第八章•〈城〉㊀
ドクンっ……ドクンっ……と、大きく脈打つ鼓動が、頭の先からつま先までーージェラの全身に、響き渡っていた……。
足下に見える黒い長靴は、その場に根を下ろしたかのように立ち尽くし、微塵も先へ、動くことはなかった。
ジェラの目の前にはーーついに、唯一無二の〈銀細工の城〉が、そびえていた……
夜明け前の、薄青い天を背にーーはるか仰ぎ見る、細い頂まで輝いた、それは圧倒的な〈銀〉のすがたが、この〈城〉の不動の地位を、見るものすべてに、知らしめていた。
大小さまざまに、数えきれぬいくつもの尖塔が、まるで鋭い槍の穂先のごとく、天を突き刺しーー地上に映る、小さな蟻たちのような人々のすがたを、銀色に光る眼で見下ろしていた。
ジェラはもう幾度となく、目の前にそびえる〈城〉のすがたを、見てきたはずだった。
それどころか、視界に映らない、ということのほうが難しく、いつでもどこでもーー常に、この世界ーー大帝国〈リグターン〉にいる限り、巨大に睥睨する存在からは、決して逃げられないのである。
しかし、今ーーそのもとへ、はじめて来てみれば、想像をはるかに上回る、あまりの迫力に……見上げている全身から、思わず力が抜けていくのだった……。
血の気が失せ……めまいが襲い……ジェラは慌てて、青白い顔を地上へ下ろす。
なんとか落ち着こうと、褐色の瞳がーー足下を捉えるのだった。
ようやく、窮屈だった革が馴染み、自分の足になってきた相棒ーー土汚れが、白く浮いた長靴の先ーーあと一歩を踏み出せば、そこから先は、一目見ても明らかに、〈特別な領域〉へと、入るのだった。
チクチクと小骨が刺さったような喉が、ゴクリっ……と、大きく鳴る……。
白く強張った顔が、前へ向いた……
ジェラは今ーー豪華な〈石橋〉の袂に、立っているのだった。
真っすぐに、ずっと先までのびた巨大な〈石橋〉は、銀一色の世界に鮮烈に咲いた、真っ赤な大輪ーー〈緋色の大扉〉へと、続いているーー
〈石橋〉には、光沢を静めた青みを帯びた黒石が、惜しげもなくふんだんに使われ、巨大な橋全体が、異世界へ誘うようなーー異彩を放ち、静謐な雰囲気を湛えていた。
そして、これまた芸術品のごとく、美しい橋の欄干には、一定の間隔をあけて、球体のガラスランプが、銀色の光を灯していた。
ジェラの視線がーー近くにあるランプへとまる。ーー
真ん丸なガラスの表面には、繊細なすがたに、〈ひとつの模様〉が、彫られているのだった。
ジェラは以前にも、同じ〈模様〉を、どこかで見た記憶があったがーー結局、どこで見たのかは、思い出せなかった。
ランプから目を離したジェラは、ゆっくりと、背後へ振り返る……
ジェラが、〈ムー〉のいる森の建物を出発したのは、まだあたりが深い闇に包まれた、真夜中だった。
もちろん、そんな暗闇のなかを行くより、東天に陽が昇り、明るくなってから出発したほうが、どれだけ安全でーー(長い髪、〈特殊能力〉があったとしても、一応はうら若い女性なのだ)ーー心持ちにもよかったかしれないが、目指す〈城〉まではかなりの距離があったことーーまた、陽が昇ってからでは、あの広大な街のなかを、激しく往来する人の大波を縫って、進んでいかなくてはならないことーー以上の二つを、闇夜に出発する苦痛と天秤にかけた結果、今現在に至るのだった。
ジェラは、〈ムー〉と出会って以来、どうしてもあの建物のなかへ、残しておくことができず、夜もまた、他のメンバーたちがいるであろう、〈キューア〉の宿舎へは行かず、〈ムー〉のいる部屋で過ごしていた。
そのため、アリーとも、倉庫で会話をした日を最後に、ずっと顔を合わせてはいなかった。
その一方で、ビクのほうといえば、なにかと理由をつけて、共に寝泊まりするようになりーー(ジェラは一言も、宿舎へ行かないようにとは言っていない)ーーそのビクが、街で手に入れてきた、自慢げな寝袋のようなもの(ジェラの分もあり、これには正直、すごく助かっている)にくるまって、大きないびきをかいている間に、ジェラはひとり、そっとおこさぬようーー〈ムー〉は暗闇に、大きな瞳をじっと開けて、静かに見送ってくれたーー建物を出てきたのである。
見上げればーーいつのまにか、天が白みはじめていた。
それでもまだ、かなり早い時間帯のせいか、あたりに人のすがたはなく、街は不思議な静けさに包まれていた。
ジェラの目がーー眠る街の景色に灯る、幻想的な銀色の光を見つめる……。
〈石橋〉の欄干にあるのと同じ、丸いガラスランプが、もうまもなく目覚めのときを迎える、街のいたるところで、輝いていたのだった。
「……〈ジーガ〉……」
つぶやいた、ジェラの耳にーー街のはずれから、荷馬車に乗せてくれた、〈西の大通り〉の近くで食料品を商う、ボンゴという名の、店の主人の言葉がよみがえってくる……。
前に二度ほど、ジェラが店に食べ物をもらいに行った縁で、二人は互いに、顔見知りだった。
そして、なんとも運が良いことに、ジェラは二時間ほど歩き続けて、ようやく街へ入った直後、荷を積んで、店へ向かおうとしていたボンゴと、ばったり出くわしたのである。
『〈城〉へ行くため、店まで一緒に乗せてほしい』と、白いものが混じった、クルクルと縮れた短髪をした、大福そっくりな丸顔をした主人に、ジェラが懇願すると、ボンゴは慌て転がるように座っていた御者台を降りてきて、『今すぐちゃんとした馬車をお呼びいたします』と、頭を下げるのだった。ジェラがそれを断り、荷馬車の後ろに乗せてほしいと頼んでも、二重顎をした店の主人は、その狭い額に玉汗を浮かばせて、失礼のないよう、丁重に断り、ついには地面へ平伏すのだった。
たとえ頼まれたとはいえ、〈城〉のお偉いさまのお客様を、このような粗末な荷馬車に乗せたなんてことが、他に知られれば、自分がどんな罪に問われるか、とても恐ろしいのだと、ボンゴは額と両手を地面へこすりつけたまま、震えた声に弁明した。
しかし、最後にはーー生来、人がいい店の主人は、呆然とし、見るからに顔色の悪い相手が、謝りの言葉に、フラフラとした足取りで去っていくすがたを、その場に見送り去ることはできず、恐れながらも、了承してくれたのだった。
ジェラが荷馬車の後ろで、布をかぶって揺られていると、御者台で手綱を握るボンゴが、〈ジーガ〉という、ジェラがはじめて聞き知る、〈帝国法〉のことを、少し話してくれた。
ボンゴの話によればーー〈ジーガ〉には、様々な決まりがありーー最も重要なものでいうと、〈髪に関すること〉であったがーーそのうちの一つが、〈城〉の近く、ある定められた範囲のうちは、〈南に向く城の大扉ーー通称、ダリア〉が開け放たれる時刻まで、大きな物音や、騒々しい音を立ててはならず、神聖な静寂を厳守することーーだそう。
自分の店は、ギリギリ、その範囲の外にあるため、こうして早い時間から、荷馬車を使うことが許されているのだと、ボンゴは安堵を滲ませた、囁き声で言うのだった。
ジェラがずっと気になっていた、街のいたるところに見える、銀色の光を灯す丸ランプについて尋ねると、ボンゴは、それも〈ジーガ〉の一つなのだと、教えてくれた。
ジェラはそうして、二時間ほど荷馬車に揺られ、無事にボンゴの店の前で降り礼を言うと、そこから先は、さらに一時間ほど歩いて、今いる〈城〉の前までやってきたのだった。
ふと……人の気配を感じて、ジェラの視線が向く……
四階建ての、いかにも立派な建物の入口から、人のすがたが、現れるのだった。
白く柔らかな羽織を纏い、しっかりと結わえられた髪型をした、上品な女将のような風貌の女性は、なぜかその手に、細長い棒のようなものを持っていた。
ーー若すぎず、年配すぎずの女性は、高い軒先に吊るされた、丸いランプへ、その棒のようなものをのばすと、慣れた手つきにすっと、外すのだった。
女性の手のなかに下ろされたガラスランプは、一瞬のうち、銀色の光を消した。
重たげなランプを抱えた女性は、再び瀟洒な建物のなかへと、すがたを消した。
その様子を眺めていたジェラは、ぽつぽつとーー目覚めの音が聞こえはじめた街に、静かに、背を向けるのだった……。