた、銀のボタンーーミゲの両耳にいつも光っている、銀の耳飾りと、同じ〈模様〉だった。
つまり、今ーージェラの瞳に映る、この〈稲妻の花〉こそーー大帝国〈リグターン〉を表す、〈紋章〉だったのだ。
光輝な〈紋章〉から離れた視線がーー巨大な扉の両脇に見えた、複数の人影を捉える……。
ここまできて、そんなことは端から、想定内であったはずの、重大な問題に、ジェラはぶつかるのだった。
(どうしよう……見張りの兵士がいる……)
灰色の衣に、ものものしく武装したすがたの、いかにも屈強な四人の兵士たちが、待ち構える〈緋色の大扉〉と共に、〈城〉の入口を、厳重に守っていた。
兵士たちはみな、短い髪をしていて、ジェラは兵士たちの髪の長さから、ビクの言っていた、下級兵士なのだと、知ることができた。
幸い、ジェラが今いる橋の袂から、兵士たちのいる場所までは、まだ少し距離があった。しかし、他に人影のないなかーーぽつんと一人突っ立っている、長い髪をしたジェラのすがたは、隠しようもなく目立ち、警備の任務につく兵士たちにしても、その場から微動だにしないものの、すでにジェラの存在を、把握していることは明らかだった。
心臓の音がーー太鼓を打ち鳴らすように……全身に震えこだます……
そもそもーー今重く閉じられている扉を、自分がなかに入りたいと言ったところで、すぐに開けてくれるのだろうか……
大扉が開け放たれるという時刻まで、待ったほうが、いいのではないか……
そして、このままここに突っ立っていても、変に怪しい人物として、最悪の場合、兵士たちに捕らえられてしまうのではないか……
一旦、橋を引き返すべきか……
さまざまな不安が襲い、それらと身の内で格闘した結果ーージェラは、覚悟を決めることにした。
別に殺されるわけではない……ここまできたら、当たって砕けろだと……半ば投げやりな思いに、ジェラは改めて、立ち竦む己を奮い立たせるのだった。
冷たい汗の滲んだ手を、ぎゅっと握りしめる……。
膝が震えたような足を、〈緋色の大扉〉へ向けて、踏み出した……
下級兵士たちは、ジェラが近づいていっても、ピンっと張ったその姿勢を、崩すことはなかった。
とーー鼻腔に、じんと香ばしい匂いを感じる……
ジェラは、その匂いの正体が、すぐにわかった。
(〈馬〉だ……たくさんいる……)
まもなく、張り詰めた大気を震わせて、勇ましい嘶きが、響き渡るのだった。
(もしかしたら……近くに、厩舎があるのかもしれない……)
ジェラは、自分を乗せてくれた、ボンゴの荷馬車の〈黒馬〉のことを、思い出すのだった。
重いであろう、たくさんの積荷と人を(主人は、まるまるとしていた)一生懸命に、ぐいぐいと引っぱっていく、力持ちの牝馬で、ボンゴは愛おしそうに、『かみさん』と呼んでいた。
ジェラは、これまでも街で何度か、〈黒馬〉のすがたを、見かけていた。
そのたび、やはりこの世界でも、〈馬〉の存在というものは、とても大切なものなのだと、改めてそう感じるのだった。
そんなことを考えていた、ジェラの足がーービクっと止まる。
ついに、大扉の目の前に到着したところで、それまで置物のように、身動きひとつしなかった兵士たちが、一斉に深々と、頭を下げたのだ。ーー左胸に手をあてた、例の敬礼だった。
ジェラが固まったまま、その場に立ち尽くしていると、若い兵士の一人が、ゆっくりと近づいてきた。
「おはようございます。 無礼をお許し願いたく、お尋ね申し上げます。 ミゲ様のお客様で、〈使節団御一行様〉の、お方であらせられますでしょうか」
ジェラは一瞬、ぽかんとしてしまった。ーーが、すぐに事を理解して、慌てて頷いた。
「……はいっ、そうです……」
まさかここまで、ミゲという男が、用意周到に手を回していようとは、思いもしなかった……。ということは、いずれ〈キューア〉の誰かが、〈城〉へやってくることを、わかっていたのだろうか……。
兵士の声に、ジェラの思案が破られる。
「本日は、ミゲ様へのご用件でしょうか」
「あっ……はい、そうです……その……ミゲさまに……お会いしたくて……参りました……」
ジェラの拙い言葉にも、下級兵士は、凛然とした顔色一つ変えず、どこまでも真摯に、応対するのだった。
「かしこまりました。 ご案内いたします。 今しばらく、こちらでお待ちください」
下級兵士は言うと、再び深々と頭を下げ、ジェラをその場に残し、すばやく走り去っていった。ーー後方で、二人のやりとりを聞いていた、残る兵士たちも、みな同時に、動き出すのだった。
ジェラの不安げな目がーー一人、なぜか扉から離れていく、若い兵士のすがたを追っていくーー兵士は、〈緋色の大扉〉から離れたところにある、一見他となんの変わりもない、そそり立つ〈城〉の壁に、立ち止まるのだった。
その手を前へ伸ばすと、指先で壁になにかをなぞるような動きをし、ぐっと押すーー
(あっ!……)
見事なまでに隠されていた小さな扉が、ぱっと内側へーー開くのだった。
兵士のすがたは、吸い込まれるように、なかへと消えた。
ジェラが目を見張っていると、ほどなく、なにかがガチっと外れる、鈍く大きな金属音が響いた。ーーその音を合図に、すでに両開きの巨大な扉の前、銀に輝く美しい持ち手を掴んでいた三人の兵士たちが、一斉にーー力を込めて、二枚の扉を引いていった………
シャン、シャン、シャン、シャン、シャン……………
敏感な音に、跳び上がらんばかりに身を震わせたジェラをよそにーーどこからか、まるで朝露を踊らせるような、涼やかな鈴の音が、鳴り響く………
〈緋色の大扉〉は、ゆっくりとーー開かれていったーーー
……っつ!……
ジェラの瞳が、これでもかと、大きく見開かれる!
(扉が……もう一つ……)
なんとその先は、まだ〈城〉のなかではなく、美しい白石が敷き詰められた、広い外周場と思われる、外にあたる部分だったのだ。
〈緋色の大扉〉が開いた、その真正面にーーもう一つ、同じ鮮やかな色をした扉が、一回り小さい形で、それでもやはり十分な存在感を放ち、佇んでいた。
「どうぞこちらへ」
ジェラの顔がはっと向くと、いつのまにか横に立っていた、先ほどの下級兵士が、正面に見える扉へと、案内していくーー
大きな馬車でも、優に四台は横並びに走れる、幅の広い外周場を横切り、ようやく、扉のもとへたどり着く。
ついてきたもう一人の下級兵士と共に、今度は二人で、ひと際輝く〈緋色の扉〉を、開けていくのだった………
………「お待たせいたしました」………
兵士の声がーージェラの耳には、届いていなかった……
目の前にひらけた光景にーー言葉を失う……
今まで……記憶にある限り、これほど豪華絢爛な景色というものを、見たことがなかった……
「……ご気分、お悪いでしょうか……」
ようやく、意識へ届いた声に、ジェラは我に返る。
声のしたほうへ顔を向けると、そばに立つ下級兵士が、案ずる面持ちに、ジェラを見つめていた。
「あっ……すみません。大丈夫です……」
ジェラが慌てて言うと、若い兵士の顔から、冷たい緊張の色が消えていった。
「では、ご案内いたします」
下級兵士に続いて、恐る恐る足を踏み出したジェラは、ついに、〈銀細工の城〉のなかへーー入るのだった……。